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社会人を育てる社会の力が求められている

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1950年代までは、就業者の半数が農業者であって、新人農民は、農業という現場を“農業大学”として社会人の訓練期間として過ごすことができました。<br>
 
1950年代までは、就業者の半数が農業者であって、新人農民は、農業という現場を“農業大学”として社会人の訓練期間として過ごすことができました。<br>
農業者から転換した就職型の新社会人はどうでしょうか。「農業大学」が機能していた当時は、並行する企業社会も新社会人を育てる要素はそれなりに機能していました。<br>
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農業者から転換した就職型の新社会人はどうでしょうか。<br>
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「農業大学」が機能していた当時は、並行する企業社会も新社会人を育てる要素はそれなりに機能していました。<br>
 
しかし現在は一部を除いてそれは期待できません。特に新入社員に即戦力を求めるようになった80年代後半以降は、悲劇的ともいえます。<br>
 
しかし現在は一部を除いてそれは期待できません。特に新入社員に即戦力を求めるようになった80年代後半以降は、悲劇的ともいえます。<br>
 
ここに非正規雇用という就業形態が持ち込まれてしまいました。今や全就業者の4割が非正規雇用になりました。<br>
 
ここに非正規雇用という就業形態が持ち込まれてしまいました。今や全就業者の4割が非正規雇用になりました。<br>
 
固定的な働く場が動揺していて新しい世代を社会人として育てるのはどこかわかりにくくなっています。<br>
 
固定的な働く場が動揺していて新しい世代を社会人として育てるのはどこかわかりにくくなっています。<br>
各人が一人勝手の育つのを待つ制度といっていいかもしれないです。<br>
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各人が一人勝手に成長するのを待つ制度といっていいかもしれないです。<br>
 
この数年少しずつ見えてきた準公的な性格をもつ自立と就業支援機関です。<br>
 
この数年少しずつ見えてきた準公的な性格をもつ自立と就業支援機関です。<br>
 
注意すべきはそこは仲介機関であって、職場ではありません。自ずと限界のある社会人養成機関です。<br>
 
注意すべきはそこは仲介機関であって、職場ではありません。自ずと限界のある社会人養成機関です。<br>
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2022年3月9日 (水) 13:50時点における最新版

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社会人を育てる社会の力が求められている

人が生まれ、成長し、社会の一員として生活する日本における条件は、この半世紀余の間にどのように変わってきたかを考えます。
まずは家庭内でことは始まります。かつては親族や近隣の中で(とかく干渉の多い迷惑な役割もありましたが)、そのなかで親子や家族内で子どもは育ちました。
この半世紀の間に子育ては個育てに変わりました。
全部とはいわないけれども、夫婦(少数ではあるがそのどちらかの祖父母)と家族の中で、多くは一人っ子としての子育て(個育て)が行われるようになりました。
ここを詳しく追求するだけで多くの要素はありますが、簡単に比較するためにここではこの程度にしておきます。
かなり多数の子どもは保育園・幼稚園時代を経験するのは全体として今日の新しい肯定的な要素です。

次は学校。学校はこれまでと同じように続いているようですが、現在の学校は“制度疲労”になっています。
不登校生の増大がこの状態を象徴していますが、その実数は増大しつつあっても数%の生徒でしかありません。
問題は不登校にならない(我慢し耐えている、のびのび感が少なくなった)子どもに及んでいます。
枠にはめられるというあいまいな表現よりも、古びた社会的ルールや実社会への適応を押しつけがましく迫られていると考えるのがいいと思います。
現状は息苦しい社会に備えて学校は予備訓練の場に様相を変えているのです。
1980年代にはすでに高校進学率は90%を超え、90年代には高校は事実上“準義務教育”になっています。
日本人の緻密さを求める性向は教育にも及んでおり、そのぶん教育を通しての“人間均質化”の程度は効果を発揮します。
学校については、この10年間に制度面で少し柔らかな面が出てきたと指摘するにとどめます。
それは子どもの問題は進歩的であるとか保守的であるには関わらない抜き差しならない問題だからです。
もっともこういう事態に危機感を持つ復古的な動きがあることも事実です。
今日ではすでに大学進学率は50%を超え、大学院進学も珍しくはありません。
これらを総じて考えると、大学卒業者に限ってみても、社会に入り社会を動かす力ができるかどうかはおおいに疑問になります。

若い世代が学校を終えても社会人になれない状況全体を、学校に責任を押しつけるのはおかしなことです。
また若い世代の個々人に押しつけるわけにいきません。
この点を政治の批判材料にする予定はありませんが、政治がその重い一端は負わなくてはならないことも確かです。

かつては、学校を卒業すれば(中学であれ、高校であれ、大学であれ)相応の社会人として生活できる条件がありました。
しかし現在では素直にそうは言えません。
言い換えますと、家庭、学校を次ぐ人を育てる場である社会に、社会人を育てる力が弱まっていると思うのです。

1950年代までは、就業者の半数が農業者であって、新人農民は、農業という現場を“農業大学”として社会人の訓練期間として過ごすことができました。
農業者から転換した就職型の新社会人はどうでしょうか。
「農業大学」が機能していた当時は、並行する企業社会も新社会人を育てる要素はそれなりに機能していました。
しかし現在は一部を除いてそれは期待できません。特に新入社員に即戦力を求めるようになった80年代後半以降は、悲劇的ともいえます。
ここに非正規雇用という就業形態が持ち込まれてしまいました。今や全就業者の4割が非正規雇用になりました。
固定的な働く場が動揺していて新しい世代を社会人として育てるのはどこかわかりにくくなっています。
各人が一人勝手に成長するのを待つ制度といっていいかもしれないです。
この数年少しずつ見えてきた準公的な性格をもつ自立と就業支援機関です。
注意すべきはそこは仲介機関であって、職場ではありません。自ずと限界のある社会人養成機関です。
そこが家庭や学校に次いで新人社会人を育てる場に浮かび上がってきました。
その努力はときに驚くほどのばあいもありますが、全体としてはまだ低調です。
ましてや企業社会に社会人を育てる力を求めるのは、(一部の例外を除いては)もはや無理ではないかと思えるほどです。

低調であり効果的ではないと思える理由はいくつか考えられます。
私もいろいろ考え試したこともありますが、妙案があったわけでもないし、わかっていないこともあります。
振り返って思うに低調あるいは効果的でなかったのは、個人の心理的な対応に傾いたことや、想定される前途が就職型になる方法が関係するとみています。
家庭にも学校にも社会的な力を育てる意識的な取り組みは不足しているのは確かでしょう。
そして学校を終えたところで社会に入っていけない若い世代が多数出現しているのを前にいろいろな制度を整え始めてきた。
これがこの20年近くではないでしょうか。

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