私が献体を考えるに至った道
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10年前のある日、臨床心理士さんの「アスペルガー症候群の話」を聞いていました。<br> | 10年前のある日、臨床心理士さんの「アスペルガー症候群の話」を聞いていました。<br> |
2018年12月25日 (火) 12:23時点における版
私が献体を考えるに至った道
東京医科歯科大学献体の会の会報『けんたい』が送られてきました。
私がこの会に献体登録をしているからです。
会報のなかでは献体への感謝や「医学教育・研究と医療の進歩に対する深い理解と高遠な志し」が多く語られています。
ただ私の場合は「高遠な志し」は気恥ずかしく実際的な理由によるものです。
それを会報『けんたい』に投稿するつもりで、今回はその下書きになります。
私が献体を考えるに至った道
73歳になる私にとって10年前はわりと最近のことです。
10年前のある日、臨床心理士さんの「アスペルガー症候群の話」を聞いていました。
ひきこもりを深くとらえようとする取り組みの一環です。
ところが思いもかけず私の子ども時代のことを聞かされた感じがしたのです。
そうか私はアスペルガー症候群かもしれないと自覚した瞬間です。
その日、何を話されていたのかはもう思い出せません。
しかし、子ども時代から続く私の日常のいろいろな出来事や気持ちが重なります。
私が経験したことをとらえ直す手がかりを得たのです。
はじめは性格・体質や振る舞いに関係する事情でした。
小学低学年からの爪を噛む癖、幼児期からの(?)夜尿の経験、中学生の頃は顔に“でき物”がよく出やすかったこと、帯状疱疹もありました。
母は看護婦であり、からだのことだけではなく、ほかの兄弟に比べて性格や行動の特異性に早くから気づいていたと思えます。
5人いるきょうだいの中で特別扱いをされてきたのかもしれません。優遇ではなく、丁寧であったような。
アスペルガー症候群ではないかと自覚した私の関心は、やがて感覚に起因するいろんな符号に思いが巡りました。
自分の感覚と周辺事情の独特性に向いていったのです。
中学・高校時代には「なぜ人は物事をはっきりと言わないのだろうか?」という気持ちにたびたびなりました。
持って回った遠回しの言い方では問題の本質に届かないという感覚です。「人の気持ちを考えずにモノを言う」につながる感覚です。
急にテストなんかがあったとき、他の人がまだ回答の途中なのに一人だけすごく早く書き終えました。
他の生徒が終えるまでの余白時間(?)が長く、自分がとんでもない勘違いをし、とんでもないことをやらかしたのかと不安になることもありました。
いまになって思えばこれは集中のし過ぎです。夢中になると他のことに気持ちが回らず突破してしまうのです。
これらの片鱗は社会人になってからも、そして今でもときたまあります。
私は斜視で、色覚異常があります(色弱)。
これらもアスペルガー症候群(または発達障害)の要素ではないかと考え始めました(文献では必ずしも肯定されてはいません)。
皮膚感覚にはいろんなことがあります。サウナに一緒に入ると飛びぬけて早くびっしょりと汗をかき始めます。
風呂に入って腕のあたりをこするとすぐに赤くなり、紫斑模様が現れます。
打撲による打ち身をすると、痛みはなくても広い範囲に紫斑が広がります(数日で消えます)。
腕を抜き身で空気にさらしているとピリピリとした痛感覚があります(夏でも長袖シャツにすることが多い)。
靴下はどちらかというと苦手です。部屋に入ると靴下は脱ぎます。
中学時代までは裸足に下駄をはいて登校をしていたのは(冬でも)、この感覚に関係するでしょう。
下駄から靴に履き物が変わっていく田舎の時代背景があります。
食べ物の好き嫌いが多いのは、たぶん味覚の特異性によるはずです。
加えて消化器系のなにがしかが関係しているのでしょう。
これらの全部がアスペルガー症候群または発達障害に関係するかどうかはわかりません。
私自身にとっては、いまはほとんどが気にすることではなくなっています。ただ処し方は昔とは違うはずです。年の功というやつです。
いや昔から意識としてはあまり気にしてこなかったのです。しかし、からだは反応を示していたということです。
私個人のことはともかく、それでは人間としてはどうなのか。私と似た体質や性質の子どもがいるのではなかろうか。そう思うようになりました。
いや周囲にいたひきこもり経験者には、私のどれかの部分が類似のいろいろなタイプがいたはずです。
そういう人は子ども時代から仲間はずれなどにされやすかったし、事実いじめを受けた人は多くいました。
なぜこういう気質や体質なのか。その理由がわかれば、治るとか治らないとかに別にいいこともあります。私の場合はそうです。
そういうのに私のからだが役立つかもしれません。少なくとも私は自分の経験から理解できた面はあるのです。
最初から献体を思いついたわけではありません。まず思いついたのは感覚器官の解剖に提供することでした。
しかし、病理解剖的なことにはこのような感覚器官に集中する対応枠がないようです。
病理として扱いにくいか、脳神経系に集中するのが難点なのかはわかりません。
そこから全部を扱う献体を考えるようになったのです。
「医学教育・研究と医療の進歩に対する深い理解と高遠な志し」が気恥ずかしくなるのをわかっていただけたでしょうか?