Center:2009年6月ー「訪問の拒否」から考える
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「訪問の拒否」から考える
〔『ひきコミ』第68号=2009年7月号に掲載〕
私は引きこもりの人への訪問を重ねています。
学び、考えることは多くありますが、今回は訪問の拒否を考えてみましょう。
引きこもりになっている当事者が、“支援”として訪問サポートを断るのは理由があります。
それは複雑な要素と過程があり、その全体を説明することはできません。
「訪問の拒否」には少なくとも3つの要素があり、それがわかるだけでも一通りのことは了解できるでしょう。
3つとは、(1)訪問者自身の拒否、(2)家族への拒否、(3)「自分の状態」の拒否です。
その要素が組み合わされて表面の言動(話さない・動かないを含む)になるのです。
[1]訪問者または訪問自体の拒否
訪問者、訪問自体の拒否をまず考えます。
訪問者と直接に顔を会わせてからの拒否は珍しいことになります。
それはたとえば次のようなときではないかと思います。
(1) 突然の訪問-訪問を受ける心の準備ができていない。予定外の事態よる拒否です。
いったん訪問をOKしていれば、緊張をしていても予定外のことではありません。
その際も拒否はありますが、それは以下の(2)(3)の理由と考えられます。
(2) 生理的な理由-主に引きこもり当事者の経験や感覚によるもので、相性が合わないと考えます。
この(1)(2)は、当人が訪問を受入れるには心理的な条件ができていないためです。
それがどの程度なのかを、推し量るチャンスがここでうまれます。
手順を経て訪問をすすめる、訪問者をかえてみる、するとどうなのか。
拒否された後に少し時間をおいてから試みるのがいいでしょう。
初回のつまずきが大きなしこりになっていなければ、本物の訪問は始められる可能性があります。
そのつまずきが大きかったり、もともとの心理的状態が不安のときは、訪問はまだできないでしょう。
この試みで訪問が可能か否かにより、当事者の様子を知ることができます。
この点からも、訪問を始める前の最初の手順は大事にしたいのです。
(3) 訪問者の言動にたいするストレス-引きこもり生活者を尊重しようとしているのかどうか。
そこに不安があれば、訪問は拒否されてしまいます。
当事者は訪問者を判断する材料を家族から受け取ります。
また訪問者が家へ入ってきていれば、会わないまでも観察をしています。
当事者にはインターネットの利用者もいます。
訪問者(訪問団体)をネットで確認しようとします。
ネット上の情報は必ずしも肯定的なものではありません。
しかし、それ以上に影響があるのが、当事者の意志に反して外に引き出していく“訪問支援”の方法です。
訪問をそう考え、当事者をびくびくさせてしまいます。
実際にこの状態の緩和に時間を費やすこともあります。
それを余分なことと考えないで、こちらの姿勢をはっきりさせる機会にするのがいいようです。
家族からきいたことがよさそうであれば、訪問を受入れます。
しかし、その受入れは不安のあるものです。
これは家族との信頼関係に左右されます。
うまくいけば家族への信頼は高まります。
家族の説明によりつくられたイメージと違うと、家族との信頼関係も揺らぎます。
自宅を訪問しているサポーターに、自分のほうから会う形であれば、その後の訪問サポートが続きやすいのはあたりまえです。
しかし、このばあいでも家族からの無言のすすめに動かれやすく、ときにはそれが無理につながっていることもあります。
このときもうまくいかなければ、家族にその責任が向けられます。
この気分を緩和し、訪問を続けてもいいという気分にするのは訪問者の雰囲気です。
焦らせない、会うのが楽しみになる、その工夫、材料を人間性のなかで探すのです。
差し当たりすることがないときは、あまり話さない、動かない。
不都合でなければ短時間で退去する。
これも柔軟に考えていいでしょう。
訪問時間を長くすること自体は目的ではなく、継続できることを重視したいです。
訪問者に向かって直接に「来ないで」「家に入らないで」などのことばは、20代後半になる当事者からはありません。
訪問の後で家族に「もうやめたい」と伝えるのですが、そのことばは体験から出てきたもので、ここからの回復には時間がかかります。
[2]家族への拒否
第2の拒否は、訪問というレールを敷いた家族に向かう拒否です。
[1]に述べた訪問者への拒否も訪問者よりも家族に向けられ表面化します。
(1)“平穏”の維持
家族が畏れるのは、この訪問または訪問者への拒否により、それまでの比較的平穏にしていた家族間の関係に波乱がうまれることです。
ある変化は期待しますが、それは前進的なものにかぎられ、後退的なものを避けようとします。
とくにある時期に家庭内暴力的なことを経験している家族にとっては、その時代に戻りたくないのは当たり前の気持ちです。
家族はここでジレンマになります。
このままでは子どもは引きこもりから抜け出せないかもしれない、しかし家族の関係を壊したくないというジレンマです。
ここを乗り越える基本は当事者の意志・気分を尊重する手順をとるしかありません。
そうすると当事者が明確に「訪問者がきてもいい」ということばを出すまで、家族は何もできないのです。
実際に引きこもりの家族のかなり多くはこのような状態でしょう。
家族は手の施しようがなくなります。
時間がたつにつれて思い余って強引な方法、強制的な引き出し方法に頼ろうとします。
まさに一縷の望みをつなぐのです。
たしかにそのやり方でうまくいった実例もあるからでしょう。
しかしいつもそうなるとはいきません。
その強制的方法でうまくいったとしても、私はそのやりかたを認められません。
親と子の信頼関係を壊します。親はよかれと思っても子ども側はそうはいかないのです。
この経験による子ども側の失望と空しさ、人間不信の増大、
ときには自分の身勝手さの容認(家族が自分の意志を無視するのだから、自分もまた人の意志を無視する気持ちになりやすい)、
人を敵と思う感覚などが染みついていきます。
(2)家族の決心
手順を追って訪問をすすめる私の方法は、これに対置できるものです。
基本は人間の尊重です。
父母も子どもも、訪問者も訪問を受ける人も、人間として対等の原則を保つことです。
それが相手を尊重することのベースになります。
具体的な手順は『ひきコミ』第61号=2008年11月号「引きこもり生活者への訪問活動(2)」に述べたので、そちらをみてください。
父母(家族)の側には、この手順をおって訪問をすすめるまえに決心が必要です。
決心とは、子どもの意志や気持ちを侵害することではありません。
親は自分自身の問題を処することに関して意志を明確にする、それが決心です。
親と子が対等であることとは、子どもに対しても親がその意志や気持ちを表示できる関係です。
子どもの意志や気持ちを受けとめ理解しようとする努力とともに、子どもにも親の意志や気持ちを伝えられる関係です。
この親側の決心がないと、訪問サポートの開始(または再開)は、崩れやすい姿勢で始められ、問題がはっきりしないまま終息していきやすいです。
もちろんそうならないようにする訪問者の役割もでてきます。
(3)家族と訪問者
とはいえ家族(父母)は、訪問サポートの開始を決心しても、その内容は訪問者に任せるしかなくなります。
訪問者が子どもと顔を会わせたとき、どう展開するのかは家族にはわからないし、関与できる部分は外形的なところしかありません。
この外形的な部分を、家族と訪問者は連絡をとりあっていくのが本筋です。
家族が訪問者の一つひとつのことに入っていくのは、細かな約束事を多くしていき、訪問者を動きづらくするのでうまくありません。
訪問者は親の意向の代行者でもありません。
訪問時に家族が同席するのも、同じ意味を持ちます。
当事者の不安感を支えるなどの別の必要性がなければ、家族は同席をしないのがいいのです。
一方、訪問者はその内容のおおよそのことを、家族になんらかの形で伝えておかなくてはなりません。
これは1対1の関係になる訪問サポートにおいて、訪問者が自身の言動を客観視するうえでも必要です。
なによりも家族にたいして事態の様子をおおよそ伝え、それにより安心と訪問の継続を図ることができます。
(4)訪問者と当事者
その訪問内容は“立派”でなくていいのです。
人と人の関係は、両者それぞれに偏り(個性)があり、それを了解しあうこと、絶妙に適合させていくものです。
小さな子ども同士の関係をみればわかると思います。
“立派”であるよりも、その人の現状にあった姿のかかわりがいいのです。
人間への安心感や信頼はそこに生まれます。
引きこもり当事者にはこの人間への信頼感がうまく育たず揺らいでいる人が多いので、訪問者はそこを支えながら成長を図るのです。
訪問者との二者関係の継続はこの人間への信頼感をあるレベルまで取り戻す作業を同時にしています。
訪問者が当事者と同世代の範囲の人であれば、この人間関係はさらに友人関係にすすむことも予想できます。
当人が外出できるようになれば、(それなりの抵抗感をもちつつ)新しい人間関係にすすむ予行練習になるでしょう。
[3]「自分の状態」の拒否
訪問の拒否を考えるもう1つは、訪問を受ける(受けることになっている)引きこもり当事者自身に向けられます。
ある人はそのことを「自分はそこまでダメになっているのか」といいました。
訪問を受けるという事態が自分の状態に目を向けさせたのです。
訪問者はここでその状態をダメ状態という価値判断をしないことです。
当事者が価値判断するのは避けがたいところもありますが、訪問者には同調するだけのものはまだないはずです。
少なくとも引きこもっていることがダメだというのでなければ、ほかに価値判断するものはありません。
当事者は訪問の拒否のなかで、自分の状態の拒否が中心であると知るのです。
自分の状態を認めがたい気持ちできた。
それを価値判断でなく、ひとつの事実・状態と認めます。
あえて確認はいりません。当事者は回り道をして(意識する・しないはともかく)ここにたどりつきます。
自分の状態の拒否を意識(自覚)するようになったときの反応は多くの場合、前進的なものですが、わずかながら後退的に見える人もいます。
(1)前進的な反応
前進的な反応とは、訪問が始まった比較的早い時期に、その人なりの方法で、引きこもり生活を終えるか、そこに向かってなんらかの動きをみせます。
意識の焦点が自分の問題になり、それに応えるエネルギーを持っていればそうなります。
意識があってもエネルギーがなければ葛藤と動揺の状態に入ります。
訪問者はこの葛藤や動揺に付き合っていくのです。
当事者を認めていく過程が始まります。
当事者は周りの人のなかでの自分を理解することで自分を肯定していく感覚がうまれてきます。
その本格的な場はまだ先のことですが、「自分の状態」への反発心が行動につながります。
自分の状態がいちばんの問題と意識しても「まだ働いていない」のであれば意味がないという人がいました。
それは人間の成長の過程を無視しています。
動くのか、動かないのかの二者択一になりやすく、それが途中の状態を無視しやすくするのです。
それでいながら慎重にわずかずつ動きだすタイプの多いのが引きこもりになりやすい人です。
外形上のわずかな変化―行きつ戻りつする言動―を支えながら見守りましょう。
それは家族だけではなく、訪問者にも求められます。
この自分自身の状態を拒否すること、言いかえれば「受入れられない自分」を否定することは、自己認識がすすんできたことです。
否定状態を否定することは回りくどいですが肯定につながります。
自分の状態をつかめないでいたり、混乱していたり、呆然と諦めているのとは違います。
自己認識の進歩があります。
より正確な自己認識により近づくことで、人は意図的に言動を変え、自分の生活・生存条件をいくぶんはよくする作用がでてきます。
もしエネルギーがあれば起床時間を朝の8時にしたり、より体を動かし健康に気をつけたりします。
これらは「大したこと」なのです。
訪問者は引きこもり当事者のこの部分につきあっていきます。
このときエネルギーがあり、動き出すときの当事者の様子は〝反抗・反発〟のようにみえることが多いのではないでしょうか。
たとえば「大丈夫ですからもう来ないでください」と訪問者には比較的丁寧に言います。
家族には「もう来させるな!」みたいな言動です。
実際はまだ安心できません。
ですが少し間をおいて訪問する、家族との連絡にするなどで、様子を観察する期間をおきます。
連絡を切らずにおきたいものです。
そのまま当事者の軌道ができればそれでよし、外出先の支援、再訪問などを心づもりしていくのです。
(2)後退的反応と出発点
自己認識がすすむことで「自分の状態」への拒否が自己への攻撃になることもあります。
鬱(うつ)状態はその典型ですし、摂食障害や不眠もその延長にあります。
ある程度、重い症状のときは医療機関の受診を考えなくてはなりません。
しかし、一般には強制的な受診はおすすめできません。
これが「自分の状態」を自覚したときの後退的とみえる反応です。
前進的な反応になるのか後退的とみえる反応になるのかを、あらかじめわかるとは思いません。
私の理解では、これはその人の本当の出発点を明らかにしたことであり、単純な後退とはちがいます。
可能性としては引きこもり生活が長いほど後退的反応になりやすいのでしょう。
「自分の状態」の拒否を自覚すれば、どちらにしてもなんらかの反応は避けられないのです。