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Center:2002年11月ー精神的な自立と依存

提供: 不登校ウィキ・WikiFutoko | 不登校情報センター
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このバランスは、ある日のある時間帯をとると実現していないことが多いでしょう。<br>
 
このバランスは、ある日のある時間帯をとると実現していないことが多いでしょう。<br>
 
期間が長くつづくなかで、ある時間帯にそういう場面が生まれるのです。Qくんの例はそういう経過を考えさせられます。<br>
 
期間が長くつづくなかで、ある時間帯にそういう場面が生まれるのです。Qくんの例はそういう経過を考えさせられます。<br>
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[[Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|2002年11月]]
 
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2021年1月6日 (水) 07:40時点における最新版

目次

精神的な自立と依存

〔『ひきコミ』第18号=2002年12月号掲載。最終更新2003年1月29日〕
不登校情報センターには、引きこもり経験者など対人関係に不安をもつ若者たちの当事者の会(居場所)がいくつかあります。
彼ら、彼女らの大部分は話し相手、友人あるいは対人コミュニケーションの場を求めて、ここに参加しています。
アルバイトや仕事さがしを始めている人もいます。それらを合計すると100人を超えます。
その状態はすでに働き1始めている人から、引きこもり状態をほとんどそのまま引きずっている人まで幅広い様子を示しています。
多くは、引きこもり状態を抜け出しながら、次のステップとしての社会参加の前にとどまり、模索している状態といえるでしょう。
その当事者の会に参加している人たちの間ではさまざまなことが発生しています。
そのことの中に、彼ら、彼女らが、なぜ引きこもったのか、引きこもらざるをえなかったのか、引きこもってどういう精神状態になったのか、そこから前進していくには何が必要なのか、そのほかいろいろなことが表れています。
引きこもり状態から抜け出し、当事者の会で話し相手をさがし、友人をさがし始めた人たちは、同じようであっても、そのスタート時点でさまざまな様相を示しています。
そこに表れる共感、すれ違い、思い込み、とまどい、衝突、驚き…などを通して、人と人との関係、コミュニケーションの成長、発展をとげているのです。

依存と負担のあらわれ

AさんがBくんに向かってこう言いました。
「私はここにいていいんですか?」。
当事者が自由に出入りすることができるフリースペースの場でのことです。
Bくんは、その時間に、フリースペースをほかの人が利用する関係で、何かそれらしき理由があるから尋ねられたのではないかと考えました。
部屋の中をみたところ誰もいないし、特に何かが置かれているわけでもありません。
Bくんは「いいと思いますけど──」とAさんに答えました。
Aさんが「本当にいいんですね」と念を押します。
Bくんは、何か心配することでもあるのかと思い、少し不安になって、Aさんに「どうしてですか?」とたずねました。
Aさんの答えは「いえ、別に…」です。
Bくんは、何もないことをAさんが自分に確認、もしかしたら保障を求めている気がしました。
Bくんは自分にはそんな役割はないのに、Aさんの行動や所在に少し責任をもたされた気分がしました。

サポート役を求めるPさん

30代の女性Pさんが当事者の会に初めてやってきました。
当時は、当事者の会は“自主”運営という名の放任状態でしたので、私は「どうぞ」と迎え、その集まりの場を教えました。
しばらくしてPさんがその場から抜け出て、私のところに来ました。
私は不登校情報センターの責任者ですから、だれに尋ねるべきかを考えて、私のところにやってきたのでしょう。
「ここには初めて参加する人に対してはサポートするような人はいないのですか?」。
Pさんが尋ねた言葉です。
Pさんは、何かを求め、期待してきたのですが、自分がその場に居るからといってだれも何もしてくれない。
これでは何のためにやってきたのかわからない。
そういう気持ちで私に訴えたのでしょう。
「実はある病院に入院しているのですが、そこでは看護婦や医師など病院関係者はいますが、その人たちとはよく話し合える条件はないし、人と話ができる場がほしかったんです」。
その部分を補充するために居場所を探し、人と話し合える機会を求めてやってきたのです。
やってきたけれども「だれも何もしてくれない」──それが訴えの内容でした

現在の不登校情報センターは、この点を改善して、初めてやってくる人には、初歩的なガイダンスをするようにしました。
これはPさんのようなケースがくり返されてきたことと、現実にボランティア的に対応できる役割を受け持つ人が現われてできるようになったのです。
しかし、事態が大きく変わったとはいえません。
Pさんは、彼女なりにかなりの勇気をふるって参加したと思います。
Pさんは年に数回はやってきます。
人との出会いを求めるけれども入院との関係、自分の精神面の動揺もあって、対人関係では多くのサポートを必要としているのです。
Pさんの場合は、彼女なりに勇気はふるっているけれども、精神的自立の面からみると精神的依存状態との境界付近か、いずれにしても精神的自立が低いか未発達であるように思います。

もの静かなQくん

Qくんは30代の男性です。
当事者の会に来はじめて2年以上になります。
来所の頻度に多少の波はありますが、月3~5回コンスタントであると思います。
当初は参加しても無表情であり、隣にいる人から声をかけられたとき一言、二言静かに返事をするだけでした。
ただその表情は落ち着いていて、内面はともかく緊張はさほど強いとは思えません。
声をかけられたときは強い拒否的な表情ではなく、ややとまどい、どう対応すればいいのか困る、という感じでした。
それでもQくんが継続的に当事者の会に通いつづけられたことは、そこにある種の意志と精神的な粘り、私からみて一種の落ち着きが感じられたことによると思います。
何かを積極的にきいてくることは記憶のかぎりはありませんでしたが、安定しており、緊張からくる固さが外見上はみられないぶん、安心して受け入れることができました。
Qくんのばあいは、初めから、精神的自立の少なくとも低位での到達はあったと思います。

Qくんは、1年半すぎたことから少しずつ笑顔が出るようになりました。
話す言葉も主語、述語のはっきりした会話になりました。
会話のレベルでみると、当初のQくんよりも、Pさんの方が明瞭であったと思います。
会話の内容では、Pさんは初めから終わりまで、自分への支持を求めていたところがありました。
Qくんにはそういう内容はなく“自分の問題は自分の問題”という雰囲気──と言ってもQくんがそういう言葉を発したわけではありません──があったように思います。
会話という自己表現の面だけでは、この精神的自立の程度は量れない面がある、ということでしょう。
はじめのAさんとBくんの関係をみると、AさんはBくんを頼り、かなり依存しているようにみえます。
しかしBくんとQくんを比較してみると、BくんはQくんよりも精神的自立の面では同等かそれ以上のような気がします。
もしQくんにもう少し“場慣れ”があり、自分から人に話しかけられるようになったときに出会う状態が、Bくんと同じレベルのような気がするからです。

対人関係の依存と自立の構造

Aさん、Bくん、Pさん、Qくんと4人のことを思い出しながら対人関係の一面を紹介しました。
次にこの対人関係をより段階的に見ていくことにします。
そのためにAさんとBくんに代表に出てもらうことにしました。
Aさん──対人関係において精神的依存状態にある人たち(Aクループとしましょう)の一人です。
Bくん──やや元気があり、対人関係において精神的自立のある人たち(Bグループ)の一人です。
ここでは、精神的依存と精神的自立がキーワードです。その意味内容を少しずつ明らかにしていきます。

引きこもりを経験した人にとって、話し相手、友人を求めることは自然なことです。
それは引きこもりから抜け出す法則的ともいえる条件と一致しています。
Aグループの人同士の間では、人間関係はなかなか成立しません。
現実には当人同士はそれぞれAグループに属すと思っている人の間で、ある継続的で変則な友人関係があります。
これは、少なくとも一方がAグループに属するものではないと考えたいところです。
Bグループの人同士の間で、人間関係が友人関係にすすむことは当然です。
その条件は、仲良くなるにしても仲良くなれないにしても、お互いの意志が表れます。
同性同士だとうまくいく、男女間だとうまくいく、年齢差、個人的関心や趣味などが関係します。
注目すべきはAグループに属する人とBグループに属する人の関係です。
それをAさんとBさんの関係としてみることにしましょう。
問題になることもあれば、サポートの形としてすばらしくなるものもあります。

AさんのBくんへの依存

BくんがAさんの行動や所在に責任をもたされた気分の例を前にあげました。
それにつづくBくん側からの訴え(私への相談?)には、こんなこともあります。
AさんがBくんにあるお願いをしました。
それは当事者の会としての条件を改善するために、サポート役をつけてほしい。
それをBくんから責任者である私に頼んでほしい、というものです。
BくんはAさんの状態が大変なのだろうと思い、私に話しにきました。
そう思いつつも、その一方でBくんは、Aさんの“代理”を務めたことにちょっと不安を感じました。
このままAさんのいうことを受け入れていくとどうなるのだろうか? ある日、Bくんがやってきて言いました。
「もう受けとめきれない。こちらが苦しくなる」という話です。
Bくん自身が外見はともかく「自分の問題で精一杯なのに、Aさんに話しかけられ、受けとめる側になっている。
2人の間では私(Bくん)の問題にはちっとも入っていけず、Aさんの問題だけがめぐっている。もう限界です」という内容です。
AさんはBくんが同一の当事者の会のメンバーであり、元気そうであり話しかけやすい雰囲気があり、話しかけるきっかけをつかみやすかったのだと思います。
だれかが話しかけてくれるのを待っているAさんにBくんの方から声をかけたこともあります。
Bくんは比較的元気そうで話しやすい気がする──それは精神的自立がある程度以上あることの証明です。
AさんはBくんに自分の問題を話し“お互いに”話し合える関係で、できれば友人関係になりたいのです。
しかし現実には2人の間では、Bくんの抱える問題をAさんを含めて2人で一緒に考える場面はありませんでした。
Aさんは自分のことで精一杯で、Bくんの状態に思いを及ぼす気持ちの余裕は持てないからです。
実質的には“お互い”の問題を話しあっている場面はありません。
Aさんには何らの悪意はありません。
それはBくんにもわかります。
引きこもりを経験した人の大部分は、Aグループに属していようとBグループに属していようと、本来的に、やさしい、おとなしい、まじめ、正直、すなお、内気、ひかえめ…という人です。
この事態になってBくんがAさんを攻撃的な形で、ストップをかけることはほとんどありません。
BくんはAさんの問題を自分が抱えたまま困惑してしまいます。
Aさんの問題を受けとめたまま身動きができず、ギブアップ状態になります。
Bさんはその自分の状態をAさんにどう伝えるのかとても困ります。
Aさんに起因することを口にすることで、Aさんを傷つけてしまうのではないかと考えるからです。
そこにカウンセラー役や別の仲介役がいるとBくんは助かるのですが…。
しかしそういう条件がないと2人の間で事態が進行し、逼迫していきます。
Bくんは、Aさんに対して「これ以上、私にはあなたの話し相手になることはできない」旨を伝えることになります。
困惑したBくんが「もう話し合うのはよそう」とか「これ以上は私とかかわらないで!」とAさんを拒絶する形になることもあります。
Bくんにとっては精神的にきれた状態でしょう。
Bくんは、受け入れ姿勢が整わないかで、無意識のうちにAさんのサポート役を求められたのです。
なかにはその役割を受け持つもとのできる人もいます。
ここで自分自身の前身になる要素を学ぶ人もいます。
たとえばカウンセラーの助言をえて、そういう道をたどる人もいます。
しかしだれもがそううまくできるわけではないのです。

Bくんから拒絶を受けたAさんはかなりショックです。
Bくんのことを思いやる余裕もなく、いったい何がどうなったのかさっぱりわからないこともあるでしょう。
Bくんに対してAさんが「裏切られた」という感情をもつこともあります。
しかし、そこで人間関係における“お互いさま”=相互性を学ぶ人もいます。
Aさんがその精神的依存から抜け出すには、Bくんグループの人のサポートを必要としています。
しかしBくんグループの人にとってそれは必ずしも楽なことではないのです。
Bくんグループの人でそれができる人は、いわゆるピュアカウンセリングができることになるのでしょう。
Aさんはより本格的な意味でカウンセラー役のサポートを必要としているように思います。

自立している人の次の課題

Bグループの人には、Aさんからこういう事態にあって「もらった」と表現する人がいました。
Aさんの心の中にあったストレスや心のゴミみたいなものを、話をきいているうちに自分の心の中に取り込んでしまった、というほどの意味でしょう。
それでBグループの人自身が苦しくなっているのです。
Bグループの人には、Aさん側のこの事態を「つけ上がる」「つけ込んでくる」と表現する人もいました。
Aさんの言い分をきいていた。
どんどん話がつづき、自分はただ聞いているだけでいいのかわからない。
ときどき相づちを打ったりする。
AさんはBくんの気持ちや都合をちっとも考えようとはしない。
Aさんのもっている心の中のものをどんどん持ち出してくる。
Bグループの人ではそれを「つけ上がる」「つけ込んでくる」と感じる人もいるのです。
この場合には、2人の間に友達関係に進むことは難しいです。

Bグループの人には、この「もらったり」「つけ込んでくる」のを受けて、体の調子を崩して、寝込んだり、うつ状態になった人もいます。
Bグループの人の精神的自立がある程度高いと、一般に体の調子を崩すほどのことにはなりません。
体調を崩したりするのは、Bグループの人自身が精神的自立という面で、まだ課題をもっていることを示しています。
Bくんは、Aさんタイプの人と何度かこのような場面をくり返して、話し相手を慎重に選ぶようになりました。
それはそれぞれBくんには一つの前進の面です。
Bグループの人の中には、その結果、精神的自立の高い人、社会的自立をしている人との友人関係を求める人もいます。
それもまたBグループの人には前進の証拠であり、さらに前進できる条件になるでしょう。

使用した用語の範囲

ここまでを少しまとめをしておきましょう。
使用した用語のおおよその範囲は、当事者の会(居場所)という場面から生まれることを整理したものです。
そこを基準にやや広く意味づけてみました。

(1) 精神的自立が強い人とそうでない人の境界
依存の強い人は、次の2つの点で外形的に判断できると思います。
1、 言葉として(とくに賛意、拒絶の)意思表示がお願いする形になる。
そしてどこでも、だれに対しても少ない(家族に対しては表れる)。
2、依存しているという意識が少ない。受け入れの確認を求めてくる。それがないと不安である。
私には、この2つの点を満たす人は、一般的に依存性が高いと思います。
当事者の会に参加できる人の多くは、この境界を超えているように思います。
実践的には、当事者の会に参加できるようになった人の多くは、精神的依存の下位レベルは超えた人と考えられ、また一部がこの境界付近にとどまっていると想定して対処できると思います。

(2) 精神的自立の達成
精神的自立は、独自に取り上げることができますが、その達成という面は一人の人間としての社会的自立との関係でみないわけにはいきません。
精神的自立の基本的な達成は、その人の社会的自立の後になります。
当事者の会(居場所)においては、精神的自立を下位レベルで超えた人から社会的な自立に到達直前までの人を含む、さまざまな状態の人がいます。

(3) 社会的自立
その人の自然な能力において、ときには社会的な支援を受けながら、独立した人生を歩める状態の人です。
必ずしも経済的自立とは同一ではなく、なかには経済的には自立していない人もいます。
たとえば収入のない学生、結婚して本人には収入のない人(主婦や主夫)。
ある程度の心身に障害のある人でもその条件において社会生活を営む人は、経済的自立はなくても社会的自立をした人といえます。

(4) 経済的自立
 経済的自立をしている人のほとんどは、社会的または精神的自立を達成していると考えられます。
しかし、人によってはその生活条件、経済条件が動揺的であったり、非活動的な収入方法(たとえば遺産相続)であるため、経済的には自立をしていても、精神的自立の程度が低かったり、社会的自立が未達成になっている人もいます。

(5) 当事者の会(居場所)の多様性
当事者の会の構成者は、精神的自立の低位レベルの達成者や境界レベルの人から、社会的自立に入った人や一部に経済的自立をしている人も含むものです。
居場所を活用する粘りがほしい
このような過程をとおして、Bさんグループの人は知り合いや友人として親しく話しのできる人ができるようになります。
やがて親しい友人が数人はいるという状況にもなるでしょう。
Aさんグループの人はさらに多くの過程をへてこの道をたどります。
Qくんのように、ある程度の会話や笑いや表情が出るまでに年単位を要する人もします。
私たちは、引きこもり経験者が、出かけて行こうとするときに、出かけていっただけのこと、少なくとも出かけて行ってよかったと思える場づくりをめざします。
これは微妙のバランスを要する場づくりです。
サポート役がどの程度、何に対して動けばいいのかは、一人ひとり違います。
同じ当事者の会といっても、その日その時その場にやってくるのは少しずつ違います。
その場を予定することは困難です。
この当事者の会のメンバー同士の顔合わせこそ、引きこもりの人が「出かけて行ってよかった」と思えるかどうかの分岐点です。
それがきわめて偶然性の高い要素に委ねられているわけです。
私にできることは、個々のだれとだれの組み合わせがいいとかよくないとかを考えることではありません。
それが各人にとっての重要テーマであったとしても、私はよりよい場、居やすい場という一般的なことを考えるだけです。
しかし現実には、その居やすい場をかき乱す要素も発生します。
それを排除の方法ではなく、一般的には対人関係の向上につながる形で受け入れなくてはなりません。
現実には失敗の連続というのが当たっているでしょう。
しかし100%十分ではなくてもよいと思います。
その場づくりには、ある人数が必要です。
しかし、とくに精神的自立が低いレベルの人ほど、求める相手は限定され、その人を見つけ出すにはより多くの人がいることは必要です。
しかし人数が多いと今度はそれ自体が心理的な抵抗を感じやすいのも精神的自立が低いレベルの人の一面です。
二律背反状態です。
このバランスは、ある日のある時間帯をとると実現していないことが多いでしょう。
期間が長くつづくなかで、ある時間帯にそういう場面が生まれるのです。Qくんの例はそういう経過を考えさせられます。

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