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中2の不登校から20年、一つの時代のけじめ

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〔2015年8月4日〕
 
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2018年1月27日 (土) 09:27時点における版

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中2の不登校から20年、一つの時代のけじめ

匿名を希望(34歳 男性)

今年の初めにおみくじを引きました。
それによると今年はおい茂った木の枝を整理するように、身の周りを整理しないと今後の発展は見込めないとありました。
それが気になってダンシャリとしていろいろと身の回りの物を捨てたり、整理したりしました。
今回、今後の連絡をお断りするのも自分の人生に付きまとったいじめ経験と一線を画してけじめをつけるためです。
記憶と経験は消えませんが、この文章を書くことで、今後は心の中でひとつの終わった時代という扱いにしていきたいです。
私は中学2年生のまるまる1年間を学校にいかずにすごしました。
1994年のことで、ちょうどいじめ自殺や、登校拒否が新聞やニュースで取りざたされる時期でした。
いま思い返すと小学校では優等生でいられた私も、中学になって勉強が難しくなりクラスの頭のいいグループではいられなくなった自尊心を守るためという面もあったと思います。
ですが、引き金になったのは中学1年間で繰り返し行われた自分以外の弱い同級生に対する言葉と暴力によるいじめ、障害をもった同級生に対する侮辱的な発言でした。
そしてそれを見て見ぬふりしてただしい対処をしなかった大人たち全員に対する不信感でした。
学校は私がいるべき場所とは思えなくて、1年間は無理をして毎日行きましたが、2年目の初日にやはりここにはいたくないと決意し、学校にあった私の名前ラベルの付いたロッカーやげた箱からすべてラベルをはがして、担任の先生に明日から学校にはきませんと宣言して家に帰り、翌日から学校には行きませんでした。

母親は私を理解しよう、守ろうとしてくれました。
しかし父親はパニックに陥り、叱責と恐喝で私を学校に行かせようとしました。
私は行きませんでした。
一か月ほどが経ち、両親がどこから聞きつけて、私を児童相談所に連れていってくれました。
その際もそうとう不信感があり、いつでも飛び出して一人で家に帰ろうと思っていました。
実際、初回の面会の際は父の心ない一言が嫌になって面接室を飛び出して、2駅分ある距離を歩いて家まで帰りました。

しかし、その際に担当して下さった女性職員の方が、おそらく私を救ってくださったのです。
Kさんとお呼びします。
Kさんは反抗的な態度で面接を途中で切り上げて勝手に帰った私にもかかわらず、しんぼう強く電話をくださったり、家まで訪問してくださって話してみないかと誘ってくださいました。
初めの数回はお断りしました。
彼女も汚い大人たちの1人だと思えたからです。
しかし何度か断ってもしんぼう強く訪問してくださるKさんをむげにお返しするのも申し訳なく思えてきました。
そこで私とKさんのお二人だけで話してもいいのなら、という条件と、Kさんからは一言も口を挟まない、最後まで私の言いたいことを話し終わるまでは異論を唱えないでほしいとお願いして、約束してくださったのでお話をはじめました。

その際は、この人は信用してもいいのかもしれないと思えたので、当時私が我慢をしていた家庭の事情、学校での経験、大人に対する不信感、どのように毎日を過ごしているのか、すべてを話しました。
1時間以上にはなったと思います。
Kさんは約束通り最後まで黙って聞いてくれて、そのあとまた同じように家まできて話を聞きに来てもいいかとお尋ねになりました。
その態度を見て、この人は信用してもいい人だと思えたので、定期的に家でお話しすることをお約束しました。

毎週1度それは続き、数回目にはわざわざお越しいただくのが申し訳ないので、自分から児童相談所までいかせてほしいとお願いして、その後は児童相談所でお話することになりました。
児童相談所に行ってから数回してからもう1人女性職員さんが担当として加わったのですが、数回お話して、この方は信用できないと感じて、お願いして担当からは離れていただきました。
思い返すほどKさんが最初に私の担当をしてくださって本当に幸運だったと思います。

Kさんとの面談は1年ずっと続きました。
その期間は家に引きこもったわけではなく、体が衰えるのと、勉強が遅れるのが嫌だったので午前中は2時間ほど公園でウォーキングして、午後は図書館でいろんな本を読んで過ごしました。
ウォーキングを数か月続けた頃、ベンチで休んでいた時に品のいいおじいさんに声をかけられました。
平日の午前中にまだ若い子どもが学校に行かないのはおかしなことだと思うのですが、おじいさん、Mさんとお呼びします、はそれにはいっさい触れず、どうしてウォーキングをしているのか? これまで何度かぼくのことを見かけたと話しかけてくれました。
学校にいかないのか? とは少しも聞かないMさんに信用してもよさそうな人だと感じたので、当たり障りのないことを話し始め、信用してもいいと思えたので、実は学校に行っていないこと、どうしてそうなったのか、毎日どう過ごしているんかをお話しました。
Mさんはすべてそれを黙って聞いてくれて、また話しましょうと言って歩いていってしまいました。
それから毎日ではないですが、ときどきMさんを見かけるとあいさつをして、ときどきベンチに座って話すようになりました。
私にとってKさんの次に現れた信用してもいい大人でした。
思い返すと悲しいことですが、当時は父も母も家族ですら信用できませんでした。
悲しすぎたのです。

その後、Mさんは祖父の代からの家業のよいお客さんだということがある日の祖父との会話でわかりました。
祖父が戦前に開業して以来の古いお得意様でずっとよくしてくださっていると聞いて、Mさんとわが家の因縁めいたよい関係を感ぜずにはいられませんでした。
その後もMさんにはそのことについてお伝えしませんでした。
私がどこの誰だかわかってしまうのはよくないことだと思えたからです。
自己防衛本能だったと思います。
それでもMさんはこちらから話すことしか聞かないし、プライバシーにかかわることはあちらからは聞いてきませんでした。

KさんとMさんとの会話が少しずつ私の凍てついた心を溶かしてくれたのです。
いまだにあのお二人には救われた、お世話になったという感謝の気持ちが消えません。
その後、学期が始まるごとに母が用意してくれた学生服を3度見て、母の気持ちが伝わってきました。
Kさんも学校長や教育委員会としんぼう強く交渉してくださり、学校からはいじめはなくなった、少なくとも先生たちはいじめをなくすために努力をしている、だからまた学校にいってみないか? とKさんに諭されました。

結果として私は3年生の1学期から通学を再開し、その後卒業までがんばり通しました。
体育の授業だけはどうしても嫌だったので、それ以外の体を動かす活動を体育として認めてもらえるようにKさんの助けを得て校長先生と交渉し、それで構わないということになったので、体育の授業だけは他の学生さん達とは一緒に受けませんでした。
体育の団体競技の全体主義的なところ、肉体によって優劣をつけるところがどうしても私には好きになれず、その中に身を置くことが嫌で仕方がありませんでした。

その後、普通科への進学は考えませんでした。
数学や英語が全くわからなくなっていたからです。
競争ばかりの勉強にも違和感を持っていました。
総合的に考えて自分は職業高校に通って手に職をつけて生きていくのがいいだろう、そう思えました。
運がよかったのは職業高校であればあまり競争率も高くなく、がんばれば合格圏内に入れたことです。
私立の職業高校はなかったので、公立受験の滑りどめなしで挑みました。
そして合格しました。

合格発表の日、受験番号を合格発表看板に見つけ、母と一緒に喜び、その後制服の際寸と注文を終え、当時仲のよかった友達と喜びを分かち合い、夕方まで話しこみました。

夕方に家に戻ると父親がものすごい形相で私をにらみつけて、いままでどこに行ってたんだ? と聞きました。
卒業式の準備をするために同級生と作業していたと答えたら、お前はものすごいバカだ、入学手続きをしてこなかった、と言われ、いますぐに高校に行くから準備しろと言われました。
母と私は喜びのあまり事務的な手続きが必要だということを忘れていたのです。
もしくは知らなかったのです。
おそらく知らなかったというのが真実だったろうと思います。
車の中で父は母を責め続け、私は申し訳ない気持ちと、なぜ母をそこまでののしるのかという怒りを感じていました。

高校に着くと父が事務員さん達に頭を下げて、どうか入学申請を受け付けてくださいとお願いしました。
その姿を見て、父に対して初めて感謝の気持ちを持ちました。
この人も私のことを真剣に考えてくれているのか、あれだけ外面のいい父が頭を下げている、とすこし冷めた、しかし感謝の気持ちを持った目で父を見ました。
入学届は受理されました。
どうしてそのようになったのかわからないのですが、ここで私のもう一人の恩人が登場しました。
その学校の用務員さんです。

用務員さんがなぜ私の入学手続きに関係するのか今でもわからないのですが、私が合格したのに入学手続きをしていないことが学校で判明した時に、その用務員さんがこの学生さんにちゃんと連絡を取ってあげましょうと強く言い続けてくださったそうなのです。
そのおかげで家に電話が入り、入学手続きが必要なことがわかりました。
また、受付時間を過ぎた後も窓口を締めずに待ってくれていたのも、どうもその用務員さんのお力添えだったようなのです。

その高校での生活はつらいことも我慢しないといけないこともたくさんありましたが、総じてよい思い出として残っていて、後の人生の基盤となりました。
進学を考えなかった私ですが、好きなことを勉強したので、クラスで1、2番の成績を取り、推薦枠を使って大学に進学することができました。
その後、紆余曲折あって大学院に進学し、こちらは卒業に至らず中退してしまいました。
しかしいまだにその際の先生方と連絡を取ることもあり、勉強自体は続けています。
中退した理由は不登校を始めた理由と近いものでした。
私はそういう面では30代半ばに近い今でも大人になりきれていないのです。
弱い者いじめは嫌いで、汚い行いはしたくない、競争もできたらせずに助けあいをしたい、みんなで笑っていたいのです。

そんな人間にはこの世界はつらいことで満たされています。
中学時代不登校をした、というのはいつまでも私のトラウマとなり、高校3年間も、大学の4年間もその後も形を変えて私を苦しめ続けました。
劣等感がどうしても消えないのです。
その後、英語はかなり得意になりました。
勉強も練習もものすごくしました。
アカハラを受けて勉強をさせてもらえない時期もありましたが、独学をつづけたおかげで大学院も一般入試で合格しました。
名前の通った大学でした。
それは自信につながりましたが、劣等感は続き、大学での正式な訓練を受けない独学での合格だったので結果的に学問の世界の風習、独特の雰囲気に自分を合わせることができず、中退をし、もともと職業高校で勉強をした分野の仕事に就きました。

その後も紆余曲折は続きます。
正社員での採用ではなかったので、3年程何か所かの会社で働きました。
仕事内容は同じでしたが、みんなで笑っていたい、弱い者いじめは見たくないという性格が災いして、1年以上同じ会社に居続けることが難しかったのです。
率直に話して、20代は自殺を考え続けて過ごしました。
本当は大学院受験は受かるとは思っておらず、せめてそこまでがんばったという生きた証として、不合格になったら死ぬつもりでした。

でも、なぜか答えられる問題が必要選択回答数出題され、面接でもこれは落ちただろうという結果だったのですが、なぜか合格していました。
もう少し生きてみよう、そう思いました。

その後も苦しみ続け、結局中退し、次の進路を見つけるまでは研究室への出入りを許してもらい、そのころ聖書を読むようになり、そこで感じたことや神父さんのアドバイスを元に動き始めたら、高校の頃に経験できた仕事での就職ができました。
それも今となっては不思議なご縁だったのですが、話があやしくなってしまうので割愛します。
ちなみに聖書は初めの半年ほど神父様と一緒に1対1で読み、お互いに話し合って、その後は一人で読み続けました。
今でもときどき読み返し、お祈りをして心を落ち着かせます。
グループには所属しない、個人的な信仰です。

信仰をもつことで自殺への思いは和らぎました。
しかし、不安定な仕事での人生が続きました。
初めて就職をしてからちょうど2年が経った頃に、趣味を通じて1度だけお目にかかって話した方から電話がかかってきて、仕事の紹介でした。
会ったときに話した内容を覚えてくれていて、彼の以前勤めていた会社が新しい職員を探してるけども、あなたが興味あるかと思ってと言われました。
人生初めての正社員就職を28歳になってからしました。
といってもボーナスも昇給もない不思議な正社員でした。

ですが、この仕事がまた私に運を運んできてくれました。
まず少ないとは言えお給料が毎月入るので貯金ができたことです。
外国とのやり取りのある仕事で、それを未経験からほぼ一人で責任者としてこなさないといけない状況になり、緊張の続く毎日でしたが実務経験を積むことができました。
この会社は3年働き続けられたのですが、業務上起きた問題の責任を取ることになり、無理がたたってうつ病になってしまいました。
それが原因となり結果的に退職することになりました。

その後はしばらく療養を続け、高校からずっと勉強を続けてきた分野で留学することに決めました。
回り道を続けながらも好きな職業に関わる仕事を選び続けてきたので、応募条件と留学に必要なお金が準備できていたのです。
でも、この留学も消極的な自殺だったと思います。
ですが、結果的にこれがいい方向に動いてとても実りのある経験をすることができました。
また最終学歴を中退と思っていた劣等感も少しだけ癒されました。

ろくに正社員経験のない、30を過ぎた男性がただ留学してきました、卒業しました、といって採用してくれる会社はたくさんはありません。
あったとしてもとても大変な労働条件のものばかりでした。
一時は絶望しました。
また死を考える状況に陥り、しかしぎりぎりのところで、また救いの手がさしのばされて、今はまた正社員として関連の仕事についています。
死にたいと言う気持ちとはいまだに付き合っていて、戦っていて、人生の一部ですが、いつかこの気持ちもなくなり、幸せを感じて笑って生きていける日々が訪れてくれるように希望を持ちながら毎日のつらさを乗り越える日々を送っています。

いまだに胸を張って私は幸せです! 成功者です! といえない立場なのですが、同じ苦しみを経験したものとして、いま何歳であれ、不登校やひきこもりで苦しんでいる方たちにメッセージがあります。
それは諦めないでほしいということです。
諦めたら終わりと言いますが、本当にそうです。
自分も何度も諦めようと思う時点が訪れました。
難しい選択でしたが、諦めるなら死んだ方がまし、という病的な気持ちも手伝って、諦め続けずにこつこつと1つのテーマ(職業)に関連した人生を歩き続けてこれました。
お金の面ではまだ裕福とは程遠いですが、知識や経験ではある程度自信がある、他の同年代の人たちと同じくらいには自分の世界で頑張れたと思えるようになってきました。

みなさんが今、人生に希望を見出せない、何をやっていいかわからないと感じているのなら、動き始めてほしいです。
毎日散歩をすることもいいと思います。
図書館や本屋で本を読むこともいいと思います。
動き続けているとある日自分を変えるきっかけ、運が巡ってくるのだと思います。
動かない人には運は巡ってこないだろうと思うのです。
でも、動いたからといってすぐ運が向いてくるわけでもないし、必ずしも救われるわけではありません。
つらいことがずっと続く時期もあると思います。

でも、あなたが努力を続けるのなら、それを見てくれる人はどんな場所にもきっといるんだと思います。
何かつらさを経験した人たちは、同じように苦しむ人たちの声なき声に気が付きます。
私もできるだけつらさの中で努力を続ける人たちには自分にできることで何かのお手伝いをできるように気をつけています。

世の中悪い人ばかりではありません。
いい人ばかりでもないですが、がんばって動き続けて、試行錯誤を続けるうちに人生は動き始めて、その方法はいつも必ず今よりずっとよい未来への道だと思います。
自分の場合がそうでした。

中学校不登校生から始めました。
高校では終了チャイムと同時に走って家に帰る日々からスタートしました。
大学でもいじめられました。
大学院でも劣等生でした。
バイト先でもいつも新人さんでした。
初めての正社員でもホワイト企業ではありませんでした。
体を壊して留学を決意した先でも人種差別的なつらさを感じたこともありました。
帰国後もバラ色の人生なんてなくて現実と向き合い続ける日々でした。

でも、動き続けてきました。
自殺もずっと考えて後を着いてきます。
でも動き続けました。
そうしたらギリギリのところで何か必ず見つかりました。
きっと諦めなかったからです。

自分の経験が特殊だとは思いません。
いじめられっ子、不登校児でも大学院に行くことはできました。
ほとんど独学でした。
ただ、いつも本ばかり読んでいました。
それが私を救ってくれたのかもしれません。

読書でも、音楽でも、アニメでも、車でもなんでもいいので、自分が好きで興味のある分野を1つ選んで、それに関する知識や経験を深めていってください。
いつかそれはあなたの仕事につながってくることがあるだろうし、つらい時にあなたを救ってくれるんだと思います。

14歳で不登校をしてから、ほぼ20年間、私はずっと劣等感の塊でした。
自分が不登校経験者だという意識、言いかえれば社会不適合者だという意識は持ち続けてるし、今後も消え去ることはないと思います。
でも、それにとらわれたり、執着する生き方は、そろそろ終わりにしないといけないと思うのです。
私の自殺願望もきっと不登校の経験やそれに執着し続けることが原因かもしれません。

この手記を書くことで、劣等感は忘れないけど、受け入れる方向でけじめをつけたいと思います。
私は社会不適合者だけども、これまで30過ぎるまで生きてこれた。
いろんな人たちに助けてもらって生きてこれた。
だからこれからも生きていけるうちはずっと努力を続けよう、動き続けようと思います。

希望はあるんだと思います。
だから 諦めないで動き続けて、動き始めてください。
時間と努力の蓄積はきっと私たちを少しずつ天国に近付けてくれると思います。

以上、終わりです。
誤字脱字、おかしな言い回しはご容赦ください。
〔2015年8月4日〕 

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