あの頃のこと①
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2021年12月25日 (土) 11:41時点における最新版
あの頃のこと①
松村淳子(助走の場・雲)
現在、私は高田馬場で不登校・ひきこもりの青少年のフリースペースと子どもの貧困対策としての無料学習支援を学生たちと行っています。
「NPO法人助走の場・雲」| 不登校・引きこもり支援 (wixsite.com) の活動です。
この「助走の場・雲」は2006年発足の「親と子の相談室 空」の活動の延長線です。
「助走の場・雲」発足前は主に不登校の親御さんの相談室として活動をしていたものです。
この相談室を始めるに至った経緯を今回はお話ししましょう。
筆者自身の長女が1995年中学一年生の時に不登校になりました。
若い体育科の担任教師の指導が合わなかったということは引き金に過ぎず、思い返してみると小学校6年生の時の担任の女性教師から目をつけられてクラスのみんなの前で代表で怒られていたことがありました。
反抗期に入ってちょっと斜に構えていた彼女の目つきが中年のその女性教師には引っかかるものがあったのかもしれません。
それ以来教師(親も含む大人かもしれません)に対して何か不信感を持っていたのでしょう。
結果として中学の3年間はほとんど登校せず、卒業式も別室での卒業証書の授与でした。
当時は「不登校」が何か特別に足りないもの、「親の育て方が悪いからだ」などという意識が一般的だったような気がします。
不登校とその親ということで社会から孤立してしまっている感覚が今以上に強く、私も母親として「一生懸命育ててきたつもりなのに、あなたの子育ては失敗!」という烙印を押された気分になり、苦しい思いをしてきました。
無理やり子どもを登校させようとしたり、娘と闘ったりと今思い出すと申し訳ないことのオンパレード。
今だったら「お母さんそれはちょっとやりすぎですよ」と言いたくなるぐらいの言動もあったような気がします。
それらで娘はますます心を閉ざし、中学の3年間はほぼひきこもり状態のどん底の生活でした。
母親である私も苦しかったのですが、当事者の娘はどんなに苦しかったことでしょう。
学校にも行けない、家の中にも居場所がないという状態だったのですから。
まあ、その中でも彼女の担任教師やその他援助してくださる方の力添えのおかげで何とか持ちこたえてきたわけです。
その後、ひきこもっている彼女が偶然見たテレビ番組で不登校経験をしても元気に登校している高校生とそれを受け入れる多様性のある学校(現在の都立チャレンジスクールの前身の都立代々木高校)に行きたいと言い出し、二人で話を聴きに行きました。
その時対応してくださった当時の副校長先生に傍らの娘がちゃんと自分のことを話し、先生はそれをしっかり聴いて娘と対応してくれているのです。
本当にいつもの娘の様子に慣れていた母としては目を見張るものがありました。
「それでも、ここに入るためには都立校なんだから受験しなきゃならないんだよ」と伝えることはちゃんと本人に伝える先生のその姿に感激したものでした。
この先生の学校に行きたいと娘もがんばって勉強をし、なんとか希望通りの高校に入れたことが彼女の自信にもつながり変わっていった第一歩だと思います。
無事その高校に入ったのはよかったのですがその後もまだまだ娘の苦しい状態は続きました。
そんなすぐに180度変化するなんてないですものね。その後もまあ、いろいろあったのですがね。
でも、この出会いが彼女のターニングポイントであったのは間違いのないことです。
後で聞いたことですが、そのころネット上で知り合った、自分の子どもが不登校だという親とメールのやり取りをしていて、「大丈夫ですよ。私はこう感じましたよ」などと自身の経験を踏まえてアドバイスをしていたようなんです。その時のその親御さんにとっては子どもの気持ちを知るためのよい相談相手になっていたのですね。
当事者の声ですからね。
今思い返すと、なんだかおもしろいことでした。
まあ、そんなことも刺激になり、母親である自分も「あとから続く不登校の親御さんの相談に乗りたい」ともう一度勉強をし直し、不登校の子を持つ親に同じ苦しさを味わった「ピア」として相談に乗りたいと思い始めたわけなんです。
長くなりました。今回はここまでで。