Center:2009年10月ー不登校情報センターが取り組む社会参加の2つの道
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私が引きこもり傾向の人のなかに創作活動をする人が多いと感じるようになったのはそれほど古いことではありません。 <br> | 私が引きこもり傾向の人のなかに創作活動をする人が多いと感じるようになったのはそれほど古いことではありません。 <br> | ||
徐々に何かを感じてはいたのですが、重大な分岐点になったのは、E.クレッチマー『天才の心理学』とS.フロイト『精神分析学入門』を読んでからです。<br> | 徐々に何かを感じてはいたのですが、重大な分岐点になったのは、E.クレッチマー『天才の心理学』とS.フロイト『精神分析学入門』を読んでからです。<br> | ||
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(講談社文庫、55ページ)を紹介しておきます。<br> | (講談社文庫、55ページ)を紹介しておきます。<br> | ||
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2018年12月30日 (日) 16:33時点における最新版
不登校情報センターが取り組む社会参加の2つの道
*これは2009年10月18日「引きこもりからの社会参加」における講演を文章化したものです。
不登校情報センターは設立15年目に入りました。
10年ほど前から、関わりを持った引きこもり当事者の就業支援を考え始めました。
実際は半分くらいの人が、アルバイトや派遣などの形で就業し、自営業を手伝う形の人もいます。
大学や職業訓練にすすんだ人もいます。
さらに障害者の福祉施設にすすんだ人もいます。
私が比較的多く関わった人110名ぐらいの軌跡を見ると3分の2くらいはこのような方法で社会参加になっています。
*「対人関係支援百人の実例と支援体制の現状」(『ひきコミ』2008年6月号=第57号)
しかし、不登校情報センターがこれらに直接の力になったとは思いません。
なによりも本人の力、自然成長力や自己回復力が原動力です。
何がしかの環境に自身をおくことで当事者の、特に対人関係の潜在的な力があるレベルに高まり、表面化したのがこの結果であると思います。
情報センターはその一端を受け持ったのです。
多くの人は広い意味での社会との関わりや接点が生まれたとしても、全体的には動揺的で不安定な状態を続けていきます。
数年前からニート対策として若年無業者への行政的な取り組みが始まりました。
今年の7月には「子ども・若者育成支援推進法」も生まれました。
いまは政権交代による民主党連立政権が生まれています。
この条件で社会的環境は以前よりよくなるかもしれません。
しかし、政治や行政の動きでことが解消するとは思えません。
当事者に直接に関わる支援の現場での試みなくしては、社会全体の取り組みが好回転することは期待できないと思います。
不登校情報センターは、当事者が自力で社会との接点を切り開いていくのを見ているだけではなくなりました。
情報センター自体を働ける場所にしてほしいという要望も受けてきました。
いつそれに応えようとしたのかは自分でもわかりません。
もしかしたらまだそういう決心はしているとは言えないのかもしれません。
「出来ることをする」という気持ちであれこれをすすめてきました。
出来ること、手がけた多くのことを細かには話せませんが、今日はそのなかで社会参加につながる2つの取り組みを話します。
(1)ウェブサイト運営業
私はいわゆる起業家ではありません。
関わった当事者が始めた取り組みを育てようとしたのです。
それが起業になるかどうかは別次元のことです。
はじめは当事者たちの集まりです。
当初から関わりのある数人がいました。
彼らに対して私が何かをするのではなく、時間を決めて集まり話し合う場所を呼びかけました。
情報センターをつくった11か月後のことです。
互いに知り合うなかで人間関係ができ、友人関係ができます。
居場所とかフリースペースといわれるものです。
これは、いろいろな状況変化を遂げていますが、現在も続いていると言えます。
ある会社からパソコンをもらいました。
1998年のことです。
当時の私はパソコンが何もわからない状況です。
情報センターの活動に関心を持ったTさんが協力を申し出てきました。
どうい う思惑があったのかはわかりませんが(Tさんはビジネス指向であり上手い儲け話に思えたのかもしれません)、情報センターのホームページをつくることになりました。
内容は当時の活動レベルを反映したものです。
活動報告的なことですが、頻繁に更新する内容はありません。
しかし、インターネットとつながり最初 のホームページが出来ました。
その状態のときに居場所に集まるようになった一人のHくんがパソコン教室を始めました。
生徒はなぜか3名の教員で、半年以上は続きました。
その間にHくんは独自の不登校情報センターのホームページづくりを始めました。
TさんのとHさんの ホームページとが並列したわけです。
やがてパソコンはHさんだけではなくいろいろな人が手をつけるようになりました。
2001年6月に事務所を移転し、利用できるパソコンが数台になりました。
Hくんに代わりRくんも情報センターのホームページづくりを始めました。
何人かが関わることは統一する方向性を要請されたのですが、関係者の思いは個人的な関心の枠を超えず、私は技術面の不案内により、まとまった形になりません。
ある人が掲示板をつくったのですが、私がその状態をよく理解できないうちに閉鎖していました。
〝荒し〟にあってすぐ閉鎖するしかなかったのです。
私がホームページづくりの方向として話したのは、いまある「支援団体の情報提供」ページのより素朴なものです。
パソコン使いの当事者たちには理解ができない構想を話したのでしょう。
また情報センターによる「支援団体の情報提供」の形はまだ書籍型が中心であり、私のスタンスもインターネット中心には移っていませんでした。
しかし時代は確実にインターネットの時代に近づいていました。
それに対して情報センターは立ち遅れていたのです。
2004年に入り有力な支援団体からインターネットによる情報提供整備の提案がありました。
春頃に数人のパソコン使いの当事者に情報センターのホームページの方向性をより具体的に示しました。
前年に「あゆみ仕事企画」なる当事者のグループをつくり〝収入になる取り組み〟を始めていました。
個別の具体的な方向がわかれば始められたのです。
パソコングループは「あゆみ仕事企画」メンバーと重なりますが、活動内容としては別働隊みたいな様子になりました。
この時期にもう一つの事情がありました。
『スクールガイド』という本の新版発行が出版社からOKが出ず、他方『不登校・引きこもり・ニート支援団体ガイド』が別の出版社から発行されました。
この2つの出版物のために集めた情報を、出版物と重複しないようにネット上に掲載する制約と条件が生まれました。
逆に言えば、本からネットに移る情報提供の時期の難しい運用を求められたのです。
そういう事情をなんとか乗り越えて 2004年の秋にウェブページ「スクールガイド」の基本形が出来ました。
ようやく不登校情報センターの公式ホームページになったのです。
この基本形づくり Mくんが役割を果たし、その継続と改正と完成をIくんが受け持ちました。
このころまでは数人がホームページ制作に関わりましたが、交代の形でありそれぞれ の時期をみれば一人が中心的につくってきたといえます。
Iくん中心の時代(2004年の終わりころから2007年 の夏ころまで)は、多くの要素がホームページのなかに取り入れられました。
支援団体の情報提供は「スクールガイド」だけではなく相談室や公共機関などが加わりました。
支援団体の情報提供ページを「多チャンネル」と名付けました。
現在の「支援団体の情報提供」のページ群はこの「多チャンネル」を独立分化し発展させたものです。
それ以外にもいろんなページを設けました。
訪問サポート部「トカネット」と五十田猛エッセイ「四行論」は大きなウェブページになりますが、これもIくんが制作しました。
2005年になってパソコンから収入につなげる具体策を考え始めました。
それには何らかの仕組みが必要ですが、さしあたり不登校情報センターをNPO法人にする道をとったのです。
設立10年にしてNPO法人です。
2005年11月8日に登記しました。
最初の収入項目は、ホームページによる情報提供を勧めた支援団体のバナー広告です。
支援団体の内容を紹介するのが掲載料です。
公共機関や純粋の当事者の会などからは掲載料ももらえません。
スクールガイド、メンタル相談・各種療法ページがこれに該当します。
当時の1日のアクセスは60~100件でした。
リンク料もスクールガイド、メンタル相談・各種療法ページなどでいただけるようになりました。
トップページのバナー広告は数本にふえました。
「不登校・引きこもり・発達障害のイベント」ページにバナー広告を掲載できるようになったのはこの10月のことです。
それぞれのウェブページがある程度完成し、信頼ないし役割が見込めるようになったときに収入項目にできたのです。
これからもそのようになるはずです。
いろんなページにその可能性が潜んでいます。
最近のアクセス数は1日200~350くらいです。
必ずしも順調な増加とはいえません。
2007 年春から「スクールガイド」ページは指導役を含む3~4人の分担体制に移行できました。
他のページもそのようにしたいのですが、適任者と仕事量と資金が上 手く組み合いません。
ページを細かく区切って一人がいくつかのページを受け持つ体制です。
その担当者の安定的な継続が図れないのが難点です。
これらの状態 は各ページを収入項目に成長させる面で制約になっています。
確かに求められる支援団体の情報量を順調に掲載していくには体制は十分ではありません。
しかしゆっくりですが、絶え間なく情報提供作業は続いています。
情報提供をする新しい受け皿づくり(ページの企画)は、少しずつしか生まれないのでこのペースが特に遅すぎるともいえないのです。
ネックになるのはむしろ企画者とその企画を生かして情報集めを系統的に行なう事務体制かもしれません。
いずれにしてもパソコンを収入につながる生産財にしようという5年前の発想はようやくその基礎 条件が出来ました。
2009年の春に「工業統計」のために調査をする人から、このようなホームページによる経済活動はウェブサイト運営業と教えられました。
情報センターにおける収入の割合のなかでこの部分が最大とはいいがたいのですが、敢えて情報センターの業種をウェブサイト運営業と自覚することにしました。
このウェブサイトを運営するのが引きこもり経験のある当事者たちです。
フリースペースから生まれてワークスペースに発展したものです。
ここが彼らの社会への出発基地であり、もしかしたら不登校情報センターを働ける場にして欲しいという要請に応える現在の内容です。
(2)創作活動
(1)引きこもりと創作活動のつながり
私が引きこもり傾向の人のなかに創作活動をする人が多いと感じるようになったのはそれほど古いことではありません。
徐々に何かを感じてはいたのですが、重大な分岐点になったのは、E.クレッチマー『天才の心理学』とS.フロイト『精神分析学入門』を読んでからです。
2人とも引きこもりに限って何かを語ったわけではありませんが、引きこもりを理解するうえで重要な文献になりました。
2002年から2003年にかけてのことです。
人間にとっての感覚、感情の役割をある程度理解し、それが引きこもりの背景になっていると理解したときです。
それは同時に創作活動にもつながることがわかったのです。
もう1つは芸術活動としないで創作活動とする点です。
意識する範囲の広さに関わります。
古くは私の郷里の先達、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が言ったことです。
19世紀末の日本にきて、ハーンは日本人は芸術だけではなく日常の生活用品までが 工芸的、芸術的作品のようにされているのを〝発見〟したのです。
私が編集・執筆した『中学生・高校生のための仕事ガイド』という事典があります。
「日本は 手芸家や彫刻家などの芸術家を含めて工芸品の製作者は世界一多いといいます。しかし一生の仕事とする人はぐんと減ります」
(2003年版、126ページ。 初版は1987年)と書きました。
これを知った出典はあきらかではありませんが、1995年ころには知っていたはずです。
さらにこの点についての日本人論ともいうべきものもあります。
梅原猛『美と宗教の発見』などはそこを掘り下げて分析しています。
「認識論としての日本文化の特徴は、それが一種の感情的認識を発展させたことにあるのであろう。
理性によってではなく感情によってものを知る、しかも日本的感情はヨーロッパ的理性に負けないくらい繊細、微妙なのである」
(講談社文庫、55ページ)を紹介しておきます。
感情や感覚がとりわけ重い役割をする日本人のなかで、引きこもりはひときわ強くその影響を受けている人であるとともに、一般的には彼らは芸術や創作面の奥行きがあると推測されるのです。
引きこもり理解の視点が先行したと思いますが、あわせて彼らがものを見る、感じる感覚の繊細性を認めていく過程でもありました。
ときおり彼らから見せられる作品が、偶然ではなく大きな可能性のなかにおいて考えられるようになったのです。
彼らの多くは子ども時代からの創作活動を、成長とともにやめさせられたのです。
「それでは仕事につけない、本格的にやるのは大変、むだな時間を使わず社会に役立つことをやれ」など、いろいろな理由によってです。
これを転換することが未来を開くのです。
芸術家や創作家になるとはかぎりません。
しかし未来を開く力を獲得するでしょう。
(2)太田勝己の「rain」
情報センターの設立以来、いろいろな人が自作のイラストや、詩や手芸品などを持ってきました。
いろいろやっているなと思いつつそれが彼らの何かにはすぐに結びつくことのない数年が過ぎました。
特に、イラスト、マンガ、絵の関係は多かったと思います。
上に述べた経過から、私は2003年頃にはかなり意識的に作品を見るようにしていたはずです。
太田勝己が大量の作品を描きつづけているというのもたぶん2004年には耳にしていました。
あるとき彼は描いた1枚の〝犬的な絵〟を目につくところに置きました。
事情を知らずに私はそれを「シンプルな絵だね」と言ったそうです。
それを聞いた彼は「傷ついた」といいました。
そんな時期もあったのです。
2005年の夏ごろに1万枚ぐらい描いたと聞きました。
何枚かを持ってきたのですが、私はこれを自分では評価できない、どうすれば評価のできる人の目に触れるようになるかを考えました。
ちょうど事務所の移転話があり、中央区の小坂クリニックを事務所の候補として見に行くことになりました。
太田もこの一行に加わりました。
小坂クリニックを事務所に使うことはなかったのですが、このスペースを太田作品(それはrainと名付けていました)1万点を可能な限り展示しようと提案しました。
彼もその気になり、小坂クリニックも了解しました。
10月ころのことです。
ただし改装工事の都合で開催の時期は年明けです。
11月22日、太田勝己が亡くなりました。
翌年2月の太田作品展は遺作展、遺言執行になったのです。
大きな情動がエネルギーとなって、この作品展を成り立たせました。
(3)第2回創作展以降
太田勝己作品展をどう引きつぐのか。
はじめはこれといって当てはありません。
私はある出版社に『カット絵集』の発行を持ちかけました。
知人の編集者の返事は作品を見てからというものでしたが、案外はじめから難しい企画であったのかもしれません。
何人かにそのカット絵の作品制作をお願いしました。
しかし結局、カット絵集は発行されませんでした。
2007年になって東京都の社会福祉協議会の助成が認められ、一気に創作展の実施に進むことになりました。
会場は新小岩地区センターのホール。
太田作品、カット絵集、それに何人かが持ち寄った作品、これらによって第2回創作展を 2007年12月に開くことになりました。
取り組みは不十分でしたがともかく実現にこぎつけた感じです。
太田個展に代わり出展者が10人、販売可能な作品が少々です。
そのあと毎年作品展を開くつもりでしたが遅れました。
あるきっかけにより地方在住の一人から次々に作品が送られてきました。
これで何かが出来そうな気がして第3回を企画しました。
2009年5月、やはり集団出展の創作展です。
会場を新小岩駅北口の東京聖栄大学の教室を借りました。
出展者を募り15名になりました。
引きこもりの社会参加の手段になる点を意識したアピールにしたところ新聞にも取り上げられました。
参加者が100名近くになりました。
ここで意識したのは販売できる形にすることと、継続する体制づくりです。
この第3回を契機に、ブログによる広報活動、情報センターにおけるミニ展示など常設になりました。
引きこもりからの社会参加の方法としてはとても程遠いところにいますが、わずかながら前途の景色が見えてきました。
作品の質が問われますが、世界・日本基準、業界・営業基準でなくてもいい。
ローカル基準、かわいい基準、自分なり基準もありうると思います。
それが通用するのは狭いところですがネットショップではないでしょうか。
来春の第4回創造展をめざし、ネットショップを作ろうと企画しているところです。
今回の体験発表会を創作品展示にした結果、ネットショップで販売可能な作品がある程度できました。
この積み重ねがつづくのです。
創作活動はまだ収入になるレベルにはなりません。
いつかそこにたどりつくのです。