Center:2007年6月ースナップ写真を張り出すこと
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目次 |
スナップ写真を張り出すこと
〔『ひきコミ』第46号=2007年7月号に掲載〕
(1)引きこもり的人の 「行動しない・表現しない」の背景
ある人が通所している数人によびかけてある場に一緒に行きました。
そのときの記録のスナップ写真を撮ったのですが、それを不登校情報センター内に張り出すかどうかの相談を受けました。
何でもないことのようですが、引きこもり経験のある人、というよりは対人関係を細かく点検する人にとっては、ときどき遭遇するアクシデントのように思います。
これについて考えてみましょう。
一緒に行った人のなかで写真をみせあうのは何でもないでしょう。
世の中では、一緒に行ったとか行かなかったとかに関係なく、このようなスナップ写真を適当な掲示か所があれば張り出していくのに支障はありません。
ところがそうは考えられないで躊躇するのが、対人関係を気にする人の特徴です。
それは一緒に行かなかった人、さらには「一緒に行こう」と声をかけなかった人のなかにマイナス感情をもつ人が生まれるのではないかと気遣うからです。
自分たちで勝手に一緒に行ったのだから、不登校情報センターという一緒に行っていない人もいる場に張り出すのはおかしい、と思う人が出るかもしれないとどこかで不安が芽生えるのです。
世の中では考えられない程度のささやかな感情の働きですが、それを鋭く予測し、先回りして対処しようとするのです。
このような自己点検をした結果は、「スナップ写真を張り出さない」という結論になります。
表現しない、行動しないという結論に至る背景にはこのような心の働きがあります。
これはこの件だけではなく、日常のさまざまな事柄で生じていることです。
これは外見上、静かで落ち着いた雰囲気に見えます。
しかし、よく観察してみると一人ひとりのところでは何かエネルギーが抑圧され、わずかですがよじれくねっていることがわかります。
これは感情を抑制して生きているためで陰性エネルギーが満ちていくからです。
(2)私がスナップ写真の掲示を許可した理由
私はこの相談を受けたとき、「張っておいたらいいよ」と答えました。
それはスナップ写真を張り出しておく程度であれば、大きな感情的な動揺をひき起こすものではない(?)と判断するからです。
といってもそれは見た目には小さな波を土用波ほどの大きさに感じとる感性の持ち主にとっては乱暴な対処のしかただと思うかもしれません。
私はその程度のものであればこそ感情の波を経験する必要があると考えるのです。
結論を先回りして言ったようなのでもう少し丁寧にいきましょう。
スナップ写真を持っている人は、その行動を表現していいのです。
写真を手渡すとか、一緒に行かなかったけれども「どうだった?」と関心を持つ人に、何らかの結果報告をする手段を自制しないでいいということになります。
これは日常のいろいろな場面でそういうことが必要なのです。
一緒には行かなかったけれども、「写真なら見たい人」もいるでしょう。
そのときの都合で行けなかった人がいます。
一緒に行くメンバーで気になる人がいるので同行できなかった人がいます。
もともと行くつもりはなかった人がいます。
行くつもりはなかったが、わざわざその結果を知らせるのはどうかと思う人がいます。
前述の「行った人の中だけで写真を渡せばいい」と思い、張り出さなくてもいいと思う人もいるかもしれません。
もっと違った感覚の人もいるはずです。
しかし、どういう人がいるのかを全てを予測することはできませんし、予測しなくてもいいレベルの話です。
点検のしすぎですが、これは周囲の人への配慮がずいぶん広いところまで及んでいるためです。
周囲の人への配慮と自分を抑制して生きることとは一つのことの両面です。
(3)マイナス感情(=苦味)への免疫性がつくと、社会へ出やすくなる
この中で問題になるのは、スナップ写真を張り出すことによって、マイナス感情(陰性反応)を引き出す人です。
そういう人がいるかもしれないから、配慮しようとするのです。
しかし私はそういう人にもこのような体験を積むことは必要だと思います。
もちろんたとえばうつ症状がきついときなどは避けた方がいいのですが、そのような人はスナップ写真の張ってある不登校情報センターに来ること自体がかなわないでしょう。
そのようなマイナス感情の小さな体験はそれだけが単独に存在するのではなく、そこに対人関係にまつわるいくつかの要素が複合しています。
そこにはプラスもあります。
人にいる場とはそういう要素をプラスもマイナスも複合しているところです。
対人関係の修業というのは、じつはこのマイナス感情を同時に経験しながら、それ以上の要素も吸収していく過程だと私は信じています。
対人関係づくりに、陽性のものを求めてそこに少しの苦味(マイナス)がまじっているとその場から逃れたくなります。
その苦味の程度によってはその場を回避する必要は認めますが、それは同時に必要な栄養素を摂取する機会を失っていることでもあります。
むしろ苦味への耐性(免疫性?)をつけることが、人としての成長に必要なのです。
だから、少しの苦味のある要素もとり入れながらもっと重要な要素をとり入れる、経験する、それが人間関係づくりです。
それは少なくとも対人関係がことさら気になる引きこもり経験者にとっては修業になるのです。
それが引きこもり経験者にとってのフリースペースの役割の重要な一面です。
世の中にはこのような苦味、あるいは苦味のある人がいっぱいいます。
いやもっと強い毒味・嫌味といった方がいい人もいるでしょう。
いまの日本はそういう人が増えています。
それだけに警戒心をひきおこされ、対人関係を慎重に点検する人も多いのです。
フリースペースで苦味を修業するのは、それが社会に入っていくある種の力を得ることだからです。
それは社会性とか心が育つとか、精神的に自立するといってもいいものです。
その本質や背景は、耐性が強まることが自己防衛力を強くすることだからです。
フリースペースでなんとなく人と一緒にいることは、一面では苦しいつらいこともあるでしょう。
かといって一人でいると寂しいし、孤独感で自滅しそうになるのを防いでくれます。
そこでフリースペースに来る人と話せる場、人の雰囲気を感じる場に来るのです。
しかしそこにはそこにまた別の苦味があって、それを避けないでいても心身の状態が安定していくと、社会に入っていけるのです。
「スナップ写真を張り出す」のは、その結果報告ではなくて、その周辺ではこのようなことを生じさせる可能性がある。
だからそれはおすすめだよ、といいたいのです。