Center:2005年2月ーいじめを感知する力
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いじめを感知する力
〔2005年2月21日〕
(1)両立する「いじめはあった」と「いじめはなかった」
寝屋川市の小学校職員殺傷事件に関して思い当たることがあります。
事件を起こした17歳の卒業生(N少年とします)の供述のなかに「小学校時代にいじめをうけていたのに、先生は助けてくれなかった」というのがあります。
N少年を知る同級生たちからは「そんな事実はなかった」、担任をした先生からは「思い当たることがない」と伝えられています。
はたしてN少年の小学校時代にいじめがあったのか、なかったのか。私が思い当たるのはこの点です。
さて私はN少年の件に関しては報道以外の情報は何もありません。
しかし、不登校や引きこもりの経験者とある程度の期間、しかも相当数の人と関わっていればごく自然に得られる視点が私が接した報道にはない気がするのです。
その視点で、しかるべき人に関わっていただく(報道における論評などでも)参考に、以下の見方を書いて送ることにいたしました。
小学校時代にN少年にはいじめはあったのです。
しかし周囲の人にとっては(周囲の人の良心に従う発言がされていたと推定して)、いじめはなかったのです。
この相反することが両立するのです。
ただしN少年に関することは、ここでは立ち入らないことにします。
私はいずれにしてもN少年が引きおこした事件を直接見ききして、あれこれいうことができないからです。
(2)フリースペースに来たA青年の話
私が受け取った1通の手紙があります。
20代の引きこもり経験のある男性(A青年とします)からのものです。
文末に付けておきます。
私のいる不登校情報センターには、不登校・引きこもり経験者が集まるフリースペースがあります。
A青年は一度ここに姿を見せ、その後来なくなりました。
手紙にはその事情が書いてあり、その部分をコピーしました。
A青年はフリースペースに来たとき「ほとんどの方が素直で親切な人間なんだ」と感じますが、「自分がそちら(不登校情報センター)へ伺ったことが気にいらない人間も約3名程いることに気付きます。
それで「そちらへ伺うのを遠慮させて頂」くことになったという主旨です。
この文面の中に(みんなは気付かなかったでしたが、自分はすぐ気付きました)という文章があります。
A青年は約3名程の人が自分のやってきたのを気にいらないと判断したのですが、それは他の人は気付かなかったといっています。
具体的には口に出して言ったり、身振りなどの指示ではないことを表しています。
特別の言動はなかったのです。
もしそういう言動があれば、その場にいたみんなは気づいたはずですが「気付かなかった」と推測しています。
A青年は、なぜ3名程の人がA青年を「気にいらない」と気づいたのでしょうか。
誤解や勘違いでしょうか、被害妄想でしょうか。
いずれも違います。
もしそうなら、約3名程の人がそれらしい言動をした、と言うでしょう。
さらにその言動をした約3名程を制止する人はいなかった点を明示するでしょう。
「約3名程」からは、A青年に対する言動以外の「気にいらない」反応が感じられたのです。
これといった言動はなかったのに「気にいらない」と反応した人が約3名程いたとA青年は言っています。
もしこれを聞いた人がいれば、A青年のいうことを「何かわからないことを言っている」といわれることもあると思います。
そうすると約3名程の「気にいらない」反応は、何ら事実のないこととして無視され、消去されてしまいます。
その一方、A青年に対しては「ちょっとヘンな反応をするヤツ」「付き合いにくい人」などと見なされていくことになります。
不登校や引きこもり経験のある人は多かれ少なかれ、このような体験をしています。
A青年もそうでしょうし、ここに登場する「気にいらない」反応をした約3名程も同じような目に遭っているはずです。
(3)「いじめはなかった」のに「いじめはあった」といえる根拠
では、A青年は何をもって「気にいらない」反応を約3名程のなかに感じたのでしょうか。
これこそ(N少年周囲の人の証言通り、N少年へのいじめがなかったとき)N少年がいじめがあったという根拠につながるのです。
それは、A青年のもつ鋭く繊細な感受性によって察知したものです。
人が何かを見聞きしたときの言動に表す前の自然な雰囲気、当の本人さえまだ意識しないレベルの気持ち、それはごく短く瞬間的に表われるものですが、それを察知する力です。
やや極端な言い方をすれば、いじめ感知力というべきものです。
それによってA青年は、約3名程が「気にいらない」と反応したと察知したのです。
この繊細な感受性は、A青年ばかりのものではなく、引きこもり(引きこもり系の不登校生)の多数に共通する特色です。
私がこれまで接触してきた数多くの引きこもり経験者の、日常的に表われる言葉、行動様式から知ることができたものです。
引きこもり経験者の「よくわからない」言葉の多くは、これによって相当程度が説明できます。
A青年が、直接会話をしたのは2、3人でしょう(私の推測)。
しかし「ほとんどの方が実際親切な人間なんだ」と感じています。
直接に接触しなくてもこういえるのはA青年が感じた、その人から感じられる雰囲気によるものでしょう。
感受性の強さは、いじめだけに発揮されるのではなく、親切さや温かさなどいろいろな要素を察知できるのです。
ですからこれはいじめ感知力というよりは、感情察知力というのがより適切でしょう。
A青年は約3名程のなかにどんな雰囲気や感情が生まれたのを見たのでしょうか。
A青年がそれを具体的な言葉にするのは難しいでしょう。
具体的な言葉にしたとたん、自分でもそうなのかなあ、という気持ちになるようなものでしょう。
ただ「気にいらない」という表面的な言葉が出てくるだけです。
このときの約3名程に、その場で聞いてみたとしてもうまく答えることのできないものでしょう。
それを私なりにやや強引に言葉にしてみれば、新しくやってきた人への「おやっ」「どういう人なのかな?」「親しくなれそうなのかな」かもしれません。
あるいは親近感というよりも何らかの違和感、自分と親しい人とA青年が話しているのを見て軽いライバル心、親しい人と話していて新参加者への関心の低さ・・・・。
それらは確定的でも継続的でもなく、ほんの一瞬のものでしょう。
このようなことが雰囲気として表われたとしたら・・・・。
A青年はそれらを鋭利に察知し、自分を「気にいらない」人がいると考えたのではないかと思います。
(4)いじめを感じやすいということ
しかしA青年は、「気にいらない」反応を、いじめと考えたわけではありません。
引きこもり経験者は自動的に、周囲の人の一瞬の「気にいらない」感情表現をいじめと思うのではありません。
そうなるには本人または周囲の人にさらにある要素が重なるときです。
たとえば「気にいらない」反応が、表面的な言動までになっているとき。
もちろん、これは程度によってだれでもいじめと感じるでしょう。
しかしそれがかなり低いレベルの言動であってもいじめと感じるのです。
「気にいらない」反応が、ある程度の時間、継続していると感じられるとき、これもかなり低いレベルでもいじめと感じることがあります。
あるいは繊細な感受性が笑いものにされたり、放置・無視され続けるなどの強い否定を受けてきた場合も、わずかな「気にいらない」反応をいじめと感じることはあります。
そういう否定され続けた生活をしていると、自分の存在自体をいけないこと、罪悪に感じ、とても打たれ弱い心理状態におかれます。
そういう状態では、比較的弱い「気にいらない」反応でも、いじめと思えてくるでしょう。
なかには被害妄想型になる人もいます。
これはやや病的ともいえるものです。
A青年のばあいはどうでしょうか。
必ずしも病的でなくでも、その可能性を考えてみる必要があると思います。
結び
原因、心理的背景、動機を明らかにするために、N少年の言葉を引き出そうとしても、短期間では無茶です。
N少年は自分の気持ちを受けとめる人に対してだけ、信頼関係をつくることができ、自分の気持ちを確かめながら自分の心の真実を明らかにできるだけだからです。
それは原因究明的な内容である以上に、癒しと治療の役割をはたす取り組みになるしかないのです。
少年法の精神もここに基づくものです。
A青年の手紙(抜すい)
ほとんどの方が、実際、素直で親切な人間なんだなと感じました。
それが、解るのは、自分も正直に生きていることと、今まで、沢山の人達と関わって生きてきたからだと思います。
ただ、自分がそう感じたからと言って、人から信頼を得るのは、大変なことであり、そうそう簡単にはいかない難しさがあるのも確かです。
そして、これは、言うべきことでもないと思っていましたが、やはりというか、自分がそちらへ伺ったことが気にいらない人間も約3名程いることに気付きました。
人間、誰でも好き嫌いの感情があるのは、当然だし、価値感も人それぞれだと思います。
でも、人が他の人間と話をしている際中に、当て付けに、中傷している姿は、残念に思い、また、「こういうような場でもそういう人間がいるのか.・・・」と、ちょっと、ガックリきてしまいした。
(みんなは、気付かなかったでしたが、自分はすぐ気付きました)
自分としては、充分な大人ではあるし、そちらでは、新人なので、今回は、静かに、身を引いて、顔を合わせない方が、この場合、良いと考え、次回からはそちらへ、伺うのを遠慮させて頂きました。
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