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2018年2月8日 (木) 21:11時点における版
日々勉強させて頂いております
マゴット(滋賀県在住、文通ボランティア希望)
私は現在24歳で、統合失調症とアスペルガーと診断されています。
チック症状やうつ症状、解離症状もあります。
最近は広い意味でのPTSDもあると言われました。
受けた傷は、精神的虐待、いじめ、セクハラ、性的虐待、セカンドレイプ、などです。
生きていくのは難しいし、本当に大変なことだと思います。
保育園に通っていた頃、同じバスに乗る小学生の女の子から暴力を受けていました。
「お前は馬鹿だ」というようなことを延々と描かれた手紙を渡されたり、髪の毛を引っ張られたり膝を抓られたりしました。
何度も同じ場所を抓られたせいで、今もその痕は右膝に残っています。
誰にも言えませんでした。
耐えきれずに出てきた言葉は「保育園に行きたくない」でした。
それを聞いた母は怒って、理由を聞きましたが、私は何も言えませんでした。
よく考えるようにと言われ、泣きながら朝を迎えると私の朝ご飯はありませんでした。
母からは口も聞いてもらえず、話しかけても無視されていました。
父も怒りました。
ごめんなさいと謝っても許してもらえず、私は自分の部屋に逃げ込みました。
父は部屋のドアを乱暴に開けると、私を引っ掴んで外に放り出しました。
そのすぐ後に何故か一足のサンダルが飛んできました。
私が保育園に行くという意思表示をするまで、中に入れてもらえませんでした。
暴力を受け続けて一年くらい経った頃、膝に大きな痣ができました。
それを見た母がどうしたのか私に聞いて、私は本当のことを言ったそうです
(言ったそうだ、と曖昧なのはその時の記憶が全くないからです)。
母は保育園の先生に相談しました。
その結果、私はバスの時間をずらして帰るようになりました。
女の子には誰も何も言わなかったそうです。
保育園で熱を出したことがありました。
誰にも気づいてもらえず、走るのが遅い、もっと元気よく、と注意されました。
あまりにも私の様子がおかしかったのか、お昼頃に早退させてもらえることになったのですが、
保育士さんは迎えに来てくれた母に「スカートなんか履かせるから熱が出るんだ」と責めたそうです。
私は給食を食べるのがとても遅く、みんなが食べ終わって遊びに行った後も、まだ食べて終わりませんでした。
保育士さんは残ったおかずやご飯をひとつにまとめて、私の口の中に流し込みました。
いつからか忘れてしまいましたが、従兄弟に性的な嫌がらせを受けていました。
トイレのドアを開けて、何度も覗かれました。
写真を撮られたこともあります。
それを見ていた祖母は笑っていました。
母に言っても聞いてもらえませんでした。
小6まで続きました。
20歳を過ぎてから従兄弟の母親に言うと、「なんでもっと早くに言ってくれなかったの?」と責められました。
両親の友達には胸を掴まれたりやお尻を触られたりしました。
卑猥な言葉をしつこく言われたこともあります。
それも中学に入るまで続きました。
父とは小学校を卒業するまで一緒にお風呂に入っていました。
いつも母になにか言われて、落ち込んでいるように見える父をかわいそうに思ったこともありますが、
本当は嫌だと言えなくて断れなかった、というのもあります。
従兄弟とも小6まで入らされていました。
小学校、中学校と同じ人にいじめを受けていました。
周りの人達は、またやってる、というような認識でした。
先生方が注意をしてくれたのは、私の名前と一緒に悪口を教室の壁に書かれた時と、死ねと言われた時だけでした。
両親にも毎日訴えていたのですが、二人とも深刻には捉えていませんでした。
中学に入ると摂食障害になりました。
標準よりほんの少しだけ痩せていた私の体重は10kg落ちました。
食べたくてもどんなにお腹がすいても、太る、という恐れが常にあってほとんど食べられませんでした。
学校の冬は寒くて、特に冷蔵庫だと例えられるほどの冷たい体育館に集まらないといけない日は、痩せている上に食べていないから、本当につらかったです。
いつもは36℃以上はある体温が、35℃以下になったこともありました。
中1の秋頃に初めて通い始めた思春期外来がある病院では、体重を計って、その感想を私が言って、それだけで終わりでした。
そして、いつも私の話は聞いてもらえずに、食べろ食べろと言われ続けました。
私ばかりが責められる、そんな病院は本当は行きたくなかったけれど、私はとても悪い子だから、言うことを聞かないといけないと思って半年以上は通っていました。
中学2年生の夏休みに、母が泣いてもうあんな遠い病院には連れていきたくないと言いました。
父に「お母さんに優しくしないといけない。侑子は元気になってきたし」と言われました。
その頃には、無茶食いや隠れて食べていたせいで、体重は5kgほど増えていました。
誰も私の病気をわかろうとしてくれなくて、母は私のことを難しい子だとよく言っていました。
親戚には反抗的、厄介だとも話していました。
自分(母)が反抗できなかったから、あれ(私)が代わりに反抗してる、とも言っていました。
思春期外来に行かなくなってから、手首を切るようになりました。
思春期外来の先生は、私の自傷行為を否定していたので、ある意味解放された気分でした。
保健室の先生は、自傷行為をする意味がわからないと言いながら、必ず「(切りすぎて)死ぬなよ」と言いました。
その先生の前で、過換気症候群を起こした時は怒鳴られました。
その場に倒れて、なんとか起き上がっても手は硬直して握った形のまま、しばらくしないと開きませんでした。
その日は私を家まで送ってくれたのですが、先生は出迎えた母に何かを話していました。
後から母に聞くと、具合が悪そうだったから送った、とだけしか話してなかったそうです。
学校のカウンセリングも利用しましたが、母親とうまくいかないことを相談しても、親に期待してはいけないとしか言われず、自傷行為に対しても否定的でした。
病院を転々としましたが、どこも合わなかったので、1年くらい病院に行かない期間がありました。
本当に苦しくて首を吊って死のうとしたことがあります。
未遂で終わったその日、母に病院に行きたいと言いました。
母は「(いちばん最初に行った)思春期外来しかないよ」と言いました。
そこは絶対に嫌だと言うと、じゃあどこもないよと疲れた顔をして言いました。
体育の先生からはセクハラを受けていました。
かわいい、と何度も言われました。
自分好みだと言われたこともあります。
肩や腕、顔を触られることは日常茶飯事でした。
ドクターストップで体育を見学している私に対して、大人になったらこどもを産むから、今のうちに体力をつけとかなあかん、言いました。
母につらいことを言っても、聞き入れてもらえず、最終的には笑いながら報告していました。
学校には行きたくありませんでしたが、そんなことを言ったら怒られるのは目に見えていたので、黙って通っていました。
先生方からはよく「甘えている」と言われました。
中学の3年生の時に、学校の新しいカウンセリングの先生に、京都の病院を紹介してもらいました。
そこで初めてお薬をもらえて、それまでずっと続いていたイライラや聴覚過敏、幻聴や幻覚が少しだけ治まるようになりました。
それでも周りの理解がないのは相変わらずで、私に対しては言いたいことを言うだけの放置状態でした。
過食はその頃始まっていました。
10kg増えたので、元の体重に戻ったことになります。
太った、ということに耐えられず、そのあとまた食べなくなって、5kg落ちたのですが、すぐに過食がはじまってまた10kg増えました。
その後は7kg落ちたり3kg太ったりして、3kgの増減は未だにあります。
高校は通信制の学校に通っていました。
母は人に、私のことをすごく甘やかしていると言ってました。
問題のある子が行く学校だとも言われて、私は笑いながらそのことを中学の同級生に伝えました。
高校1年生の冬頃に統合失調症と診断されました。
そのおかげで、それまでの症状について納得がいきました。
摂食障害が落ち着いたのは19歳になった頃です。
ちょうど母が私に対して理解を示してくれるようになった時期でした。
1日に16錠はお薬を飲んでいた時期もありましたが、減薬して今は半分くらいの量ですんでいます。
チック症と小学生の頃に診断されましたが、治療しなかったからか、未だに治りません。
さかむけやかさぶたをむしる癖もありますが、これも幼い頃に治さないと、もう治らないらしいです。
オーバードーズや死んでしまいたいという気持ち、フラッシュバックなどの発作、手首を切るなどの自傷行為はまだ治まりませんが、今を生きようと思っています。
訳あって、病院はあれからもまた転々としましたが、なんとか今のところで落ち着いています。
今のお医者さんは頼りないなあと思うことが多いのですが、自分に合ったお薬をもらえるだけ有難いと思っています。
つらいことが多く、死のうとしたことは何度もありましたが、こんな私でも誰かの役に立ちたいと思うようになりました。
苦しい思いをされている方の心に寄り添いたいという気持ちでいっぱいです。
病気や、人の心理などの知識は少ない私ですが、日々勉強、日々反省だと思っています。
生きるのはしんどいと思うことも少なくないですが、勉強になることもたくさんあります。
私の名前は侑子といって、侑子の侑は「たすける」という意味があります。
名前負けしないように生きたいと心がけております。
苦しい経験ばかりを並べるのは心苦しいので、うれしくて不思議だった経験も書きたいと思います。
小学生の頃、目が不自由な女の人が盲導犬を連れて、学校に来てくれました。
話が終わると、みんなで体育館に移動して、円形に並べたコーンの外側に私達生徒が座り、内側すれすれのところを盲導犬に歩いてもらう、
ということをしたのですが、私のそばを通る時、こちらを見て近づいてこようとしました。
私はびっくりして思わず後ずさりました。
それでも何故かあたたかい気持ちになったのを覚えています。
最近(4年くらい前)になって、「盲導犬はそんなことは絶対にしない」ということを聞いて、本当に驚きました。
両親にそのときのことを今も話すのですが、不思議やね、と言われます。
私にとって、とても大切な思い出です。
そして、母が理解を示してくれるようになったのは、私がつらい思いをしているのがわかったからだと言います。
そしてそれは私のおかげだと言います。
きっかけは私が「お母さんはアダルトチルドレンなんじゃないかとずっと思ってた」と言ったことです。
母は父親から暴力を受けて育ちました。
怖い気持ちでいっぱいで、反抗期もなかったそうです。
いつも親の顔色を見てびくびくしていたと言います。
私は母の話を、できるだけ母の気持ちに寄り添うように、そして分析しながら聞きました。
母の話を聞くことで、何か見えてくるものがあると思い、何度も聞かせてもらいました。
母は「教えてくれて、救ってくれて、ありがとう」と言ってくれました。
今、私は母に助けてもらうことが多いです。
これからも助け合っていければいいなと思っています。
もうひとつお話したいことがあります。
父方の祖母は統合失調症でした。
私も同じ病気なので、遺伝した可能性もあります。
私の家族も親戚も遺伝した人はいないので、もういない祖母の愛情や苦しみ、優しさを全て独り占めしたような気がして、とてもうれしいのです。
祖母は慈悲深い人でした。
人の気持ちに寄り添って、人のことをまず一番に考えていました。
私が生まれる数ヶ月前に祖母は亡くなったので、会うことはできなかったのですが、同じ病気になったことで祖母を身近に感じることができます。
だからこの病気に感謝しています。
祖母についてのいろんな話を父から聞きました。
その度に何度か「おばあちゃんに会いたかった、いろんな話をしたかった」と私は言いました。
その言葉に救われたと父は言ってくれました。
それは私にとっても、本当に喜ばしいことであり、純粋に嬉しくもあります。
大変長くなってしまい、申し訳ございません。
ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました。
何かご不明な点などあれば、何でも聞いて頂ければ、と思います。
文通ボランティアも希望しています。
どうぞよろしくお願い致します。