Center:2000年8月ー訪問活動から学ぶこと
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2012年8月1日 (水) 00:06時点における版
訪問活動から学ぶこと―人間にかかわる力を育てる
〔『別冊PHP』2000年9月増刊号、サブタイトルは「「引きこもり」の子への接し方」〕
目次 |
はじめに
引きこもり気味の不登校の子どもに、大学生などの訪問を頼んでみませんか。
私たち(不登校情報センターサポート部門トカネット)は、引きこもる子どもたちに対し2年余りで数十人の訪問活動をしてきました。
その経験から実施方法、進行中の見方、心構えなどを紹介します。
はじまりは通信制女子高校生の取り組みでした。
彼女は中学校で保健室登校をくり返し、高校は2か月で中退しました。
その後、同人誌を発行し、それが地域の新聞で報道されたのです。
そうしたら不登校の相談がもちこまれ、お母さんと一緒に相談を受けることになりました。
少しして彼女は相談中の小学生の女子の家にときどき訪ねていくことになりました。
これが最初の訪問活動です。
彼女の経験をみて、グループとしてより系統的な訪問活動を考えました。
不登校の子どもの相談は毎日ありましたから、「この子には」と思うと、学生の訪問をすすめてきました。
ふり返って思うことは、いままでのすすめ方は遠慮がちでした。
もっと積極的にすすめていればよかったと思う例が多いです。
時間を経ても、事態は同じに見えることが少なからずあるからです。
それでも既に数十人の学生と社会人が、子どもの元に週1~2回の訪問を続けています。
その間、試行錯誤の連続でした。
しかし、カウンセラー的な技量は必要としません。
家庭によっては独自で可能な対応方法となるでしょう。
子どもにどう話す
親は訪問の開始を、子どもにどう説明すればいいのでしょうか。
「家庭教師に来てもらうよ」ですむときばかりではありません。
「パソコンを教えてくれる学生に来てもらうよ」と始めた人もいます。
「大学生も就職が大変で、大学の勉強以外に社会体験実習が役立つので協力して」と、子どもを学生の支援者に仕立てて始めたこともあります。
これは子どものおかれた状態や考え方によります。
「私はサポートされるような対象ではない」「親には負担をかけたくない」と思っている子どもがいます。
「私は苦しくて学校を休んでいるのに、親はそれでもまだ家庭教師を私につけ、勉強を追いかけてくる」と考える子どもがいます。
これらの子どもの気持ちをカバーする目的と説明のしかたが大事だからです。
人間と関わる力を育てる
私たちはこれを訪問活動といい、家庭教師とは少し違ったものと考えています。
目標は、人間への不安感をもち、対人関係をとても重たく感じている子どもが、人に対する安心感をとり戻すことです。
これは人間が共同生活をするうえで、基盤の条件になります。
家庭教師と言えば、勉強中心です。
しかし、勉強に手を出さない子どもには理由があります。
元気に生きていてこそ勉強に意欲が出ます。
対人不安の子は、この生きている姿をひ弱にし、それが勉強への意欲も低下させているのです。
これは大事なポイントです。
そこを外して、勉強中心に迫っても、効果は少ないし、逆効果のこともあります。
さらに子どもを追いこんでしまうかもしれません。
相談に来られる親のなかには、「せめて高校くらいは」と言う人は多いです。
高校や大学を卒業すれば、社会でやっていけるとは単純に考えているわけではありませんが。
社会でやっていくには、人間と関わる力が必要です。
子どもの性格や性質が内向的、おとなしい、やさしい、いい子……と思っています。
それが社会生活をする人間と関わる力として十分でない点に目が届いていないのです。
性格や性質の問題でなく、人間と関わる力を育てる面、環境づくりを求められているのです。
家庭教師として勉強を教える前に、人間と関わる力を育てる……訪問活動の目標は、こう言いかえてもいいでしょう。
訪問者が観察される期間
親の相談のあと「この子には」と思うと、訪問活動をすすめます。
じつは、子どもが同意していないときでも、訪問活動を始める場合があります。
これはいくつかの経験からそうするのです。
いったん子どもが受け入れたのに、後に(その日になって)家の中に隠れて出てこないことや、親の早合点で子どもが同意していると思って訪問したが、そうでなかったことがありました。
こういう場合にも、訪問活動が成立しなかったわけではありません。
学生が家庭に出向き、子どもとは会えず、母親とだけ話してくる。
そんなことを何度かくり返しているうちに、あるとき子どもがその学生と母親の話しの場に来て参加する事態が生まれたのです。
やがて子どもは学生を受け入れ、何かを一緒にしたり、勉強をみてもらうようになりました。
このような、子ども本人とはすぐに会えない経験は、心理カウンセラーや適応指導教室の教師の訪問にもみられます。
私は初めから子どもの同意を前提とすることは、絶対的な要件ではない、と考えています。
子ども本人とは会えない訪問には、どんな役割や意味があるのでしょうか。
詳しく聞いてみると、子どもは訪問者に強い関心をもっていることがわかります。
学生が母親と会って、お茶を飲みながら何かを話している。
合間にお母さんが子どものところに来ることもある。
しかし、何かをおしつけるのでもない。
すると子どもは訪問者に抵抗感をもちません。
安心が芽生える期間だと思います。
別の例ですが、学級担任が家庭訪問をする話を聞きます。
登校をすすめる教師には、子どもは会おうとせず、恐怖を感じるタイプもいます。
不登校の子ども、特に引きこもり傾向の子どもは、人間との関わりを意識しています。
できれば人と関わりたいのです。
その一方で、会って登校のすすめなど何か規範的なことを求められたり、自分の意思ではどうにもならない状況に追いこまれるのを警戒しています。
私は、訪問しても子どもに会えない期間とは、子どもが距離をおいて訪問者を観察する時期であると考えるようになりました。
対面を強要されたり、勉強をするように迫られるのでは、子どもは訪問者に会わないでおこうと考えます。
逃げ出す子どももいます。
逆に安心してつきあっていける、そう判断したときに、子どもは訪問者のところに顔を見せます。
子どもの判断は、動物的な鋭い感覚で的中します。
もちろん、子どもが学生の訪問を初めから受け入れているときのほうが、訪問活動はうまくいきます。
たぶん、親子の信頼程度でどういう訪問活動が始まろうとしているのか判断ができるからでしょう。
顔見知りになる期間
初対面につづいて訪問活動がめざすことは、顔見知りになることです。
学生の前で、子どもが自然にふるまえるような間柄になることです。
これには時間と回数が必要です。
子どもと学生の相性は、私たちの経験では問題になるケースはありませんでした。
訪問する学生がおとなしすぎる、無愛想な感じ、あわて者、この組みあわせで果たしてどうかと心配したこともあります。
しかし支障になったことはなく、母親から「うまくいっています」と意外な組みあわせの妙に驚くくらいなものです。
子どもも学生も、最初は緊張します。
ぎこちなかったり、気取ったり……。
当然のことでしょう。
でも慣れるにしたがい、お互いに自然体になります。
個性派的な不登校の中学生、Nさんに訪問している学生がこんな報告を送ってきました。
<初めはテレビを見たり、話をしてすごすだけで、これでいいのかと思っていた。
三か月ぐらいしたら急に勉強を始め出した。
ふり返って考えてみると、それまでの三か月は「私との信頼関係を築く期間だったのではないか」>と。
中学生Nさんがそこまで深く考えていたとは思いません。
顔見知りになる、信頼関係を築くというのは、一歩一歩、お互いに知りあっていく過程です。
これは男女の恋愛関係だけでなく、人間と人間の関係全般に通用することです。
親には見づらい事態の進行
こういう数か月の訪問をつづけていくうちに、子どもは少しずつ元気になっていきます。
心とからだは結びついていて、心の元気回復は、からだの動きの元気さとして現われます。
この元気さはどうして生まれるのでしょうか。
それは、訪問する学生との間に、ある程度のコミュニケーションがとれたことと結びついています。
その事情は、必ずしも十分わかってはいませんが、学生からもれ聞く範囲では、次の二つのうち、少なくとも一方と関係しています。
一つは、子どもが親にも言えない苦しみや弱みを学生に話していることです。
いじめや暴力を受けていたり、教室でほかの子どもが簡単にできたのに、自分だけができずにとても恥ずかしかった、というようなことです。
親の知っていることでも、どれだけ心の負担になっているかは、あんがい伝わっていないこともあります。
もう一つは親への批判です。
「お母さんはなんでも細かく干渉してうるさい」「父親はどなるだけで、何にもわかっていない」などです。
このような親には言いたくない、親に心配をかけたくない、心の奥にしまってあることを学生にポツリと話します。
これが心の負担を軽くし、元気を回復して行く条件になっています。
ただこの段階のコミュニケーションの奥行きは、かなり深いと思います。
「引きこもり」経験の二十代の人で、自分の弱みを弁解なく話せる、お互いに遠慮のない関係と言う人がいました。
そういう関係につながります。
子どもが元気である兆候
この学生と秘密めいたコミュニケーションの内容は、親は知らなくていいでしょう。
しかし、元気回復は親にもわかります。
子どもがどんな姿で表すかは、さまざまです。
私たちのこれまでの訪問対象者が、小学生から高校生(中退者を含む)までだったことに関係して、経験の範囲では、元気の表現は主に学校や勉強にまつわることです。
ある中学生は、学校に行き始めました。
学校に行くことを、訪問する学生に相談しなかったので、後でそれを聞かされた学生は驚いています。
勉強が自分なりにできたことと少しは関係しているでしょう。
私立中学2年生で、ほとんど学校に行っていなかった子は、中学3年になる機会に公立中学校に転校し、それから学校に通い始めました。
学生の訪問活動は、それまで約半年でしたが、一緒に勉強することはなく、パソコンとゲームをしていたようです。
中学1年から2年以上の不登校のある子は、中学3年の秋になって「高校に進学したい」と言い始めました。
高校に入学が決まった後、ようやく訪問活動の中身に学校の勉強が加わり始めました。
高校年齢以上の人では、大検を受験し合格したり、通信制高校に入学した人もいます。
引きこもりであったが、外出の機会が多くなったり、運動するようになった人もいます。
二十代になると、アルバイトや仕事を始めたいと言い出す人もいます。
同年齢の子どもとの関わり
訪問する学生は、子どもとは数歳から十歳以上の年齢差があります。
これが子どもにとっての気安さになり、心の負担を軽くしています。
不登校の子どもがいちばん望んでいるのは、同年齢の子どもと友だちになれることです。
しかしコミュニケーションをとるのに心の障壁がいちばん高いもの、同年齢の子どもです。
同年齢の子どもは、共通の役立つ情報の持ち主であるとともに、自分と比較する材料も多く、自分を省みる機会になるのです。
それが最初の訪問者としてうまくいかない背景にあります。
学生の訪問活動の範囲は、そこまで踏みこむことはできません。
しかし、子どもが外へ出る、学校へ行けることは、子ども自身が同年齢の子どもと関われる場面に入っていることを意味しています。
訪問活動は同年齢の子どもと関わる助走としての役割になっています。
訪問をする学生
訪問をする学生については、すでに少しふれました。
私たちは主に「不登校生への家庭教師」として募集しています。
しかし一般の家庭教師と考えてもそう支障はないと思います。
学生に対して、細かなことは注文しません。
ただ伝えるのは、「子どもに対して学校に行くように言わない」「子どものよい点を見つけてほめる」の二点です。
「……してはいけない」ものを要求するよりは、学生一人ひとり性格や持ち味を出せるほうがよいと思います。
私たちのグループにできる特別なことは、不登校や引きこもりの人が交流する場があり、そこに学生が参加して聞き役になってもらうこと、学生同士で訪問の体験交流ができることでしょう。
こういう場がなくとも、学生の慣れと度胸である程度はカバーできると思います。
細かくマニュアルにとらわれるタイプはうまくいかないかもしれません。
親の心構え
親としての心構えでは、何が大切でしょうか。
すでに書いてきたことでわかることもあると思います。
状況を大きくみて言えば次の点です。
①してほしいことは、子どもの後ろにいて、失敗したって大丈夫だよ。
あなたのやろうとしていることを応援するよ、という気持ちでいることです。
②してほしくないことは、子どもが失敗しないように、安全な道を確保し、子どもをその道に載せていくことです。
①と②は、人間への信頼感の違いです。
①は、細かなことは違っていても、大筋では人間は安心ができる、だからそこに入っていきなさい、という気持ちでしょう。
②は、人間は互いに競争者だから、警戒心をもち安全な道をとりなさい、という暗黙のメッセージです。
実際には、親はそこまで両極端の一方の態度を示しているわけではありません。
しかし、日常のいろいろな場面で、この親の心構えは子どもに伝わり、子育てと親子関係のなかに現れています。
それは避けられません。
私は、①の心構えをめざし、それを日常的な場面で具体的に表してほしいと願っています。
親は子どもの代わりになることはできません。
子どもが生活し、生存していく基盤を守り、広げていくことに注意を払いましょう。
それから後のことは、子どもがやることです。
そこを子どもがどれだけやれるかによって、子ども自身の生命力や学習意欲が違ってくるのです。