劣化する支援
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2024年12月12日 (木) 08:59時点における最新版
劣化する支援
「死」を知らないニッチNPOが主流になった悲劇
■ジンケン@広島
9月のなかば、僕はこの1年毎月続けてきた「劣化する支援」というイベントを広島で開催した。
当欄でも以前、東京での試みを報告している(中流層の感受性の鈍さは貧困層には暴力そのもの~「劣化する支援@東京」)。
広島でのテーマは「人権/ジンケン」だった。
ソーシャルインパクト評価重視を背景とした成果指標主義(若者就労支援であれば「どれだけの若者の数が就労できたか」とその「数」を問う)がNPO/ソーシャルセクター業界を席巻する現在、たとえば高齢ひきこもりや虐待サバイバー等、支援にとって最も重視する必要のある潜在化され抑圧された人々のあり方を見つめる必要があるのではないか、その抑圧された人々を見つめるということはつまり、「人々の人権を守る」ということでは? と問いたかったからだ。
ソーシャルインパクト評価の問題点については以前当欄にも書いた(数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)。
新自由主義を背景にした、行政の効率を問うこの思想を僕は嫌いではない。
ドゥルーズ的「群れ」の思想とこの新自由主義は親和性があるように思えるが、一方ではデリダ=スピヴァク的「サバルタン」の思想からすると、新自由主義こそがサバルタン=真の当事者を生み出している。
■ソーシャルインパクト評価では測れない部分
いや、哲学などを持ち出さなくても、ひきこもり支援をしているといつも感じる「ひきこもりから脱出して支援施設に繋がるまでのモチベーション構築と行動化」という、支援にとって最も困難な部分が、成果指標型のソーシャルインパクト評価では測れない。
面談に到達した人数の前に、本人が面談に出かけてもいいと感じるその瞬間は、その瞬間の本人にはなぜ動くことができたたかわからないだろうし、数年後に振り返ってもその理由は自分でもはっきりわからない。
当然、親にもわからない。
つまり、「当事者」は語れない。
哲学者のスピヴァク が『サバルタンは語ることができるか』のなかでしつこく語りかけ、僕も当欄で以前述べた通りだ(「当事者」は語れず、「経験者」が代表する~不登校から虐待まで~)。
一方、ソーシャルインパクト評価は、わかりやすい指標を求める。
若者支援であれば、就労につながる面談、履歴書の書き方講座への参加、就労実習の体験、実際のアルバイト体験等、目に見えてわかりやすい「成果」をそれは求める。
だが、地域若者サポートステーションを訪れる若者のうち、どれだけがそうした「成果」と結びつくだろう。
年間1万数千人の社会参加した数と、60万人とも70万人とも言われるニート・ひきこもりの数のギャップが、その成果の虚しさを示す。
が、行政予算削減=小さな政府化が主目的の新自由主義=ソーシャルインパクト評価からすると、ニート数削減の実態よりも、「行革しながら成果を少しでも出す」ことが重要だから、皮肉なことに成果数自体は二次的になる。
■ニッチ=傍流
成果を求められながらそこそこの数でもいいこの「ゆるさ」「軽さ」は、NPOの支援の水準もゆるめに落としてしまう。
また、こうしたソーシャルインパクト評価に群がるNPOたちは、子ども支援のなかでは「傍流」に位置してきた。
それは、学習支援、塾クーポン配布、高校生の「語り合い」等、それなりに評価はされてきたが、虐待や貧困への個別ソーシャルワーク支援という支援主流からすると、あくまで「傍流」だった。
その「傍流」度合いが、NPOをNPOとして魅力的にしていた。
傍流=ニッチこそが、NPOの特徴であり、そこから生まれたのが子ども食堂であり、学習クーポンであり、高校生の語り合い事業だったのだ。
それらの脆弱さをいまさら嘆いても仕方ないが、個人情報守秘の厳格さが行政に求められ、そうした情報の取扱いが行政内で大議論になっており(児童虐待問題における警察と児童相談所の情報「全件」共有等)、そう言われながらもたとえば「生活保護」行政セクションにおいてはいわば素人的担当者が数年ごとに移転配置される現在、相対的に行政が弱くなった。
貧困支援でいうと、個人情報をもとに関係機関が個別ケースに応じて柔軟にケースワーク支援する行政の動きが見えない。
素人担当者が、個人情報漏洩をなによりも恐れ、それの応用を組織全体で示し現場を守ることができにくい。
個別ソーシャルワークがいま、揺れているのだ。
そのとき、現れてきたのが、これまでニッチだったNPOだと僕は捉えている。
まったく現実的ではない「警察と児相の情報全件共有」の提案などは、ニッチ=半分素人の案だと僕は思っている。
もっというと、支援の最前線で唐突に訪れる「死」を、それらニッチたちはたぶん知らない。
そうしたシリアスさを知らないことの朴訥さがこれまで彼女ら彼らの微笑ましい特徴だったが、個別ソーシャルワーク(行政)が相対的に低下した今、そうした朴訥さは、たとえば「全件共有」のような非現実的(だが一部権力からするとありがたい)な無邪気な提案となって示される。
ニッチ/傍流のかわいさがいつのまにか引っ込み、権力の美味しさをすっかり味わい始めている。
その結果、真の当事者(たとえば虐待サバイバーや高齢ひきこもり)が潜在化し、「ジンケン」という言葉の意味が漂流しているようだ。
〔2018年10/9(火)田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕