Center:2005年6月ー見捨てられ恐怖の所見
(→見捨てられ恐怖の所見) |
|||
86行: | 86行: | ||
〔未完成〕<br> | 〔未完成〕<br> | ||
[[Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|2005年06月]] | [[Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|2005年06月]] | ||
− | |||
− |
2018年12月29日 (土) 22:19時点における最新版
見捨てられ恐怖の所見
〔B5版ノート5枚の手稿の書きかけメモ、2005年夏ころ。
タイトル「見捨てられ恐怖の所見」と見出しはサイト掲載時につけたものです。
原文の98%以上を維持しています〕
見捨てられ恐怖の回避
見捨てられ恐怖が依存に結びついている点を前回書きました(2005年4月1日)。
その補足を書きます。
見捨てられ恐怖にある人は、見捨てられるのを回避する言動が先行しやすくなります。
どうすれば見捨てられないようになるのかを自然な感情で表したとき、依存として表われるのです。
対応する側は一般的には、依存とは自立の反対側にあるものと見なします。
依存をどう抜け出し自立に向かわせるのかを考えます。
ところが依存言動のある人にとっては、自立への道の困難さがそこに見えているではありません。
見捨てられないようにする回避的心情があるのです。
この構造―生じている事態の認識がズレているのです。
このポイントを知ってほしいわけです。
見捨てられ恐怖のある人は、そのことを理解してほしいのです。
その言動は強い依存傾向がありますから、多くの人は対応できません。
しかし、一部の人は、初期的な対応ができます。
この対応できる・できないの判断、というか見きわめは、どちらかといえば当事者側からなされます。
この相談者(カウンセラー)はわかってくれるだろうか、という不安に応えられるのが第一次関門の合格者ということになります。
それに合格できる人は案外に少ないのです。
見捨てられ恐怖のある当事者からは「わかってくれそうな人」として関わり始めます。
見捨てられ恐怖が強い人ほど、この期待にこたえてくれそうな人への関わりは強くなります。
それは相手がカウンセラーであろうとなかろうとあまり変わりません。
見捨てられ感があるとか依存心が強いと感じる人には、私はここで一息入れてもらいたいと思っています。
少しずつ、気長にその人と関わろうとしないと、長続きしないのです。
ですから、TPOにもよりますが、せいぜい30分から1時間で“話し合い”は切り上げることです。
不登校情報センターのフリースペースでも引きこもり当事者同士によるこのような関わりは生じます。
長いときには、2時間、3時間と“話し合い”が続くこともあります。
しかし実はこれは“話し合い”ではなく、そのように見えても「一方が話し、他方が聴く」状態になっています。
その場ではまだ十分に聞いてもらえない気分であっても、次回にすることです。
それを継続するのが最良の方法です。
カウンセラーの訓練を受けた人はこのあたりの対応はできますが、スタッフ的な人であっても、事態をよく把握しないままとまどい、巻き込まれていく感じになり深くます。
そうすると、受け手側がギブアップ状態になります。
このままでの人間関係を続けていくのに困難を感じるようになります。
通常の人同士では“距離をおきたい”気分になります。
フリースペースの当事者同士においては、気がめいったり、失望感や罪悪感を持ったり、うつ状態で寝込む人もいます。
他方、(無意識にしろ)依存を求めた人は、裏切りを感じたり、それが高じて怒りになることもあります。
この状態では依存は、否定的なもの以外ではありえないように考えられてしまいます。
見捨てられ恐怖の強い人は、ここでもう一つの挫折を味わうことになります。
短期的に1回で大きな成果を望んだためなのです。
見捨てられ恐怖に対向する依存
ところで、見捨てられ感が強い人とは、虐待かそれに近い状態におかれ、深く傷ついた心の持ち主です。
依存よりも見捨てられ恐怖に焦点を当てて、問題の所在を考えたいものです。
そうすると依存の言動は、より積極的な意味をもちます。
自立に対する概念としての依存ではありません。
見捨てられ恐怖に対向する姿としての依存なのです。
このような背景がみえるとき対応者は依存している人に、心理的にも実質的にも、より寛容に、より心を込めて、より適切にアプローチできるでしょう。
最もそのアプローチ、受け入れは必ずしも容易ではありません。
このような依存言動を支えられるのは、基本的には家族であると思います。
ところが父母にこのような支えを期待できない人もいます。
それどころか受容とは反対に、家族からの否定言動をつづけられる人もいます。
(環境が好ましいからといって、その課題が容易であるとはいえませんが)
そのような人は、家族ともある心理的な距離をとっていくことが必要になります。
その方法、状態、程度はさまざまです。
いずれにしても、自分で自分を育てるための家庭環境をマイナス状態からゼロに近づけるようにすることになります。
家族(家庭)内の環境が、安心できる居場所になっていない人はどうすればいいのか。
家族との接触をさけるために、自衛手段としてのコミュニケーションの切断、自室への閉じこもりはそのような対応の一種です。
親側の無理解が続いたときには、さまざまな拒否・拒絶もあります。
器物破損や家庭内暴力はこの延長にあるものです。
これらは私の方からおすすめすることではありませんが、引きこもり経験者からなぜそうせざるを得なかったかをきくと、その心情には同情すべき面はあります。
親と離れてみる
もし条件があるなら、家族と離れて生活するというのもそれが選択可能であれば考慮してもいいのではないかと思います。
だがそれが実行できてもそこで一件落着ではなく、いわば最悪の環境よりも少し改善された環境に自ら身を置いた、ということを意味するだけです。
当事者の経験に親から「何とかしよう」という気配がなくなると(それは親がお手上げ状態になったときかもしれませんが)「気分的に楽になり、それで動けるようになった」ということがあります。
親からの無言の期待、有言の期待がないところが、自分の真実の気持ちを確認し、自分の真実の気持ちに基づいて動ける可能性がうまれやすいのだと思います。
親が離れるのではなく、子ども側からこのような距離感をとってみればどうだろうか。
親との関係で、親と離れるというのは、その一つの方法です。
あるとき、母親から私に「父親代わりになってもらえませんか?」と言われたことがあります。
その母親とは何度か会い、面識はありましたが引きこもっている30代の子どもとは面識がありません。
私の答えは「親代わりになるとも、親代わりにならないともいえません。あらかじめ決めておくことはできない」というものです。
その母親は「自分にできることはしよう」という前提でこの質問をしていることはわかりました。
私も私のできることならば親代わり、いわば象徴的な親の役割の一部をできると思いました。
その意味で否定的な応えはしませんでした。
それはあくまでも子どもとの面識のない状態での一般的な意思表示であり、引きこもっている子ども側がそれを望んでいるのか、少なくとも接触可能にしてくれるかどうかがわかりません。
私の問題よりも引きこもり当事者の意識状態が決定的な要素だからです。
当事者がそこに抵抗感をもつとき、それを超えて「親代わり的な役割」を持ちうるのかどうかわからないから、否定的な答えをしなくてもそれ以上の肯定的な答えはできないのです。
〔未完成〕