依存を条件つきで必要と認める持論
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社会的な関係、周囲の人たちのネットワーク的な協力関係のなかで改善する方法の必要性が明らかにされています。<br> | 社会的な関係、周囲の人たちのネットワーク的な協力関係のなかで改善する方法の必要性が明らかにされています。<br> | ||
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2022年10月20日 (木) 09:47時点における版
依存を条件つきで必要と認める持論
ブログ『ひきこもり居場所だより』7月10日に「T字型に寝るのは何かを求める姿(?)」を載せました。
これに対して「親が読むものだとしたら充分」としても、当事者としては「大事なことができているという表現の方が好ましい」ので、…「ギリギリの表現です」という意見を受けました。当事者の立場、視点からはより肯定的に書いてもらいたいということです。
私はこの意見を見てさすがに鋭いと思いました。
とにかく否定的に見られがちな依存について、私の意見を改めて書く気になりました。
じつは私は成人の依存については、かなり肯定的に考えています。
というよりは条件付き肯定といった方がいいと思います。
その意見(持論)をここに書いてみる気になりました。
人間は生まれた時点でほぼ完全に主に親への依存状態です。
その後、乳幼児期の成長過程で、親や周囲への依存生活をつづけ、10歳ころ(小学校の高学年ごろ)から、依存を脱する過程に入ります。
この子ども時代が、日本では過去半世紀の間に様変わりしました。
「子ども時代の喪失」といわれる時代を迎えているのです。
「子ども時代の喪失」のなかでもマルトリートメント(不適切な養育)を重ねて受けた子どもはその後、不登校からひきこもりになる可能性が高いと思います。
乳幼児期の親への依存(甘え)経験は、ある程度は子どもの生まれながらの気質や体質に関係します。
あまり人に頼らない、当てにしない、自分でやってしまう、という行動様式が幼少期から身についている子どももいます。
これは多くは心配ないのですが、一部には自分勝手、周囲の迷惑を考えないタイプの「問題行動」にすすむ場合があります。
思春期を迎えるころに、子どもたちは大きな波を迎えます。社会関係が迫ってくるのです。
人それぞれのしかたでこの大波を迎えます。
この波にのみ込まれ、あるいは退却しようとする人もいます。
これが不登校やひきこもりになるのです。
この波を乗り切る力は、幼少の子ども期の親や周囲の人への依存経験に左右されます。
他者に頼るなかで人への信頼感を持つ人は、この波に向かって進みます。
失敗しても支えてくれるという信頼感(それは人生への信頼感と言えるほどです)が、この挑戦する力になるからです。
私が直接に知るのは、成人したひきこもり経験者たちです。
子ども時代の依存不足、あるいはマルトリートメント・ハラスメント経験が多い人は、この大波を超える力が十分にできなかったと思えるのです。
成人のひきこもり経験者には、人への信頼性が弱いことにあり、それは子ども時代の親や周囲の人への依存関係の中で育ちそびれた力に思えることです。
自分に弱さがあるのは誰も同じですが、子ども時代の依存不足は人を信頼するとか、人生への楽観性が少ないように思えるのです。
このような、ひきこもり経験者には、相応の依存経験の補充が必要なわけです。しかしその方法はなかなか難しいです。
居場所における当事者間においては「つけ上がってくる」と避けられたり、「粘着されて困る」事態のなります。
この状態ではなかなか良好な人間関係に進めません。
互いに弱さを認め合い、信頼感がある友人・知人ができ難いのです。
居場所に集まってくる成人したひきこもり経験者のなかでは、特に初めのうちはこれが普通の状態です。
多くの人は相手を確かめようとします。
この観察期間は人によりますが、かなりの時間を要します。
カウンセラーやスタッフの関係はそれに比べると楽なので、優先してつくるのが一般的です。
このようなカウンセラー・スタッフと当事者の関係は「たての関係」といいます。
これに対して、ひきこもり経験者同士の関係は「よこの関係」になるわけです。
これは比較的相性のよさそうな人と徐々につくっていくのが一般的です。
これは多くの居場所的な場でくり返されていることで、きわめて自然な傾向です。
この状態を容認することは居場所運営の要諦ともいえます。居場所の役割で大事なのはここです。
当事者同士の相性は、くり返し様子を相手を観察しながら続きます。
特にいいのは、趣味や関心の共通性、あるテーマでの話し合いという場があることです。
共通の関心や活動があると、友好的な相手を探しやすいのです。
似た者同士がいいこともありますが、相当に違うタイプ同士が仲よくなることもあり、これが人間関係のおもしろさだと思います。
比較対照が問題にならないのがいいのかもしれないです。
このような過程を通して、子ども時代に経験を重ねられなかった人間への信頼感を高めるのです。
私はこの過程はまた、子ども時代の依存の欠乏を回復する過程であるとも考えています。
それでもやりすぎは発生しています。
しかし、成人した自立した人にも部分的な依存傾向は残るものです。
その経過の中で自分の沿った自己を確立していきます。
他方では、何かストレスがあると周りの弱い人につらく当たるという人もいます。
そういう過程を通して少しずつ依存を抜け出し、自立に向かうのです。
「なぜか食べ物にはうるさくて、それを周りの人のせいにする」「なんでもかんでもお金に執着して、問題をこじらせる」、こういう「一見自立している人」のなかにもこのような人はいるものです。
それがさらに高じた場合もいろいろに表われます。
アルコール・薬物依存なんかはそうではないでしょうか。
ひきこもり的な依存が強まり、家族に君臨して食事内容から片付けまで口を出し、支配するタイプもまれですがいます。
これらは病的な状態です。
しかしこの病的な依存状態は、医療の範囲だけではうまく対応できないこともわかっています。
社会的な関係、周囲の人たちのネットワーク的な協力関係のなかで改善する方法の必要性が明らかにされています。
私にはその様子を詳しく語るだけの経験はありません。