Center:通所者スペースのデメリット(1)
(2人の利用者による、間の5版が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
+ | {{topicpath | [[メインページ]] > [[:Category:不登校情報センター|不登校情報センター]] > [[:Category:ウィキペディア記事の顛末|ウィキペディア記事の顛末]] > {{PAGENAME}} }} | ||
+ | |||
==通所者スペースのデメリット①== | ==通所者スペースのデメリット①== | ||
〔3-2〕通所者にとってデメリット的なもの <br> | 〔3-2〕通所者にとってデメリット的なもの <br> | ||
42行: | 44行: | ||
就労支援といいながら当事者が就労できた時には対人関係の不十分さが露呈して就労が続かなくなることが多いのです。<br> | 就労支援といいながら当事者が就労できた時には対人関係の不十分さが露呈して就労が続かなくなることが多いのです。<br> | ||
私が対人関係レベルを重視(偏重?)するのは、その壁に阻まれる事態を想定し、<br> | 私が対人関係レベルを重視(偏重?)するのは、その壁に阻まれる事態を想定し、<br> | ||
− | 対人関係を重ね、修行を重ねなくては、超えていく力がつかないと考えるためです。<br> | + | 対人関係を重ね、修行を重ねなくては、超えていく力がつかないと考えるためです。 <br> |
[[Category:ウィキペディア記事の顛末|2010年05月22日]] | [[Category:ウィキペディア記事の顛末|2010年05月22日]] | ||
− | |||
− |
2019年1月1日 (火) 19:42時点における最新版
通所者スペースのデメリット①
〔3-2〕通所者にとってデメリット的なもの
デメリットとして9項目があります。少しず感想・意見を書いていきます。
ウィキぺディアへの記載者はT=、私の感想・意見はM=の形にして分けています。
T=上記「活動内容」の項目に「当事者のフリースペース・ワークスペース」とあり、
ワークスペースとは「働く練習も兼ねた仕事の場」であるが、
仕事の場であるにも関わらず「来たい時に来てもよい」など、
引きこもり経験者を受け入れるためとはいえ、一般社会・企業との落差が大きく、
実際に「働く練習」ができているかは疑問である。
T=同センターの“卒業”後に直接通常の事業所への就労は難しいだろう。
また、同センターを“卒業”するか否かも通所者の気持ち任せであり、
同センターが主体となって通所者への教育的なものは、ほぼしていない。
これは同センターの“引きこもりが治るには時間がかかり焦りは禁物”というスタンスと、
後述するように通所者への個別的・具体的・即時的な支援よりも、
“社会への情報発信を主体とした引きこもり支援”を行うために通所者の観察・研究を重視しているためである。
M=ワークスペースを「働く練習も兼ねた仕事の場」と表現するのは適当ではないでしょう。
同義反復的で仕事が主な内容になります。
私は「特定の作業を持ち込んだフリースペース」の表現がいいと思いますが、これまではそう表現したことはありません。
フリースペースの延長にあり、中心は対人関係づくり、その心の修行の場になるはずです。
M=引きこもり経験者の実状・実態を書いた執筆者T=は当事者なのですが、当事者の様子を無視・軽視または勘違いしています。
書かれた執筆者は参加した当事者のなかでは平均以上の労働能力があったとしても、
その人でも「一般社会・企業との落差」が少ない条件では困難と思えますし、
平均を下回る人にはさらに困難は大きいのです。
内容面の不十分さを記したところは後述(4-4)します。]
T=通所者への個別的・具体的・即時的な支援よりも、
“社会への情報発信を主体とした引きこもり支援”を行うために通所者の観察・研究を重視しているためである。
M=実感としては“社会への情報発信を主体とした引きこもり支援”の情報発信の機会はほとんどなく、
日常は通所者への個別的・具体的・即時的な支援(むしろ対応)に追われています。
引きこもりへの支援団体を含めて社会的な引きこもりの理解は“就労のため”の視点に傾いています。
私はそれが心配です。
まずは人との関係に着眼します。
執筆者もいろいろ指摘していますが就労や社会参加にウェイトをおいた支援を期待しています。
私の不十分さはその点にあると問題視しています。
就労支援レベルで支援になる人はそれでいいのです。
就労支援といいながら当事者が就労できた時には対人関係の不十分さが露呈して就労が続かなくなることが多いのです。
私が対人関係レベルを重視(偏重?)するのは、その壁に阻まれる事態を想定し、
対人関係を重ね、修行を重ねなくては、超えていく力がつかないと考えるためです。