Center:2001年5月ー居場所をどうつくるか
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2021年1月6日 (水) 07:33時点における最新版
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居場所をどうつくるのか
『ひきコミ』第6号(2001年5月)
前号のエディトリアル「人と関わる力を考える」の主旨を「引きこもりに居場所づくりを」として朝日新聞「論壇」に投稿しました。
多くの方から問い合わせ、質問、提案をいただきました。
どのように居場所をつくればいいのか。
サポート活動に参加したい。
親として何かしなくてはならない。
資格や認可はどうなっているのか。
元不登校・引きこもりの経験者でできることがあれば協力したい・・・などです。
これら全部に答えるわけにはいきません。
また答えは一つではなく、いろいろな方法、考え方があります。
本誌『ひきコミ』は、居場所づくり、親の会・当事者の会づくりをすすめる情報交換の役割をもたせることができます。
今回は、不登校情報センターがどのように居場所づくりをしてきたのか、その考え方と若者の体験者グループ「人生模索の会」の2点について、報告します。
教育的アプローチの役割
居場所とは、場所の一種ではなく、人々の集まりの一種です。
この人々の集まりを成り立たせるものはいくつかあります。
一つはテーマです。
「私にはそれが必要だった。命がかかっている、人生がかかっている」という切迫感があって始める人もいます。
将来の職業としてカウンセラーになる、教師になる、その実地訓練の場にしたい。
ビジネスチャンスとして位置づける人もいます。
このような現実的で興冷めするようなものが長つづきをすることがあります。
私自身の場合でいえば「できることをしよう」「これならできる」という思いが、不登校情報センターの設立と、居場所づくりの動機でした。
しかし、続けていくなかで、求めているものが少しずつ明確になったように思います。
当初は自分でも自覚していなかった潜在的な動機がわかりました。
極端に言うと、科学あるいは科学を実務として扱う場への不信です。
精神医学、心理学、教育学の現場への批判的な気分です。
私はそれらを口にするときは、ある程度自分なりのものを提示でき、できればその理論的背景の大枠的なことと一緒に提示したいと考えてきました。
それはたぶんこういうことです。
精神医学において生物学的研究が進み、人間の精神活動には体の器官が機能し、ホルモンなどの体内物質が作用していることがわかりました。
特に脳や神経系の微細な器官や体内物質を解明することで、精神活動、精神作用を理解できるとわかりました。
さらに進んで、器官を治療したり、薬物などの物質を導入することで、精神活動を変えられることもわかってきました。
これは医学(人体の科学)の一つの進歩です。
しかし、私にはこの医学的アプローチは、重大な精神疾患とか緊急を要するときに集中されるべきことのように思います。
精神活動の主体は当の本人であり、医師または医療機関に左右されるものではないと考えるからです。
人間の精神活動においては、対人関係の向上、たとえば親友ができることによって、顕著な変化を目にすることができます。
対人関係とは、ものを学ぶ(学習)、働く(仕事)、社会生活などおよそ人間が生活していくうえでの、ほとんどの場面での基盤となるものです。
対人関係の改善、向上によって人間が精神的に活発になっ ているときとはどんなときでしょうか。
それを生物学的精神医学の面でみれば、脳と精神系の微細な器官が成長し、もしかしたら新たにつくられ、ホルモンその他の体内物質が活発に生み出され、作用している状態であると推測されます。
精神活動に体の器官や体内物質が関わるときとは、精神状態が低迷、病的な場合だけではないからです。
精神が高揚し、活発化しているときもまた、作用していると考えるのが合理的です。
このような精神活動を活発化させるのは、対人関係が生まれ、改善されるときと深く結びついています。
それは特に教育的アプローチによってもたらされるものです。
言いかえるなら、人間の精神活動を改善する一般的な方法は教育的アプローチです。
教育的アプローチによって、精神活動の主体が、当の本人のものになります。医学的なことが必要であっても、最後はその精神活動の主体を、本人自身に戻さなくてはなりません。
医学はマイナスを補充し、教育はプラスを引き出すのです。
私が実行していることは、この教育的アプローチの私なりの到達点です。
それは無自覚に始まり、不十分な現状を 示しています。
ただそこに人間関係づくりの一つの方法があると思います。
その要旨は、対人関係を不得手とする人たちの友達のできそうな環境づくりです。
これをさらに発展させ、あるいは、個性に富んだ場があちこちにできれば、不登校、引きこもり、対人関係不安の人たちのサポートの場となるでしょう。
そこには、とりわけ資格が必要だとは思いません。
医学や心理学や教育学を学び、それぞれの資格や免許をもつ人も参加すればいいと思います。
しかし資格があってもそれに頼らない、資格はなくても参加できる、この姿勢がいいと思います。
居場所から人生模索の会へ
不登校情報センターとして、不登校・引きこもりなどの体験者の若者グループをつくったのは、5年ほど前のことです。
当初は「通信生・大検生の会」という名前でした。
休日を中心に会合をつづけました。
1人だけしか来なかったこともありました。
ときたま10人を超えることもありました。
だいたい4~6人だけのミニ会合でした。
続けていくうちに、高校を中退したままの人、大学に進学した人(大学生)、通信制大学生、大学中退者、元不登校の社会人、引きこもりから抜け出そうとしている人など、いろいろな人たちが加わりました。
当初の私のもくろみは、友達づくり、学習、情報交換の3つをすることでした。
実際に成長したのは、会って雑談をする会です。
情報交換しながら、友達づくりにつながる場といえば格好はつきますが、私のもくろみがどうであれ、そうなるしかなかったものだと思います。
ただし、いくつかの意図的な試みもあり、それなりの実を結んだものもあります。
例えば同人誌をつくった人がいます。
当時18歳の通信制高校生だった彼女Kさんが同人誌を発行したいと言ってきました。
それをこの会の会報に載せ、文や絵をかいて送ってほしいと呼びかけました。
そして「ESCAPE」という同人誌ができました。(5号まで、1年間発行)
これをKさんの住んでいる地域の新聞、タウン誌、雑誌社などに、手紙とともに送りました。
約10件ほどの取材申し込みがありました。
その報道記事を読み、不登校の子をもつ親から彼女の元に相談したいという事態が生まれました。
Kさんはお母さんと一緒にこの相談を受けました。
相談を続けるうち、彼女は、家から出られないといっている小学生の自宅を訪問することになりました。
最初の訪問活動を始めたのです(今日では、訪問活動は私たちの活動の重要な一部になっています)。
このような、「何かを始めてみよう」というのが、ときたま一つの動きになることはあります。
それがこの会の中心目標とか、参加目標というわけではありません。
この会の有志の取り組みとなるものです。
この会の特色の一つは、メンバーは多いのに、実際に参加するのは少ないという点です。
当然でしょうね。
そういう友達づくりのできる場といっても、人の集まる場です。
そこにすんなり入っていけない、その前に家から出られない、電車に乗れないという人もいるのですから。
参加の意思表示をしたが来られない人、意志表示なく参加した人を合わせると、ざっと400人以上います。
そのうち実際に参加できた人は150人ぐらいです。
あるとき不思議なことに気がつきました。
私が一度もあったことのない人同士で家も遠く離れているのに、私しか知らないはずの人同士が友達関係になっているのです。
聞いてみると文通をしていて、いつか会うようになっていたのです。
後にこの経過を生かして文通サークルをつくりました。
文通をする人を広げようとして、自己紹介や手紙を冊子にまとめ、必要な人に渡すようにしました。
それがいま手にしている個人情報誌(ひきコミ)の出発になったものです。
このような例をあげると、いろいろな活動が参加メンバーの自発性によって生まれたように見えます。
しかし参加メンバーの自発性による提案の多くが生かされたわけではありません。
むしろほとんどは芽を出さないうちに消滅しています。
また、自発性で生まれたことも、そのときどきの条件づくりがされないと形として顕れてきません。
その条件は、それを考えついた当人の意欲が第一です。
その場合、彼ら、彼女らに私がすすめていることは、熟考よりも一つ動くことです。
動き出せば応援する人が出やすいのです。
熟考されても、動きがなければ「応援する側」は手も足も出ません。
応援こそ人と人の関わりを活性化させる望ましいものです。
私が意図的に提案してうまくいかなかったこともあります。
人材養成バンクという、この引きこもり傾向の人と仕事をつなぐ試みもその一つです。
これは実を結びませんでした。
しかし、この成果少ない取り組みからは多くのことを学びました。
(詳しくは武蔵国際総合学園(編)『不登校と向き合う』朝日新聞社)。
彼ら、彼女らの人間関係づくりの初歩ができていないなかで、誰かほかの人に頼み、研修や実地の仕事につきながら、人間関係のトレーニングと、職業上のトレーニングを重ねるのはハードルが高いのです。
このトレーニングの過程を私自身で慎重にみきわめるが必要あったのです。
後に、通信生・大検生の会を 引きつぎ、引きこもり経験の人によるグループ・人生模索の会が派生しました。
その会の席で、10年の引きこもりの経験がある一人T君がこう言いました。
「自分に必要なのは、トレーニングも兼ねて、収入につながる、会社みたいなもの」と。
今日、人生模索の会は、不登校 情報センターの居場所という人の集まりの中心になっています。
私がもくろんでいることは、そこに参加する人が互いに知り合いになり、雑談ができるようになり、スポーツやコンサートやカラオケや喫茶店に一緒に出かけ、友人や親友になることです。
しかし、参加者一人ひとりはそういう目的のために来なくてもかまいません。
楽しい、楽に人の中に居られる時間をもてたら、それでいいのです。
この人生模索の会に、参加者の発意、情報交換の形でいろいろなことが持ち込まれます。
正式な議題というものはありませんが、雑談の形であれ、参加者募集の形であれ、いくつかの取り組みがありました。
最近では花見がありました。
大晦日の夜、都内を十人余で“徘徊”したこともありました。
ある人の別荘に合宿もありました。
そういうレクリエ-ション的な提案とともに、仕事に結びつきそうなこともあります。
パソコン教室の開設、女性グループがひらいたビジネスマナー講座はそういうものでしょう。
これからもこの種の提案や取り組みは続くものと思います。
それを私はTくんが言った「トレーニングも兼ねて、収入につながる、会社みたいなもの」という視点で育てたい、支援したいと考えています。
雑談で交流場をつづけていく
最後に、人生模索の会の会合自体がどういうものか紹介します。
いまのところ、その会合は水曜日の午後1時から始まります。
1時に集まってくる人の多くは初参加や比較的参加回数の少ない人です。
1時に始まるというのを几帳面にうけとる、メンバーの一面が出ています。
開会宣言はなく、いつの間にかそこにいる人同士がぼつぼつと話し始めることが、私の一つの理想です。
先輩格の人が早く来て、初参加の人に尋ねるとそういう形になります。
しかし必ずしもそうなるわけでなく、5、6人そろったところで自己紹介から始めることもあります。
常連的な人が遅れてやってきます。
何かの都合で遅れた人もいます。
それだけではありません。
彼ら、彼女らには、「参加したとき自分だけしかいない」という状況を避けたい気持ちがあります。
そういう場面がこれまでにあり、たぶん居心地が悪かったのでしょう。
自分が参加したときには、すでに何人かいて、そこに入っていけるのがいいわけです。
これもメンバーの別の一面を表しています。
一方に自己紹介をする数人、他方に2、3人から数人で何かを話しているグループができる状況が生まれます。
携帯電話がかかり、席をはずす人、タバコを吸うため外に出る人もいます。
話が途切れたところで、別のグループに移る人もいます。
黙って人の話を聞いているだけの人もいます。
私が気になるのはこの人たちですが、特に何かをすることはまずありません。
そんな状態のある人が「人のいる雰囲気があっていいです」といったのを覚えています。
全員がそうではなく、話に入っていけない、そのきっかけがつかめなくて困っている人もいると思います。
私はそんなとき何をすればいいのかわかりません。
わからないことはしないことにしています。それを負担に感じると、会の設置者が雰囲気を左右したり、気持ちの上で会の続行ができなくなります。いずれもいい結果ではないでしょう。
何もしない、何もできないことはベストとは言えませんが、悪いことではありません。
話の内容はまさに雑談です。
自分が夢中になっていることを相手かまわ ず話す人もいます。
学校時代のこと、子どものころの出来事、印象的な本、引きこもり生活、病気体験、好きなタレントやコンサートに行ったこと、スポーツ、筋肉トレーニング、食べ物、通信販売、旅行、アルバイト体験、就職試験、服用している薬、ほかの居場所やカウンセリングのこと、およそ日本の若者が体験しているありとあらゆることの断片です。
健康や体に関することがやや目立つことでしょうか。
ときどき親も参加します。
親が参加して言うことは「この人たちは引きこもりなんですか?」というちょっとした驚きです。
参加した親は出席者になにがしかの質問をしています。
たいがいは穏やかに受け答えをしていますので「とてもいい方たちですね」という感想も多いです。
「うちの子もここに来れるようになればいいのですが・・・」とい う言葉を残して帰られます。
会はだいたい5時で終わります。参加者は20人~25人が多いのですが、だんだん増えてきました。
今年に入って一度でも参加したことのある人は、70~80人にはなるでしょう。
5時の終了後は、そのまま帰る人、近くのファーストフードに入り二次会になる人(これもかなり遅くなることがあります)、数人でカラオケボックスに向かったり、一緒に食事をする人もいます。
ここでもまた別の話が続いています。それはたあいない話でしょう。
それは人を理解するうえで欠かせないことです。それこそコミュニケーションでしょう。
だから延々と雑談はつづくのです。
この会がこれからどうなるのかは予想できません。
私にできることは、会の中に入って、何かをどうにかして流れや方向を決めることではありません。
それは雑談できる雰囲気を崩してしまいます。
できることは、いつ開くのか(曜日や時間帯)、どのようなテーマ(ときに年齢、状態の共通性)で小グループ的なものを別に開いていくのかの判断です。
その判断の材料となるのが参加者の要望、参加していないけれども何らかの形で内容を聞いてくる人の言葉のニュアンスです。
たぶん私は、この流れを左右するのではなく、彼ら、彼女らの流れに乗って動いているのだと思います。
だから続けていられるのでしょう。
福祉に関わっている人がこの会に参加して、自助グループですね、と言いました。
別の人はカウンセリングにおけるエンカウターグループと同じですね、と言いました。
精神科に受診しているある人が参加してデイケアと似ていますね、と言いました。
おそらくもっと違った言い方、評価のしかたもあるでしょう。どれでもいいのです。
ただどれかに性格づけて、それに納まるようにしようとはしたくない気はしています。