Center:2007年8月ー幼児期の苦しい体験とグリーフワーク
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2024年1月11日 (木) 12:23時点における最新版
幼少期の苦しい体験とグリーフワーク
〔『ひきコミ』第48号=2007年9月号に掲載〕
(1)グリーフワーク(Griefwork 悲嘆の仕事)について
時間とともに幼少期の記憶が薄れ、忘れ去られる。
しかし、ある瞬間に、たとえば臭いの記憶によって呼び覚まされたり、景色や人のことばや振るまいが記憶を呼び覚ますこともあります。
それは、記憶が消し去られたのではなく、記憶の下の方に置かれ、表面に出てこないから日常的には忘れたようになっていることを教えてくれます。
これは意識下の記憶です。それはまた身体の記憶です。
私(そして支援者やカウンセラー)は、いじめや虐待や嫌な思いを語る人の話を受けとめる形で聞いています。
それは忘れたはずの(いや、意識の下に置いたはずの)体験をことばとして表面に浮き出させることを助けることにもなります。
これは、過去のいやなことを忘れさせ、現在から前に進むのを阻害するこ とになるのではないか? そう考える人もいるようです。
「時間は救済者である」というとき、時間の経過によって“忘れる・記憶が薄れる”ために、何かを前向きにしてくれる作用があります。
それなのに、それに反することだと考えるからでしょう。
私は、そのことを否定する気はありません。
ただそれは、その人に基礎体力がある場合に通用することです。
基礎体力とは、ここでは人間としての基本的な精神力を指すことばです。
それが不十分である人(“人間への安心感”が不十分、“周囲環境の情報量を身に付けた蓄積の緩和”が不十分であるという意味です)には、通用しないことです。
この基礎体力が不十分な人には、幼少の時期のいやなことを含む体験を、毒素から栄養素に加工することができづらいのです。
その力をつくる基礎体力不足を補う作業が必要です。
話させて記憶を意識下のところから浮かび上がらせるのは、その方法なのです。
といっても毒素から栄養素に変える力を得るには、その人がある状態に到達していなければならず、かなりの時間を必要とします。
すぐに結果は出ません。
急ぐと逆効果になることもあります。
幼少期のことを話すことは、苦しいこと、辛いこと、嫌なこと、屈辱的なこと、恥ずかしいこと・・・です。
自分の心の奥にしまい込んでいるはずなのに、そこから滲み出して来る毒素を消失する作業です。
日常生活を苦しくしているその源泉を外部に流したり、自分の生命を形づくる栄養素に加工する、そういう作業をすることです。
(2)グリーフワークと社会参加、そして達観の境地へ
話すときには、この流れ出した毒素によって話す方も聴く方も、浸されることになします。
一般的には、話す方(すなわちグリーフワークをする側)は、うつ的になります。
極端なときにはフラッシュバックを引き起こすこともあります。
グリーフワークには支えが必要になります。
受けとめる側(聴く方)の受容的な姿勢、そのような人の存在が求められます。
その条件がないときのグリーフワークは精神的な孤独体験になります。
そのような人がいたとしても、グリーフワーク自体は苦しいものです。
それは苦い良薬を飲むことと似ています。
その作業の途中では人によっては死の影がちらつくし、狂気におびえることもあります。
それら全体を受容し温めてくれる人間環境の下で、グリーフワークができるのがいいのです。
このようなグリーフワークは遠い記憶を蘇らせ、その記憶を新たにし、自分を苦しめる力を活性化しているのではないか。
そう考える人がいます。
その際、「時間は救済者である」と述べた点を除くと2つの作用を見落としています。
1つは、話すことにより、それを1人で持っている負担を軽くします。
話す事柄は自分の成長を阻止したものであり、再びそれを作動させ、作動させることによって何かの力量を得るのです。
負担が軽くなるのはその新たに得た力量によって事柄の重みに耐えられる力を少し強めるからだと思います。
記憶の表面にあっても記憶の下層に置いたとしても、その負担する行為自体は同じなのです。
例えていえば、リュックの奥に10kgの米袋を入れて担ぐのと、リュックの上において担ぐのは同じ負担です。
リュックを担ぐ自分の体力を強くする要素が作動するのです。
支援者側では、このグリーフワークに関わることで、その負担を栄養素に転化できます。
この負担を転化できないとき、いわゆる「もらった」状態になり、落ちこんだり、非難がましい気持ちが湧き起こります。
当事者同士の関係でこの状態はときどき発生しますし、支援者側にも起こりえます。
受けとめられるだけの負担にとめておく判断が求められるのですが、当事者側の経験則でこれを成し遂げるのは相当に難しいことです。
支援者側では、これを時間で制約していますが、その根本はグリーフワークをする人の負担を考慮していることによります。
引きこもりから動き出した人が急速に社会活動を始めるのではなく、少しずつ対人関係を重ねた方が効果的なのはこの背景があります。
もう1つの見落としている点は、グリーフワークは、苦しい体験を相対化することです。
苦しい、辛いというグリーフワークの内容は毒素を緩和していく作用が含まれます。
といってもそれはその経験の程度と重さによって多くの作業が必要になることもあります。
苦味が甘味に変わるのは、それほど鮮やかな時ばかりではありません。
少しずつ中和され、加工されていくのです。
時間を待って記憶が薄れていくのを待つよりはグリーフワークを重ねることが短時間の作業につながります。
しかも、対人関係や社会生活が欠けた中では、その記憶はなかなか薄れるものではありません。
その意味でグリーフワークは治療的な作業です。
しかし、グリーフワークに限定するよりも社会とのつながりを可能な範囲で維持・拡大できるのならば、それはより効果的です。
苦しみ、苦味や毒素を中和する要素とは、その後の人生経験です。
なによりも安定的な対人関係です。
攻撃される苦しみの対人関係ではなく、平穏な、できれば相互的・友好的な対人関係です。
これが多いほど苦しい体験が中和されるし、場合によっては甘いだけの体験に少しは、苦味をまじえた、いい味付けにさえなります。
ただ、このような中和する体験を重ねていきづらいのが、グリーフワークを必要とする人の特色でもあります。
だから、そう楽天的なことばかりは語れない、と言っておきましょう。
このグリーフワークを本格的に経てないで幼少期の苦しい体験を中和化していけるのは、男女とも30代半ば以降のことではないかと思います。
もちろん私が、見聞きした範囲に限られます。
その人の外見上の表情としてある種の達観、また達観による自己受容のように見えます。
私は、その状態を「否応なく大人になる」を表現したことがあります。
おそらくそれは最悪ではありませんが、その一方で、達観にたどりつかないで混沌をつづけている人もいるのではないかと心配しているところです。