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Center:2007年5月ー孤高をめざす

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==孤高をめざす==
 
==孤高をめざす==

2018年2月23日 (金) 14:41時点における版



目次

孤高をめざす

〔『ひきコミ』第45号=2007年6月号〕

(1)清貧に生きる道

引きこもりになる、なりやすい人というのは繊細な感性の持ち主です。
幼児期や人生の早い時期から家族をはじめ周囲の人の雰囲気に多くのことを感じ取ります。
そのうえで迷惑をかけないように、過ちを侵さないように、相手の気分を害さないようにしてきたのです。
言いかえますと「清く正しく美しく」生きようとしてきたのです。

一方、このような人にとっては世の中は俗っぽくみえるものです。
相手がイヤがるのに「筋を通す」といっ て押しつけてきます。
生きるためには必要なので金銭を稼がなければなりません。
それを社会性を身につけるとか自立するともっともらしく説明をします。
こう言われると否定しがたいもので引きさがるしかありません。

だからといって他人を押しつぶしたり、自分勝手が許されるわけはないという気持ちは残ります。
最近の世相はこの社会性があることと自分勝手の境界がはっきりしなくて、自分の利益を図るために境界をこえようとする人が目につくだけに、この気持ちはとくに強くなります。

このような面から、人の生き方を大雑把に2通りに分けてみましょう。
「清く正しく美しく」=清貧に生きる道が1つです。
人生的には苦しいのですが、そこに活路を見つけ、そこでの心の平穏を取り入れようとする道です。

この道は創作活動をする人とか世俗的ではない教育者などが典型でしょう。
そういう特殊な人ばかりではなく普通の生活者のなかにも多数います。

困ったことですが、このところ利殖に走る俗物的な芸術家という反対の例もいます。
気をつけなくてはならないのは、世俗化をさけようとしていつのまにか高踏的スタンスになって、一般的な道に進む人を見下すことです
。 そうならないようにすることです。

もう1つの道は一般的な道です。
社会性を身につけ、人との関係をうまくやり、働いて生活費を得、適当な楽しみをもち、できれば人生を謳歌しようとする道です。

私はこの両方の道を見ながら、全体としては引きこもり経験者に後者の一般的な道を開こうとしています。
しかし前者の道を否定的に考えているのではありません。
むしろ前者の道を架空の絵空事として軽んじているのではありません。
その意味を知り、現実的な要素を求めて苦心しています。

今回のテーマ「孤高」は、引きこもり経験者のうち主に後者の一般的な道にすすむ人に向ける言葉です。
それを語る前に「清く正しく美しく」生きようとする道、または創作家的な道を選ぶ(選ばざるをえない)人にも、伝えたいことがあります。
それを先に述べておきましょう。

この「清く正しく美しく」生きる方法は、世間的には生きづらい道です。
しかし間違った道だとは思いません。

何らかの創作活動をしていても、それがどのようなものであるかを、自分では判断つきかねることも多いでしょう。
だれかにコテンコテンに言われたらどうしようかと警戒している人も多いでしょう。
見てもらって評価されるのかきいてみたいのに酷評されるのが怖いですね・・・。

この人なら安心という人に見てもらい、安全を確認しながら少しずつその輪を広げていくしかない。
安心して見てもらう人にそういう目があるのかどうかはわからない。
けれどもそうするしか糸口がない気がします。
とてもまどろっこしい時間のかかることです。

ましてその安心できるはずの人からどんな言葉が出てくるのが心配です。
「それがどうしたの?」みたいなことばが返ってきたら、一生立ち直れない気がします。
私が知る範囲、理解できる範囲では、実際はそれほど落ち込みっぱなしではありません。

個人的に日常生活を支える人が必要な人もいます。
そういう人に対して私にはこれといってできることはありません。
その創作品を社会に問う(社会デビュー)ために出来る方法を探っているところです。
私にできるのはそのあたりではないかと考えるのです。

(2)一般的な道をたどる方法

一般的な道をたどろうとする人には私はより多くのことができるはずです。
といっても私が一人ひとりの人に対して、大きく影響していくことではありません。
結局は、当事者のもつそれぞれの要素とそれを生かそうとする粘り強さ、休んではまた始めるというくり返していく作業が最も大きな力になることは確かでしょう。

一般的な道というのは、現実には多数の人が進んでいく道です。
社会性を身につけ、生活上・職業上の知識や技術を身につけ、収入を得、生活手段を獲得していく方法です。
そのためには対人関係の壁をそれなりにうまく超えなくてはなりません。

なぜこの壁を超えるのに苦労するのでしょうか。
それは先天性な感受性の鋭さが関係しています。
しかし、対人関係の困難を周囲の人に理解してもらうことは容易ではありません。
「なぜあなたは人間関係が苦手なのですか」という問いかけに、なかなかうまく答えることができません。

たとえば「人間が怖いから」というかなり本音に近い答えをしたとしても相手にはその意味がさっぱり伝わらないので困ってしまいます。
「どうして友達ができないのですか?」と冷静に真摯に問いかけられると、困ってしまうだけでなく、怒りさえ感じることもあります。
人が苦しんでいるのにその苦しみを逆なでされる感じになったりして・・・。

人間関係ができる、友達ができる、社会性を身につける、一人前になる、生活と職業上 の手段を得る・・・その先に社会に入る、働いて収入を得るという過程があります。
これらは一連の事態であるとともに、また同じことの別の面にもなります。
これに関しては私は「対人関係づくりの諸相―社会へのアプローチの時期 ―脱ひきこもり期(その3)」でいろいろな面を描いておきました。
細かいことはくり返しません。

ここで1つ追加したいのは、子どもは子どもとして尊重される点です。
赤ちゃんは赤ちゃんらしく、子どもは子どもらしい時代をおくることが必要です。
子どもは小さな大人では ないのです。
多くの子どもが子ども時代に子どもらしい環境、生存条件、生活自体を尊重されなくては、人間としての順調な成長が阻害されるのです。

ここ2、30年の社会状況は、この子どもの順調な成長を阻害する要因が拡大しています。
それは大人世界で個人的利得のために他人の領域まで侵していく人が増大していっていることと並行して生じていることです。
両者はつながっているのです。一つのことのいろいろな面になるのです。

感受性の豊かな人はその多くの人が、子ども期に得るものが上手く得られなかった人でもあります。
そのための自己防衛策(自己保存の方法)が、引きこもり状態といえるのです。

引きこもり状態において、子ども時代や十代や青年期に身につけられなかったものを取り戻そうとするのです。
学習の不足を補い生活技術を修得し、何よりも自分の感覚に基づく人間関係づくりをめざします。

それは楽な作業ではありません。
むしろ多くのハンディキャップをもつなかで、より多くの成果を得ようとする努力になります。
周囲の人からは「引きこもり状態」を早く抜け出すようにせかされます。
焦りにさらされるわけです。
うまくいくものもうまくいかず、その不条理を感じてしまいます。

いや、引きこもりをそんな意味づけでは理解できない、少なくとも自分はそうではないという人もいるでしょう。
その通りです。
私は全ての引きこもり状態をこれで判断しようとしているのではありません。
参考になる人には参考にしていただければいいというつもりです。
違った感覚、違った考えの人には、また違った言葉が必要だからです。

この理解のうえで、引きこもり経験者が一般的は道をとろうとするときに手すりのような役割をするものがある。
それが「孤高に生きる」ことです。

(3)孤高に生きる

「孤高」とはどう意味でしょうか。
『新明解国語辞典』によると「〔周囲の低俗な人びとと違って〕ただ一人超然として、高い理想を保つ状態」とあります。
〔  〕内の念押し説明がいつもながらこの辞書が意味を明確にする役割をしています。
ただ今回は『新修広辞典〔和英併用〕』も参考になります。
「ひとりだけ離れて品格を高く保つこと」となっていて、英語はisolationが当てられています。
isolationは孤立、隔離も意味しますが、理想や品格を保つという意味あいはありません。
日本語の孤高ではこの意味あいが大切なのです。

私は一般的な道、社会参加への道、社会の一員として生きていく道を引きこもり経験者にすすめています。
その条件づくりをめざしているつもりです。
しかし当事者の感覚ではそれは自分を世間の人間の垢(あか)に染め、俗化させてしまうと感じるのかもしれません。
当事者の言葉でときたま飛び出す「プライドが高い」とは、この俗化したくない気持ちと、全く同じというわけではないでしょうが、相当に重なる気持ちのように思います。
その言い方は自己弁護というよりもむしろ謙譲を表してさえいます。
自分の不徳を示し、だから大目に見てくださいという気持ちを表わすことばです。

よく考えてみれば、これは自分には俗化していく気持ちはないと謙遜をこめて言っているのです。
俗化すなわち社会性を身につけるとか社会に入っていく力が弱いのは、そこに汚れる危険を感じ、それを自力で浄化する力が弱いと感じているのです。

一般の人は人間関係の使用感が身についてもそれを超えて生きていく力がある。
けれども自分にはそこに自信がない。
だから始めから染まるのを拒む。
拒むとまではいわないまでもきわめて慎重に、自分にとって耐えられる程度を計りながら少しずつ広げようとしている。
それをうまく説明しづらいので「プライドが高いから」といっているように思えます。

私はこの気持ちにこたえるのが「孤高に生きる」ことと同じ、または共通していると思えるのです。
社会性を身につけ、他人と関わっていく力は徐々に養っていく。
それは他人の領域に入って勝手にふるまうようなものではない。
そういう品性、品格、道義心を持ちつづける。
それが孤高です。
いまの時代だからこそそのような矜持(プライド)の持ち方が求められるのです。
それは日本社会の上層階級が相当に腐ってきているなかでは、社会再生の根本的な力になるのではないかとさえ思えます。



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