Center:141ー女性の謎は女性にも謎(未完成メモ)
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2019年1月3日 (木) 20:09時点における最新版
女性の謎は女性にも謎(未完成メモ)
〔2011年10月22日〕
引きこもりに対応しているある精神科の医師が、男性は対応のしかたに順序性があるけれども女性の場合はそれがわかりづらい、という趣旨の話をしていました。
私も似たような感覚を持っています。
女性は生命力が強く“しぶとい”のと、こちらが予測したこととは離れた反応をすることが多く、“どうなるのか読めない”感じです。
その人個人に直接に向き合い、こちらがしようとしていることがおおよそその人の気分にあっていれば、何かがすすむという印象をもちます。
複数の人に同時に何かをするときの女性の反応は、否定的ではなくても振り返って見ると何もなかったのと同じ感覚が残ります。
男性に対しては、受けとめ方や理解のしかたに個人差はあるとしても女性のような拡散してとらえどころに困る状態とは違います。
マラソンの瀬古敏彦さんは選手を引退した後、SB食品の男子陸上部の監督をしていました。
その瀬古さんがあるインタビューで「女子選手の指導をしないのですか」と問われました。
「男子は一人ひとり自分の役割がわかれば、集団のなかで自分の位置をつかみ自分で練習方法を考えます。
女子は指導者と1対1の関係で指導員が選手を育てていく関係になります。私は女子選手の指導には向いていないのではないでしょうか」という趣旨の答えをしていました。
私が女性に対して感じることも瀬古さんと似たものです。
男性はおおよその順序性、たとえば個人の安定感⇒対人関係を重ねる⇒社会的な技術知識の取得⇒実社会の経験を連続的にたどります。
このコースを順番にすすんでいきます。
たしかに個人差はあり、人によっては各段階が重なり、ときには前後関係が逆になることもあるでしょうが、全体の筋道が見えるように思います。
女性もおそらくは同様の過程を通っていくのでしょうが、個人差が男子よりもさらに大きく、一般的なコースを通るにしてもそのときどきの様子に対処することを求められるような感じです。
次にもう少し違った面を見ましょう。
大塚恭男『東洋医学』(岩波新書、1996年)に引用されている文です。
7世紀の中国を代表する名医であった孫思邈(そんしばく)の『千金要方』(650年ごろ)のことばです。
大塚さんの本の「産婦人科疾患の漢方治療」に引用されています。
「しかし、女性は男性より嗜欲が多く、病意識が倍ほども強く、さらに慈恋、愛憎、嫉妬、憂患の情がいちじるしく堅牢で、感情を自分で抑えることができないので、病根が深くなり、治療に骨が折れる」(142ページ)。
これは女性を否定的にみていると読み取れますが、女性が持つ肯定的な特性として見ることもできます。
母親として子どもの様子をみる、家族全体の健康をみる、男性に受身のかたちで出会い関心をひきつける、それが家族をつくるのにつながる。…そういう人間における女性の役割を果たしやすくしているのではないでしょうか。
男性との対比において個体維持、種族維持を図るのに適した役割をするように出来ているとみることができます。
性教育の山本直英さんは、動物の一見よくわからない振る舞いや行為は種族維持に結びつけてみると理解できることがあるといっていました。
個体維持と種族維持という生命本能に結びつけ、その発露とみれば理解できるとする山本先生の説に納得できます。
意識されているものばかりではなく、自分でも気づかないし無意識な振る舞いや行動になっているのでしょう。
それだけに自然な現象といえるのです。
男性が一般に攻勢的であるのに対して女性が受身的であるのはこれに由来します。
もちろんそれによってすべてが言い尽くされるのでもありません。
女性の攻勢性も、男性の受身性もありますが、それらは省略します。
男性との対比のなかで森田主馬(森田療法の開始者)は、女性は感動が強いことを挙げました。
宮城音弥(心理学者)は動物としての原始性が強いことを指摘しました。
これら著名な専門家を引き会いに出すまでもなく、日常的に感じられることです。
これに対する男性の特質は、理性が強い、文化性が強いとでもなるのでしょうか。
となれば感動や原始性は両方とも否定的に響く言葉ですが、むしろここに女性の強さや役割があり、男性には追いつかないものがあります。
男性のそれはいっけん優れているようでいて、人工的でありもろい面があるともいえるわけです。
女性の“直観力”がすぐれていて、男性には太刀打ちできないことはこれに由来するように思います。
男性が事態を分析・総合して全体を把握しようとするのに対して、女性は全体を感じて判断するといえそうです。
男性が理路整然と間違うとすれば、女性は直感が外れるとなります。
個人的な感覚で女性はどうしてああなんだろうと思うことは、根深い信仰心です。
盲信レベルも少なくはありません。
信じるか信じないかが問題であって、正しいとか証明とか論拠は問われもしなければ、思いもよらないレベルのときもあります。
これには無駄な抵抗はやめて話を打ち切り、退散するしかありません。
そうすると好意的に受け取られることはなく「理解しようとしない」「話しを聞こうとしない」態度にされてしまいます。
とんでもないことに、女性のそのような心情から生まれた判断が日常生活においてはときには有効なこともあります。
負け惜しみを言えば、ある種の動物は人間(というより最高の地震学者)よりも、地震予知に優れています。
しかし、その動物が人間よりも進んだ地震学を獲得しているのではないのです。
なのに私にはうまく説明できないことが、当の女性は初めからわかっていたように振る舞うとなるとまさにお手上げです。
もちろんこれらは事態を単純にしているわけで、事態はより複雑ですし、個人差が相当にあることもまた周知のことです。
そのうえでこれらが対人関係においてどう表れるのかを典型例として考えます。
男性はレンガのような固い性格的なコアがあり、対人接触においては社会性(固まる前のセメント状のもの)によって、実現します。
女性はコアの部分が比較的柔らかでありいわば粘土状の塊です。
男性がレンガを積み重ねる式の人間関係、社会関係を築くとすれば、女性の築く人間関係は生身の人間同士の関係といえます。
それだけに密着度が強くなることもあれば、生理的な説明し難い拒否反応も生まれることになります。
ここを突破するには男性が築いた社会性によるしかないと思うのですがそれは通用しません。
しかし、多くの女性にはそれほど広い人間関係を必要とすることもないので、気の合う同士の関係を保っていけば生きていけるのです。
多くの男性は、個人的な人間としての接点を持つ人に対してだけではなく、無名の人間一般を対象とする社会と関わる事態が多いのです。
それに対応する生来の本質が必要性を訴え、それに応えようとしているかのようです。