Center:2005年1月ー『友情論』学習会ー12月の報告
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+ | 内容を振り返ってみると、友人となる相手の「美点を認める」、しかも当人が意識していない点、意識していない形での「美点を認める」、それがポイントの一つでした。<br> | ||
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ところがこの美点というのがなかなかやっかいで、「(自分には)欠点ばかりで美点はありません」という難回答にであって立ち往生です。<br> | ところがこの美点というのがなかなかやっかいで、「(自分には)欠点ばかりで美点はありません」という難回答にであって立ち往生です。<br> | ||
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+ | 要するにこの章も、それなりに歯ごたえがあったということです。<br> | ||
====カント哲学==== | ====カント哲学==== | ||
− | + | 前章「エロスの倫理的な形態」と今章「偏愛」の両方にまたがってI.カント(18世紀、ドイツ哲学者)の『道徳形而上学原論』からの引用がありました。<br> | |
− | + | たしかにカントが近代社会を思想的に準備した人だということの一端がわかりました。<br> | |
− | + | たとえば、公共機関(自治体など)は、その住民を義務的に愛する必要性を明らかにしました(平等の原則)。<br> | |
+ | 個人間の友情や家族関係にみられる特別の愛情をここに持ち込むのは公共性の歪みをもたらすけれども、その特別の愛情(偏愛)はこの平等原則による愛と両立し、共に必要なのです。<br> | ||
+ | その点がここでは対比され、紹介されているのです。<br> | ||
+ | かつてカントの本を(たぶん)図書館で見たことはありますが、その本の分厚さとパラパラとめくっただけで感じた内容の強固さを感じて退散した経験のある私は、カント哲学を垣間みせてくれるものでした。<br> | ||
====次回は1月19日==== | ====次回は1月19日==== | ||
− | + | 1月からは学習会を水曜日に固定し、月2回のペースのままで続行します。<br> | |
− | + | 正月休みのある1月は19日の1回だけ。2月2日、16日、3月2日、16日・・・と続きます。<br> | |
+ | 当事者の学習会です。途中からの参加もできます。多くの参加を待っています。<br> | ||
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目次 |
『友情論』学習会―12月の報告
〔2005年1月〕
『友情論』学習会
12月7日と15日に開きました。
12月7日は 「4 エロスの倫理的な形態」です。
理解するのが難しいところで、各人の経験によっての内容をうまく深めることができませんでした。
私は難しいことを予測したつもりで、この部分を「友人を求める気持ちが恋愛を求める気持ちに似ていないか」という形でならば具体的な話に進んでいけるのではないかと考え、そのようにテーマ設定してみたのですが、空振りでした。
残念っ!
感想文をみると、「自分の弱みをみせる」「自然な自分を出す」というのがキイワードになっている感じがしました。
「友人とはお互いに高めあえる関係」というのもありました。
このあたりがむしろ中心になればよかったようです。
そうすれば前回の「自分にはなぜ友達ができなかったのか」の続きとして、発展的に語ることができたのかもしれません。
感想文の多くは「自分の弱みをみせる」ことができそうにない、となっています。
それは人への警戒心があるからだと思います。
反対に、人間へのある程度の信頼感があれば、「自然な自分を出す」ことができるわけで、それが友人関係を結ぶのにつながっていきます。
なぜ「自分の弱みをみせる」ことができないのか。
警戒心があり、信頼感がないからと書きました。
自分が育ってきた過程、環境の中で人への安心感を育てる要素が壊され 人間は油断のならないものという雰囲気、もしかしたら「自分の弱みをみせた」ため痛い思い(体験)をしたことがあるのかもしれません。
人への安心感、信頼感は心の奥に意識されないで存在し、弱みをみせても妙な形でそこをついてこないような人とのつながり、むしろ逆に弱みをお互いにカバーしあうような関係ができれば、それは「お互いに高めあえる関係」になるのではないかと思います。
人への安心感や信頼感を生みだす環境とは何でしょうか。
私はそのようなクスリ(薬)はないと思っています。
長らくこのような環境がなく対人関係の前提づくりを無意識に避けてきた人には、ソフトな対人関係づくりの場でその人なりの“修行”が必要なのだと思います。
もちろんこの言い方は、対人関係・友人関係の前提づくりを、当人だけの役割、負担にしていくというニュアンスがあります。
子どものころの環境条件を子どもの 責任にするのは、私は全く門違いであること了解しているつもりです。
そのあたりについてはここでは言及しないことにしているだけで す。
美点と欠点
12月15日は「5 偏愛」の章です。
この章では私は予めテーマを用意しないで望みました。
準備なしのぶっつけ本番です。
内容を振り返ってみると、友人となる相手の「美点を認める」、しかも当人が意識していない点、意識していない形での「美点を認める」、それがポイントの一つでした。
要するに評価する、評価しあえる関係という点です。
ところがこの美点というのがなかなかやっかいで、「(自分には)欠点ばかりで美点はありません」という難回答にであって立ち往生です。
しかし自分が欠点と思っていることの中に、角度を変えれば何かが隠れているのかもしれません。
美点にしろ欠点にしろ、それは要するにコンプレックスです。
これを“劣等感”と訳すことがありますが、たぶん“複合体”というのが本来的な意味で、それがもつれている、こだわっている、気にしている・・・・的な意味で使われ、ときに劣等感というのが適訳になった、ということでしょう。
欠点を意識するのは、そこに関心が向いている、何らかの自分の価値判断が関係している、と思えるからです。
しかしこの点で欠点を見直し、違った角度から欠点を再評価してみるという実例を得ることはできませんでした。
要するにこの章も、それなりに歯ごたえがあったということです。
カント哲学
前章「エロスの倫理的な形態」と今章「偏愛」の両方にまたがってI.カント(18世紀、ドイツ哲学者)の『道徳形而上学原論』からの引用がありました。
たしかにカントが近代社会を思想的に準備した人だということの一端がわかりました。
たとえば、公共機関(自治体など)は、その住民を義務的に愛する必要性を明らかにしました(平等の原則)。
個人間の友情や家族関係にみられる特別の愛情をここに持ち込むのは公共性の歪みをもたらすけれども、その特別の愛情(偏愛)はこの平等原則による愛と両立し、共に必要なのです。
その点がここでは対比され、紹介されているのです。
かつてカントの本を(たぶん)図書館で見たことはありますが、その本の分厚さとパラパラとめくっただけで感じた内容の強固さを感じて退散した経験のある私は、カント哲学を垣間みせてくれるものでした。
次回は1月19日
1月からは学習会を水曜日に固定し、月2回のペースのままで続行します。
正月休みのある1月は19日の1回だけ。2月2日、16日、3月2日、16日・・・と続きます。
当事者の学習会です。途中からの参加もできます。多くの参加を待っています。