虐待・いじめと押し付け(しつけ)
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2018年6月1日 (金) 15:59時点における版
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虐待・いじめと押し付け(しつけ)
次2つ目のテーマはテキストの「脳神経系の後天的な特異性」と書いたところです。
昨年の新聞記事から紹介します。
「ほめる」と「叱られ体験」と見出しを付けた記事です。
内容をざっと紹介すると、人(特に子ども)は、ほめられると脳神経系の成長・発達が進む。
叱られたり攻撃されると成長・発達が遅くなり、ときには停滞する。
それらが、身体科学として証明されつつあるという記事です。
ただ叱られるのは悪影響ばかりとは言えない面も研究され発表されています。
ほめられる・しかられることならほとんどの人が程度の差はありますが経験します。
ところがそのレベルを超えているものがあります。それが虐待といじめです。
虐待やいじめにあうと成長が進まないとか停滞する状態を超えて、それまでの成長を破壊されてしまう場合もあります。
虐待はこの十年の間に重大な社会問題として注目されてきました。
この十年間に突然に発生したのではなく、少なくとも1970年代の初めにはある程度の広がりをもち、それが後のひきこもりとして表面化したのです。
ということは現在の虐待はやがて数年後にはひきこもりとして表面化する可能性をはらんでもいると言えます。
しかし、現在の虐待への対応は早期の対応を示しているわけです。
可能性をはらんでもいるとはいえ、自動的にひきこもりとして表面化するというのは言い過ぎになると思います。個人差は大きいでしょう。
いじめはどうでしょうか。
私は1990年代の初めにいじめやいじめ自殺にかかわって相談や対応をしたことがあります。
その当時にあった学校側の隠ぺい体質はいまや通用しません。
各地でいじめの可能性が知られた時点で教育委員会は調査委員会を発足させています。
ここに至るまでにはいじめを受けた側の痛切な対処がありました。
それは現在でもなおそういう対応をしなくては、いじめへの公式の実質的な対応が始まらないことがあるとしても、30年前に比べると隔世の感がします。
虐待やいじめが生死にかかわるだけではなく、ひきこもりや精神障害の背景要素になっている事態を軽く見てはなりません。
社会はこれに取り組む状況ができました。
なお不十分でいろいろな問題はありますが、行政を含めて対応が進んできたことは評価できます。
いまはさらにいろいろなハラスメントや差別(性差別・性的少数者、体罰、おかしな校則、外国籍の子ども…など)による問題の所在と発生に目が向けられています。
個人として尊重され、権利の主体者と認められる社会に移行しつつあるのです。
私がひきこもりの当事者としてかかわった人には、虐待のために自室からも出られないまでのダメージを受けた重い症状の人はいないはずです
(自宅訪問の中でそれに近い人は見たかもしれません)。
しかし、私が関わったひきこもり当事者の多くが子ども時代にいじめを受けています。
いやほとんどの人がいじめの被害者といっていいほどです。
その話は少数の当事者で話せる状況が生まれたときに自然と話せるものです。
私に話せるだけではなく親しくなった人同士で話せることが多いでしょう。
虐待を受けた経験を聞くことは少なかったです。
ほとんどが親からのものなので話せるのは特別です。少しはいました。
これは私とその人との信頼関係ができるなかで話せることです。
初めからその事情を話す人はいません。
しかも話してくれたのはほとんどが女性です。
男性は一部を例外的に語った人がいるだけですが、この違いは男女差としておきます。
この私の例だけみても虐待やいじめを受けていることを周辺の誰かに伝えるのは容易ではないと考えられます。
話せるのは、話しても受けとめられると思える人に対してだけです。
それが感じられないなかではありえないくらいです。
高校生以下の子どもに「誰かに話していこう」と求めるのは安易すぎます。
そのつもりで日常を過ごしていないと子どもから話してくるのは期待できないでしょう。
抽象的な「誰か」は存在せず、自分が「聞く姿勢」で生活して初めて「誰かに話していこう」という子どもに出会えるのではないでしょうか。
そういう自分のスタンスなくして「誰かに話していこう」というのを聞くとしらけます。
ましてや乳幼児期の子どもへの虐待を受け取るアンテナは困難をきわめます。
その意味では全国的に虐待への関心と取り組みが進んでいることは、なお多くの不十分さがあったとしても、高く評価できることではないでしょうか。
虐待やいじめを受けた後遺症的な状態は、感覚繊細系と発達障害系の人が困惑しているのが入り混じった状態です。
それも複雑で個人差がかなりあります。
ある発達障害の診療で著名な医師はそれらを「第四の発達障害」と称しています。
接触してみると成長しきれない、社会的な関係に入っていけない様子、葛藤や苦難が伝わって来る人たちです。
そしてさらに1点、注目してほしいことがあります。
家族からの“虐待”の場合です。
それが一見、虐待に見えない場合が広くあります。
私が多くのひきこもり経験者と接触するようになって感じたのはそこです。
子どもの自主性を認めるとか伸ばすというものではなく、親の思い、考える構想に閉じ込めて子どもを育てる感じといっていいでしょうか。
幼児期には躾(しつけ)と考えられていたことでしょう。
それ以降は大事に大切に育てる気持ちではなかったかと思えます。
私はそれを虐待とは言えないけれども“虐待の周辺”と考え詳しく描きました。
2006年に出版した『ひきこもり―当事者と家族の出口』(子どもの未来社、840円)という本がそれです。
本の帯には出版社側で「無意識の、善意の、執拗な愛の嵐のなかで呻吟する子ども・若者たち」と紹介しています。
親にとっては虐待の意識は全然ない、それどころか誰よりも大切に育てようと意図していたと思います。
だからそれは善意によるものです。
それだけに親にとっては子どもの成長を妨げている条件になっているとはとりわけ気づきにくいものです。
“虐待の周辺”のいろいろなことについてはここでは触れません。
本は絶版にはなっていないので購入して読んでいただくようにお願いします。
虐待、いじめ、そして“虐待の周辺”の子育て。
それらは先天的なものというよりは後天的な、子どもが成長する過程で形づくられたひきこもりの背景要素に分類されます。
それでも先天的な要素がないかといえばそうではなくて、子どもの繊細な気質がかかわっていることは確かです。
そういう子どもでも、伸びのびと肯定的に育てられる環境に置かれた人たちはひきこもりにならなかったと思えます。
その若者たちもいまは30代、40代になっています。
その時代のことを客観視して言える人もいますし、すっかり忘れたという人もいます。
しかし、自然に現れる言動にはその影響がみられます
。私と接触のあったひきこもり当事者の多くはこのようなタイプといっていいでしょう。
それを次の回で「ひきこもりの状態像」として話します。
埋もれてしまった体験や隠された記憶が何かのきっかけで浮かんでくることもあるみたいです。