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Center:2007年1月ーカウンセリング、セラピー、ヒーリングの施設データ集め

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心の問題のセラピーとは、まずこのあたりに関係することです。<br>
 
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この私の考え方のベースの上に、WHO(世界保健 機構)の健康の定義が加わります。<br>
 
この私の考え方のベースの上に、WHO(世界保健 機構)の健康の定義が加わります。<br>
WHOがそういったからというのではなく、私が漠然と思い描いたことをWHOが具体的な言葉で表現したということです。
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スピリチュアルカウンセラーがWHOのいうスピリチュアルと 同一の潮流にあるのかどうかは私にはわかりません。<br>
 
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私が関わっている引きこもりの人たちの中には、スピリチュアルなもの(私の感じるのは生き生きとした生命感)が不足していると思うこともしばしばです。<br>
 
私が関わっている引きこもりの人たちの中には、スピリチュアルなもの(私の感じるのは生き生きとした生命感)が不足していると思うこともしばしばです。<br>
それこそがその人の最大テーマとも思えることもあるので、私はWHOのこの新しい定義づけには強く賛同します。<br>  
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このような問題の所在も十分に自覚しておいてほしいと願います。<br>  
 
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セラピーが反科学であったり、それを絶対化することには賛同できません。<br>
 
しかし、現代の状況やそのクライアントにあったものであれば、頭から排除するやり方は、今日的ではないと思えます。<br>
 
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そう意味で、私は非常に多くのカウンセリング、セラピー、ヒーリングの施設を第一次の情報として集めています。<br>  
 
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目次

カウンセリング、セラピー、ヒーリングの施設データ集め

〔『ひきコミ』第40号=2007年1月号に掲載〕

カウンセリングルームのホームページを見つづけています。
少なくとも全国の1000か所のホームページを散見以上はしたはずです。
そこには心理相談室はもとよりヒーリング施設やセラピールームも入ります。
これは近く、「相談先探し情報インフラ」(仮称)と銘打つ、不登校、ひきこもり、発達障害の対応・支援団体の大規模な情報検索ガイドを制作しようとする準備です。
手元には基礎データとはいえ合計3000団体近くの不完全な相談・療法先のリストが集まりました。

この準備作業は、さらに続きますので、データとしては少なくとも5000以上の団体施設に達するでしょう。
これらの各団体が制作しているホームページを拝見しながら考えたことを以下に述べます。
なお表記上、カウンセリング(カウンセリングルーム)、セラピー(セラピールーム)、ヒーリング(ヒーリングルーム)と重なるのはわずらわしいです。
主にセラピー、セラピールームを代表して記載します。

(1)「カウンセリングは占いみたいなもの」…20年前の医師

ふり返ると20年も前のことがうかんできます。
ある精神科医のところでカウンセリングの役割を尋ねたことがあります。
精神科系の医療状況をおききしたのですが、その中で医師は、「カウンセリングというのは、占いみたいなものなんで」と話したのです。
それは今日の日本の精神科医療が投薬中心になっている現状を、1医師(といってもその人は精神科医療の全国組織の役職者)の端的な認識を示したものでした。

私は、カウンセリングとそれにつづくセラピーやヒーリングが無条件に、人の心を支える役割をするものとは思っていません。
しかし、“心の時代”を迎えた日本を見渡せば、カウンセリングとセラピーとヒーリングが満ちあふれています。
それを担当する“専門職”の人もたいへんでしょう。
その大波のなかでただ自分を救ってくれる、自分にとって役立つ心の支援者を求める“クライアント”(相談者)は、まるでその大波に翻弄されるばかりではないかと思います。
そこを整理、整頓する気持ちです。

カウンセリングとセラピーとヒーリングは同一ではありません。
それぞれを日本語に置き換えるならば、相談、療法、癒しとなるでしょう。
しかし多くの施設(ルーム)は言葉をそのように置き換えていません。
そこにも何かの意味があると思います。
その手段・方法になると初めて聞く言葉も多く、しかも書かれる人によって表現も微妙に異なります。
私がそれらを正確に表わすのは困難というよりも不可能です。
特に、ヒーリング(癒し)の方法といわれるものはその傾向が強く感じます。
この「相談先探し情報インフラ」に納めること自体に疑問をもつ人もあらわれるだろうと思います。

しかし、私はそれでもそれらのルーム(施設)をここに入れるだけの意味、役割はあるし必要であると思います。
30~40年ほど前に、健康と病気の間に、「半健康、半病気」という概念が設けられたのを思い出します。
それらは特に精神(心理)面の不安定さによったのです。
そして心と体は結局は一緒のものですから、心に表われることは体の問題としても考えなくてはなりません。
違った言い方をすれば、心の問題とは、体の中の物質の作用によるものです。
それは、体内の化学物質とか酵素とか身体内微生物の働きを伴っていることにも注意をむけなくてはなりません。

心の問題のセラピーとは、まずこのあたりに関係することです。
この私の考え方のベースの上に、WHO(世界保健 機構)の健康の定義が加わります。
WHOがそういったからというのではなく、私が漠然と思い描いたことをWHOが具体的な言葉で表現したということです。
WHOは健康を次のように定義しています。

「健康とは・・・完全な身体的(physical)、精神的(mental)、霊的(spiritual)及び社会的(social)にダイナミックに良好な状態であり、
単に疾病又は病弱の存在しないことではない」
“Health is a dynamic state of complete, physical, mental, spiritual and social well-being
and not merely the absence of disease or infirmity.”

WHOは健康の定義のなかに「霊的(スピリチュアル)」であることを条件に加えたのです。
日本でも近年スピリチュアルが評価され、スピリチュアルカウンセラーという人も表われています。
スピリチュアルカウンセラーがWHOのいうスピリチュアルと 同一の潮流にあるのかどうかは私にはわかりません。
私が関わっている引きこもりの人たちの中には、スピリチュアルなもの(私の感じるのは生き生きとした生命感)が不足していると思うこともしばしばです。
それこそがその人の最大テーマとも思えることもあるので、私はWHOのこの新しい定義づけには強く賛同します。

(2)セラピー、ヒーリング、スピリチュアルを科学の目で見る

私が実感するスピリチュアルの不足は、おそらくは人間としての生命本能を抑制してきた(抑制させられてきた)その人の生育歴に深く関係しています。
乳幼児期の虐待や無視(阻止体験)はこのスピリチュアルなものを身につけるのを妨害したのではないのか。
小学校、中学校、高校時代に執拗ないじめを受けた人はこのスピリチュアルなものが破壊されたのではないのか。
そんな気がしています。

それらに対処する個体維持(生命本能の発露)の方法が感情の抑制や対人接触の場からの撤退ではないのか。
その延長にあるのが引きこもりではないか・・・と考えるのです。
それを身体面の様子でいえば、神経系とくに脳の前頭葉部分の未成熟・未発達をまねいているのです。

精神医学や心理学や教育学という科学につながる技法・療法・手段から離れて、ヒーリングとかスピリチュアルなものに目を向けるのは、おかしいのではないか、堕落ではないかという人がいるかもしれません。
私はその前提には大きな誤解があると思います。
少なくとも一度白紙に戻してみることが必要でしょう。
それは「科学」を誤解しているのです。
私はかつて、ある人が会社の経営状態を数字にし、それをもって「私は経営を科学的に行っている」と話したのをきいたことがあります。
科学をその程度に表面的に認識しているのです。

じつは数学は科学ではありません。
冗談か出まかせと思う人がいるかもしれませんが、本当です。
日本語など言葉が科学でないのと同じです。
これに関しては、中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」『こころの科学』(2002年1月号、日本評論社)を見てください。
この論文は精神療法と科学の関係を深く解明したものです。
中井さんは「精神療法は科学ではないが、それは精神医学が科学でなく、いや医学(近代医学)が科学でないのと同等の意味においてである」といっています。
なぜ医学は科学ではないのかと自問し、犯罪学者でもあるエランベルジェの説を引用します。

「犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは『疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが論理的に出てこない』と強調している。
彼によれば、犯罪学と医学は『科学プラス倫理』」であると喝破しています。

科学を否定しているとか反科学的なのではありません。
スポーツも、遊びも、日常生活も、ことばも、学習も歴史も・・・すべて科学ではありません。
しかし、科学の視点でそれを見ることでそこに深層の法則性を認めることができるのです。
セラピーも同じです。
その法則性は科学に根をもつものでしょう。
日常的には経験則によって、その一端に近づくことができるのです。
セラピーやヒーリングやスピリチュアルなことを、スポーツや遊びを科学の視点で見るように科学の視点で見ていくことです。
そうしたからといってスポーツや遊びが科学になるのではないありません。
同様にセラピーやヒーリングやスピリチュアルなことが科学になるのはありません。
しかし反科学とはいえないのです。

(3)人間の生命本能をよびさまし、スピリチュアル要素をひき出すもの

セラピーは多様です。
いろいろな学派がいろいろな技法、療法、手段、方法を編み出し、役立てようとしています。
私がひそかに尊敬する臨床心理家はこれらいろいろな療法や手段を目の前のクライアントにあわせて、活用しています。
その人はそれを折衷主義と謙遜しています。 中井さんは、精神療法は、いろんな流派・方法を「レシピー」(調理法)するものであり、それは折衷主義になって当たり前と言います。
いろんな流派・方法のなかには、医学や心理学の立場から広く認められているもの、たとえば箱庭療法とか自律訓練法のようなものばかりではありません。
私が今回、莫大な数のホームページで見て感じたことは、それは私たちが日常感じている、勇気づけられたものや自然に生命感をよびさますさまざまな方法が、取り入れられていることです。

たとえば「花」はどうでしょうか。
フラワーエッセンスとかフラワーレメディというある種のセラピーになっているのはそこに関係すると思います。
私はこれらのセラピーを具体的には知りません。
正確な表現もできませんのでごくおおまかな事情をさしていると考えてください。
それらに分類されるものをあげてみましょう。
ペット・動物、音楽、スキンシップ、言葉・格言、宝石などのきれいな石、ゆったり座っているなかでの軽い振動などはこれに当たるように思います。
考え方(思考方法)によるものには、いくぶんは伝統的な宗教的環境のなかで維持されたものもあります。
スローライフ、タオ(道教)的思考、座禅、瞑想、栄養(ダイエットやサプリメント)、修業・儀式、風水。

日本が近代を迎えた19世紀から20世紀にかけて、これらの方法などには “非科学的”あるいは非合理的なものとして消滅したものもあるはずです。
それがある種の社会集団のなかで継承され、今日の“心の時代”に再び陽の目を見ているように思えます。

これらの多様なセラピーによりクライアントは、何がしかの感動をよびおこし、感情をゆり動かします。
結局は人間の生命本能と結びついたもの、個体維持と種族維持の力をひき出すものになっているのです。
そうであればあるほど、これらのセラピー(しばしば物と結びついている)は、スピリチュアルな面での効果があると思います。
紛い物もあるけれども、人間の生命本能をよびさまし、スピリチュアル要素をひき出すものもある。
それがセラピー、ヒーリング施設を調べた理由です。

(4)“直す”ことに集中しないことこそ大切

私はここでプラセボ(偽薬)効果的なものを考えていいと思います。
セラピーは投薬とは違いますから偽薬(プラセボ)はありません。
改善につながる思い込み的方法といいましょう。
セラピストとクライアントの関係、とくにセラピストの技量や人間性にかかわって、このようなものが効果をもつと思えることです。
これは医学が「科学プラス倫理」であるのと同じくセラピーは「技法の合理性プラス倫理」が求められることになります。

また「当セラピールームはいかなる宗教とも無関係です」と表示しているところもあります。
技法や流儀が伝統的な宗派のなかで保存されてきたけれども、それらとは一線を画することを明示しているのでしょう。
技法以外には何の関係のないセラピストもいます。
逆にまた宗教者の立場を明示しているところもあります。

強い倫理性のなかでは、大局的には両者に大差はないように思います。
まずそれが実際に役立つこと、セラピストの強い倫理性が守られていること、宗教的な要素がおしつけにならないことが前提ですが。
そのうえで反科学ではないことも大切です。
といっても科学の視点からそのセラピーを解明したり評価するのはそう簡単なことではありません。

現代の科学の手の届かないところにあるものも多いのです。
使用している用具などが人体にとって無害か有害かという周辺の一部に関与するところから科学との接点が生まれるのかもしれません。
セラピーの中心部分は謎のまま取り残されることが多いのです。
ましてやそのセラピーによる精神的(心理的)な条件や要素が、人体にどのように働くのかは、相当にわかりづらく、質量などを表示すること自体は困難なのです。
しかし、それは反科学ではなく、科学に対して開かれており、可能ならば協力できることが望ましいのでしょう。

おそらく、かつての“科学”では効果が証明されなくては科学的といわれなかったのでしょう。
いまは効果があると証明されないとしても、それだけで“非科学的”とはいえないるように思います。
科学はそれだけ謙虚にまた力強くなったし、それだけの懐の深さも求められているのです。
「スピリチュアル」という言葉がWHOの健康の定義に加えられることは、科学のとらえ方のこの反対面に目を向けることになると思います。

セラピーやヒーリングを考える際に、もう1つの現実的な要素があります。
それを継続するには(主としてセラピーやヒーリングによって)収入を得なくてはなりません。
これが文化的背景によって、あるいは新しいサービス業であることによって、日本人のなかにはすぐには溶け込まない事情があります。
これを埋める役割をするのがモノです。
モノの販売、たとえばハーブとかアロマ(芳香)の販売、健康食品やサプリメントの販売を組み合わせです。
こうしたセラピーの普及方法が(セラピストには不満のある表現かもしれませんが)重なっているように思います。
神社や寺院におけるお守りや祭儀用品の販売と似た(?)方法です。
私はこれらに関しても大目にみてもよいと考えています。

各種のセラピーが普及・定着するにはある程度の時間を要するわけです。
その過程では、その程度によっては許容されてもいいのではないですか。

見すごしてはならないと私が考えていることもあります。
カウンセリング療法のなかには、その人を社会に適応させる、社会復帰をめざすあまりの「倫理面のゆがみ」をもつものもあります。
社会は大局的には正常である。
その前提のうえにその社会に適応させようとする技法が巧妙に取り入れられていることです。

人はその社会で傷つき、苦しんできたのです。
その大部分の人はその社会に適応しているのです。
だから目の前のクライアントもその社会への適応が目標になり、それは可能であるとする発想です。
それが強まっていくと、実はカウンセリングの倫理面がゆがむのです。

社会のゆがみを告発する人はしばしば少数者です。
クライアントは、社会のゆがみを自分の心と体で察知し表現している人間なのです。
その背景に目を向けず“直す”ことに集中するカウンセリング・セラピー・ヒーリングは、実は大事な問題を見すごします。
とはいってもこれは日常のクライアントに接する場面で個々に摘出することは困難も多いものです。
このような問題の所在も十分に自覚しておいてほしいと願います。

セラピーが反科学であったり、それを絶対化することには賛同できません。
しかし、現代の状況やそのクライアントにあったものであれば、頭から排除するやり方は、今日的ではないと思えます。
そう意味で、私は非常に多くのカウンセリング、セラピー、ヒーリングの施設を第一次の情報として集めています。
これらのうち、不登校・ひきこもり・発達障害と・・・それらの根源としての対人関係の感情問題に対応しているところを第二次の整理された情報リストにまとめようとしているのです。

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