Center:2000年6月ー互いに気遣い合う子どもの友達づきあい
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2018年12月14日 (金) 08:45時点における版
互いに気遣い合う子どもの友達づきあい
〔2005年夏ごろ。B5版2枚分の未完成メモ。
タイトル「互いに気遣い合う子どもの友達づきあい」は掲載時につけたもの。
原文に読み取れないところがあり補筆しましたが原文の98%以上は保持〕
子どものなかには、たとえば自分の部屋を掃除するとなると、それを始めるのが一苦労というタイプがいます。
もちろん自宅で宿題を始めるのが大変というタイプもいる。
母親から頼まれた夕食用の買い物に行くのもとても嫌がり動き出さないタイプもいる。
もし、同じ年齢の友達という人との話し合いを始めるのに、とても気を遣う、そのこと自体が一つの決心のいるものだったらどうだろうか。
もちろん話し合いというのは、何か重大なことを告げるというようなものではなく、日常的なことである。
ちょうど上に示した自分の部屋の掃除、宿題、夕食用の買い物のように。
上の3つの例は、よくあることで、子どもの性格のように思えたり、生活習慣の問題を考えるかもしれない。
電車の中でこんな光景があった。
2人の中学生くらいの女の子が2人並んで座り、おしゃべりをしていた。
そのうち話に疲れたらしく、一方の女の子が眠り始め、私のほうに体を寄せてくる。
それはいいのだが、電車が揺れるとき、前のめりになり、くずれかけ、私があわてて手をかそうとした。
ところがその横に座っていたもう一人の女の子は、何をするでもない。
いったいこの2人はどうなっているんだろう。
それで私は帰ってこの話を高校生の娘にしてみたところ、こういう答えが返ってきた。
「もう一人の子も相手が眠っている間、とても疲れていて、自分も休んでいたのよ。友達との話は楽しいけれども、とても気を遣うし、くたびれるもんなのよ」。
この話は、実は高校2年生の娘をもつあるお母さんが話してくれたことです。
いまの子どもたちは、友達との会話にとても気を遣っている。
それは大人が社会生活を送るうえで、仕事や近所づきあいで気を遣いながら話しているのと似ている。
友達との会話自体がストレスの発散になるのではなく、ストレスをためる場面になっているのです。
もちろんなかには心を許し、本音をぶつけ合い、その友達と話すこと自体が、一つの力の湧いてくる泉のような関係の子も皆無だとは思わない。
わたしたちは、子ども同士の付き合いとは、そういう互いに元気の出るものであると勝手に理解しているのではなかろうか。
現実は、むしろ“気を遣いあう”、違った言い方をすれば、“一歩ふみ込まない”、距離をおいた友達づきあいのしかたが、子ども世界のおしゃべりにきわめて広く広まっているとみなくてはならない。
その背景は何か、その結果は何か。
そうすると、たしかに友達と話すこと自体が、一つの決心による作業になってくるタイプの子どもたちが蔓延しているというのもうなずけるのではないだろうか。
…未完…