Center:109-日本における仏教と儒教の影響
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2018年12月31日 (月) 19:52時点における最新版
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日本における仏教と儒教の影響
〔2007年のノート、2011年3月30日に掲載〕
井沢元彦『仏教・神道・儒教集中講座』(徳間文庫・2007年3月。原本は2005年6月に発行)。
(1)多神教と仏教・神道・儒教の混合
日本人の精神的風土を考えていたところで、タイトルはそれを表わすのにかなりいいものだった。
「仏教・神道・儒教には一神教原理とはかなり違う」(8ページ)としたうえでこれらが、いずれも宗教であること、
さらにはこの3つが影響し、融合している事情がわかります。
多神教とは、他宗教を受け入れやすい点が挙げられるでしょう。
「親孝行するために供養する、を例にあげて「供養する」は仏教の考え方、親孝行は儒教の考え方として、融合の実例にしています。
ことば遣いはともかく「供養する」という発想は、大事にしていく程度以上のことは儒教にもあるし、「親孝行」も、親を大切にする程度以上のことは仏教にもあるはずだから、
全く異質のものが接ぎ木されたのとは違うのでしょう。
キリスト教が日本に定着しなかったのは(いまでも人口の1%程度)一神教であり、
他宗教に対して排他的である点をあげています(153ページ)。
この他宗教に対して排他的になった例を、仏教と神道においてもみています。
仏教では日蓮宗を挙げています。「日蓮という人は、ある意味ではキリスト教的に、異端を認めない態度を貫いた、日本では珍しい人」(87ページ)となります。
神道に関しては、明治に入って導入された国家神道を排他的な実例にあげています。
「日本中の神社をすべて国家の統制下に置き、国家の機関として、その神を祭る地位のトップに天皇を据える・・・。
これはローマ法王を意識し・・・天皇はこの世の神、現人神であって、すべての日本人はそれを信仰しなければならない」(175ページ)。
この結果(これに先立って)、国家神道に属さない教派神道すなわち黒住教、天理教、金光教それに強い弾圧を受けた大本教(出口王仁三郎)がでます。
他方では仏教に対する攻撃がありました。
「国家神道をつくり上げるために・・・理論の上から本地垂迹説を否定するとともに、多くの仏教寺院を焼き払う、廃仏毀釈を行ないました」(92ページ)
(2)儒教の場合の排他的実例
儒教に関しては、一神教的な状態はなかったようですが、本書ではこういう部分があります。
徳川期に入って、家康は「儒学を日本を統治するための学問にしようと積極的に援助しました」(230ページ)。
林羅山は儒学体制を整備し、昌平坂学問所をつくります。
それは「老中の長男は老中になれるのですが一応勉強はしておいた方がいいという位置づけとして、昌平坂学問所があった」(232ページ)となります。
キリスト教は広まらなかったが、日蓮宗はどうか、国家神道はどうか、これはとくに言及されていません。
国家神道の中心になった靖国神社を宗教問題の枠内で扱っているために、政治問題を見落としているのが拙いようです。(243-244ページ)。
(3)仏教
仏教の教理とその歴史的な変遷がコンパクトにまとめられています。
それが社会関係の変化関係でどうであったかのかは、私には不十分です。
加治伸行「儒教とは何か」と対比して(この対比は著者には不本意とは思いますが)私の求めることが「ない」ということになります。
織田信長の比叡山焼き討ちが政教分離をすすめたこと、江戸期の檀家制度の導入などの意味づけには興味をひくものもあります。
「現在、仏教系の新興宗教にはいろいろなものがあります。
その中には、大勢の信者を抱える創価学会や立正佼成会などもあり、そうしたものの中から変えていこうという動きもありますが、
おしなべて日本の仏教は、まだ危機的状況が続いていると、私は思います」(99ページ)。
教義においては輪廻転生(りんねてんしょう)が宗教論としては重要でしょう。
「輪廻転生とは、人間というのは、実は死ぬのではなく、生まれ変わるのだという思想です」(34ページ)。
これは仏教以前にインドにあった考え方で、仏教では六道(りくどう)に整理しています。
「一番上から天道(天上界)、人道(人間界)、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道という順に存在する、輪廻転生に属する六つの世界です。
例えば今は人間界でも、悪いことをして畜生道に落ちると死んだのち動物に生まれ変わるということです」(34-35ページ)。
これは生命論です。
日本人の日常生活や考え方に仏教がどのように結びついているかは、ほとんど語られていません。
排除されてはいないけれども、顕著でもない、しかし静かに作動しているのでしょうか。
(4)儒教の宗教性の理解について
加治伸行『儒教とは何か』にみられる、宗教性と礼教性のような区別がされていません。
この点が不備というよりは、加治伸行の深さを示しているようです。
そのうえで、本書における取り扱いから2、3の点をみていきます。
儒教の宗教性を次のように述べています。
「天人相関説も証明することはできませんから、学問ではなく宗教です。
つまり、儒教というのは、東アジア全体に古来からあったと考えられる、先祖の魂は不滅であるという信仰(先祖崇拝)と偽政者の行いは天にはね返り、
よい行いをするとよいことが、悪い行ないをすると悪いことが返ってくるという信仰(天人相関説)、
この二つの宗教的概念をベースとした宗教なのです」(194ページ)。
宗教の根拠を「証明することはできない」(たぶんそれにも関わらず広く信じられている)からとしている点は、
生命論(死を扱う)からみれば浅い理解のように思えます。
中世のキリスト学者の「不合理であるがゆえにわれ信ず」と重複する宗教肯定論になります。
儒教文化圏として、中国・朝鮮・日本を一応範囲に入れますが、しかしそれぞれ違うようです。
現代を8大文明に分けた、S・ハンチントンは中国・朝鮮・日本をそれぞれ独自の文明に分類している例を紹介しています。
ハンチントンの根拠はわかりませんが。
それぞれの地域の伝統習俗、仏教の影響(中国では少なく、日本では強い)。
中国の道教、日本の神道等との関係によってかなりの差が生まれているということでしょうか。
おそらく、朝鮮において儒教的文化は最も色濃く残っているように思います。
北朝鮮における金日成、金正日という親から子への政治権力の譲渡、それを社会がともかく受容している精神的背景の一つをここに求めることも可能でしょう。
本書における儒教は、現代日本人の深層の社会精神状態を考えるうえでは、加治説を超えるものはないように思いました。