Center:2010年8月ー社会的自立の有無が分岐帯…不登校のその後
目次 |
社会的自立の有無が分岐帯……不登校のその後
〔日々輝学園高校(編)・『不登校を乗り越えて(改訂版)』のうち「不登校のその後」をテーマにして書いたものです。
『ひきコミ』82号=2010年9月号に掲載〕
(1)社会参加している不登校の経験者
7年前のクリスマス会の席で、1つの詩が発表されました。
作者のnaoさんは引きこもり経験のある30代の女性です。
ゆっくり読んでみてください。
「I suppose so By nao
ここに私たちがいることは、偶然ではないと思う。
社会の被害者のように、譲ってばかりで、とても損をしているように私はよく思う。
争いは避けたいし、自己主張がへた。
相手の気持ちがよくわかってしまう私たち。
私はいまでもエゴばかりの人たちを見かけては、
落胆して落ち込んでしまうこともしばしば。
かといって、これで終わるのかといったら、いやそうじゃないだろう。
私が私の中から見つけたほんとの知恵と呼べるものは、
私からみれば明らかに勝組といえるような社会の一線で活躍しているような人たちを、
あるときは癒すことさえもできるとわかった。
貴重な働きができるんだ。
だから解きあかそう、自分のこと、私たちのことを。
そこから生まれたそれぞれの叡智が、
日本の社会を癒していくと思うんだよね。
そういう種をみんな持っている気がする。
それを世に出していったとき、
そのとき私たちは天使のような存在になることができるんじゃないかって思うんだよ。
感じる力が大きくて、ほんとにいろんなことを感じる。
プラス、ただ流していくことなんてできないし、したくない。
だからそれでよく潰れそうになってしまうよね。
だからつながりあいながら進んでいけたらいいな、なんて・・・・・・。
どうかな。」
naoさんのいう意味がわかるでしょうか。
それは不登校や引きこもりの心情を理解できているかどうかの初歩的で究極的な表現を理解できるかどうかだと思います。
これに関連することから書いてみましょう。
(1)不登校経験があり、テレビ局に入った人がいます。
警察周りの事件を担当しているのですが、「そんなことを根掘り葉掘り取材して、視聴率を上げるために報道をしたいわけではない」と 感じ、転職を考えているようです。
詩の作者naoさんの感覚が社会全般に向いているのに対して、視線がテレビ業界内に向きその異様性を鋭く感じています。
それを自分の主張としては発表できず、しかし自分の気持ちを崩さない方法として転職を考えている、と理解できます。
この感覚に注目したいものです。
転職ではなくその感覚を生かす報道に向かって欲しいのですが、まだそれはできません。
プライドが高くて自分を縛っている、頑固や偏ったことに固執しているとみられることもあるでしょう。
弱いように見えますが社会のゆがみに迎合しない、自分を崩さない姿勢があります。
(2)ある通信制高校の責任者がきてその学校の取り組みを話してくれました。
「うちの先生の中に不登校の経験した人が数人います。その先生たちは不登校経験の生徒への対応がとてもいいです。上から目線でなく生徒とはまるで兄貴分か友だちのようにいい関係ができます」。
(3)不登校情報センター訪問サポートの学生には、不登校経験者は少なくありません。
その気質が訪問先の不登校や引きこもりの子どもといい関係をつくる土台になっている例は多いのです。
ある引きこもり支援団体が調べたところ、引きこもっている人が訪問をして欲しいと思う第1位は引きこもり経験者で、一般カウンセラーよりも上位になります。
不登校経験者には就業先にその感覚を受けとめる条件があれば、すでに力を発揮しています。
どうでしょうか。
全体はまだはっきりはしませんが、私には不登校・引きこもり経験者のそういう気質・性格特性が有効に働く分野や役割が少しは明確になりつつあるように思います。
しかし、これは社会参加をとげた不登校経験者に表われる可能性です。
それは〝弱い力〟です。
弱いけれどもその感覚を崩さない、ゆがみに流されない強さがあります。
就業先によってはその気持ちを変えないと仕事が継続できない葛藤に苦しんでいるともいえます。
いずれ社会的に大きな意味をもってくるでしょう。
ある若者支援団体の人から質問を受けました。
引きこもりになる人の日常生活はたいへんだけど、才能があって天才タイプが多くいますね、と互いに納得しあった後です。
「天才タイプの人で天才にはならない大多数の人の役割はなんでしょうね」。
この質問に私のなかに浮かんだイメージは…。
「いまは企業が雇用する社員を選べる時代です。
でも雇用・就職状況が改善されたとき、この人たちの感覚がわからない企業は世の動きに対応できなくなるのではないか」。
彼ら彼女らの力は弱い、けれども「そんなことでは社会ではやっていけない」といわれても自分の感覚で納得できないものには流されないのです。
あんがい歴史の “パラダイムシフト”(広く定着していることが急激に逆転すること)の力はそんなものかもしれません。
彼ら彼女らから拒否される企業に明日はない時代がやってくるのでは…。
(2)社会参加ができない状態象
親も支援する人も「不登校のその後」を思うとき、日常生活や支援現場で直面する事態を先に思い出します。
しかし、そこで彼ら彼女らがときおり示す宝物のような言動に触れるのも確かです。
社会に入ったときにも、その言動はすでに表われているのですが、すんなりと進んでいける状況ではありません。
時代を先取りした人たちの持つ苦しみかもしれません。
しかし、しかしです。
不登校や引きこもり経験者の支援現場で考えるとなると、楽観的なことばかりは言っておられません。
20代以上の、とりわけ30代以上の年齢になった人に社会参加できる力をつけるのは容易ではないからです。
私の論拠の基礎になるのは、毎月開いている2つ親の会、1つは不登校になっている中学生・高校生の親の会、もう1つは10年続いている親の会で、この数年は引きこもる20代から30代青年たちの親の会です。
そして週4日はやってくる20代から30代の不登校・引きこもり経験者たちです。
とりわけ不登校・引きこもりの経験者との“共同生活”は1次的・基本的な材料を与えてくれます。
このなかには小学生から不登校であった人、高校中退の人、大学中退の人、就職経験のある人……同時にまだ社会的自立はしていない、仕事を継続できないいろいろな状況の人です。
「不登校のその後」は、主に高校卒業以後が対象です。
ところで私の周りにいる人たちは、社会的自立に必要な力を身につけているかどうかは、年齢に関係なく何が基本的なことかを教えてくれる環境になっています。
私は2008年5月に通所している人のその時点での状況を「対人関係支援百人の実例と支援体制の現状――ひきこもりから社会参加への軌跡」としてまとめました。
実際は比較的かかわりの深い110名の状況分析であり、通所者の軌跡を7つのタイプに分けました。
(1)「就業(社会参加)になっている」69~75名、
(2)「復学・職業訓練状態」2名以上、
(3)「情報センター内のスペース参加」20名、
(4)「離脱・社会参加は未確認」5~8名、
(5)「離脱・再引きこもりを予想」3~6名、
(6)「訪問サポートから始まった例」7名。
最後の(7)は他の項目と重なる人もいます。
このうち社会的自立に該当するのは(1)になるはずです。
しかし、必ずしもそうとは言い切れないものもあります。
また(3)「情報センター内のスペース参加」は厚生労働省の『ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン』で指摘されている引きこもりと社会的自立の「中間的・過渡的な状況」に当てはまることになそうです。
(1)「就業(社会参加)になっている」が、当事者にも、支援団体としての不登校情報センターにとってもめざすものになります。
私が最も重視するのは「社会参加できる力」の獲得です。
青年期を終えた時点で彼ら彼女らがその力を獲得するかどうか、その内容や程度はかなり明瞭になりました。
通所していた当事者のなかに最初に生まれた自主グループは“30歳前後の会”でした。
それより年齢の低い引きこもり経験者たちには感じ取れない“果たして自分は社会参加できるのだろうか”という不安感があり、どうすればよいのか見きわめようとしてその会は生まれたのです。
そのなかの一人が「自分に必要なのは訓練ができ、収入をつながる会社みたいなものです」といったのをいまも鮮明に思い出すことができます。
それから十年以上の時間が過ぎました。
いま不登校情報センターの引きこもり経験者の居場所は、ワークスペースになりました。
作業をし、それに応じた小遣い程度の収入を得、そこに集まる引きこもり経験者たちと対人関係、知人・友人の関係をつくっています。
十年前に彼の言ったことは実現しているのです。
しかし社会参加できる力はスペースの状態だけにはよりません。
個人が自分の特性を生かしてどのように力をつけるかが問われます。
引きこもりを抜け出してはいるが社会には入っていない、そこに停滞し社会的自立を達成していないのです。
ガイドラインが中間的・過渡的な状況と指摘しているところです。
何が未達成なのでしょうか。
取り組み経過に表われた現象面からみていきます。
スペースは当初の当事者の会からだんだんワークスペースに変わってきました。
作業をするなかで、私は彼ら彼女 らとともに対人関係のあれこれを経験したことになります。
引きこもり経験のある人たちのその働きぶり、とくに社会に入るのにためらいを感じ、自信のない背景が自然に示されるのを見てきました。
引きこもり経験者の生産性とそれを超えた対人関係につながる原因は次のようなことです。
(1)作業の速度が遅い、集中できないか細かなことにとらわれて全体がよく見えていない。
(2)休憩時間が多い。
はっきり休んでいるタイプと仕事をしながら休むタイプがあります。
当事者にはその休みは必要ですが、集中していないと見られます。
(3)臨機応変の判断・対応が苦手でトンチンカンなことをしやすい。生産性に関係しますが、それを超えた問題になります。
(4)自分で責任が取れないために自己判断を避ける――かなりできる人でも自分の判断による形は避けようとします。
(5)作業をする自分の周囲の環境を確保するために、他の人とは隔離された空間を求める傾向の人もいます。
(6)自分の分担する作業範囲が明確でないと困惑し、作業範囲が不明確なまま2人以上の共同作業はかなり苦手な人がいます。
共同作業をその場その場でやり取りするのが難しく、これは臨機応変が苦手であるのと同じです。
共同作業のペースは個人単位で大きく異なり、相手のテンポを尊重する引きこもり経験者には、共同作業の性質によっては最も作業速度の遅い人に合わせることにつながります。
また作業の進め方の個人的な手順を尊重もしたいし、尊重もされたいという心情が働くように思います。
これらの作業・仕事に使う精神的エネルギーは肉体労働をはるかにしのぐレベルになっていると考えられます。
全体として振る舞いやことばが適切にされていないことになります。
個人差がありますし、ある作業への向き不向きがありますから、全員を同じように見ることはできません。
このなかでどの部分がその人に強く表われ、どの要素と要素が組み合わさっているかが個人差になります。
かなりの場面においては不便なことですが、ものごとのゆがみを鋭く感じ取り、ものにより・やりようにより効率はともかく合理的な対処と見えるものもあります。
人によっては、できる部分を評価され、遅れている部分を同僚や上司から理解され・カバーされると継続して働くことができます。
(3)社会に入る力の未達成の背景
引きこもり経験者の生産性が低く、対人関係が難しくなる直接の背景は上のとおりですが、なぜそうなるのかを考えていくと別の問題が見えてきます。
たとえば対人関係において不安感が強く、意識的・無意識的に自己防衛を先行するところがあります。
そうなる背景は、一般に気質・性格特性として神経質なところがあります。
この気質は細かなことに気づき、それに気をとられていると理解できます。
しかし「細かなことに気づき気配りする」と「意外と大事なことに気づかない」のどちらか両極になりやすいと理解するのがいいでしょう。
そうするとアスペルガー気質の人への対応に共通項が感じられてきます。
どちらにしても気質・性格特性は先天的なものですから、直すべきものではなく、どう生かすかを考えることです。
後天的に何を体験したのかに注目しなくてはなりません。
学業はかなりできる人も多いことを考えると、学校教育に戻って考えなくてはなりません。
多数が有名大学への進学・受験中心の学校教育を経験したことになります。
その人が経験した学校教育とは受験教育に偏り、その影響をこの形で受けます(学業の遅れる人は “置き去り”などの形で影響を受けます)。
対人関係において感情や自己表現を抑制し、表現する場を与えられなかった、奪われていたと理解できます。
それは 社会性を伸ばす機会が制約されていたのと同じことです。
この影響が強く残っています。
総じて、気質・性格特性が受 験競争中心の学校教育には適合せず、社会参加できる力を伸ばすうえで支障になったといえます。
それは効率優先で利潤追求の社会に適応しないことにつながります。
逆にいうと競争過剰な学校や社会を復元する力が宿っているともいえるのです。
初めに紹介したテレビ局に入りながら転職を考えている人にはそのようなものを感じます。
実際は、とくに学業の高い人だけが不登校や引きこもりになり、社会参加の前で停滞するのではありません。
不登校や引きこもりの背景が多様で複雑に絡み合っているといわれるところです。
個人差があるとしても20代以上の不登校・引きこもり経験者はそこが共通して未達成です。
学業だけではなく学校教育の役割はそれぞれの程度において背景のほかの問題にも関わることができます。
幼児期から青年期にかけての学校教育の目的は、ここに置かれるはずですが、日本の学校教育は上手くいっていません。
それでも中学校や高校においてこの不登校状態から抜け出す人も多くいますから、学校教育の発揮すべき課題です。
前章までにその実例のいくつかは紹介されているとおりです。
知育中心で「人格の完成」が後回しになったのは国民意識の圧力が背景にあります。
社会の変化の中で教育制度(たとえば学級の生徒定数)も改革が必要でしたが、教育に従事する人のなかに国民の知育中心の圧力を先導した人もいます。
社会参加の前で停滞する子ども・青年が多くなるのはここに由来します。
学校教育の目的は「人格の完成…」ですが、その意味がわからなくなっている教育者は多いのではないでしょうか。
(4)社会参加の力を獲得する過程
20代・30代の不登校・引きこもりの支援現場で表われるのは、人間発達が通常の社会参加には難しい程度の未成熟状況です。
対人関係において自己防衛が強くでます。
緊張と萎縮、強がりと勝ち負けへのこだわり、自己開示ができない・自分の壁をつくり人との接触を回避する…などが自己防衛の表われであり、社会的未成熟の表現です。
当事者の集まるスペースでは、この自分の未熟性との闘いになります。
「同じ経験をした人たち の理解しあえる場」が当事者のスペースと紹介されることがあります。
それは事実ですが事実の半面を示しているだけです。
この状況をある当事者が「まるで修業をしているみたいです」といいました。
実に的確な表現です。
そこにはそれまでの友人関係の空白から脱出する手掛かりがあります。
気の合う人、趣味や関心 の共通する人、自分が情けないと思う体験を気後れなく話せる機会にできます。
その意味で大きな役割があります。
他方では、自分の弱さを直視しなくてはなりません。
目前の人に弱さや生理的な嫌悪感が出て、同じ種類のものが自分にもあると思い知らされる苦痛もあります。
その葛藤を「プライドがじゃまをしている・プライドを捨てろ」といわれて納得しがたいことも経験します。
このスペースにおける対人関係の訓練は、とくに20代の後半から30代に入ってからの苦痛です。
十代からせめて20代の前半までならば自然にできるのではないかと思いますが、スペースにおけるその年齢の人たちは比較的楽しく、同時に危機感が薄く自分の課題を意識しづらいように思えます。
学校教育の教科や課題の枠があるのが、この時期の対人関係づくりには向いています。
不安定な人を高卒後も在籍できる仕組みが欲しいとさえ思います。
20代後半以上で、この課題に挑戦するのはときには不自然です。
最適の成長期から離れた時期の試練になります。
時間がずれるだけではなく同じものを獲得するのが困難と思えることもあります。
“果たして自分は社会参加できるのだろうか”という当事者の感覚はここにつながる根拠のある不安です。
当事者のスペースは生まれて十年以上が過ぎました。
安定した対人関係を身につけば社会参加できるでしょう。
しかし、それ自体が容易のことではない人も少ないとはいえません。
社会参加できるとはいえ、本人が望まないことや予想もしないものかもしれません。
望まないものは続かない可能性が大きいのです。
社会参加した人たちの様子も伝わってきます。
今年になり顕著になったのは週5日のフルタイム就業がきわめて困難な人が少なからずいることです。
何らかの障害や病気が隠れている例もありますが、そうとばかりはいえません。
通常の社会生活できる力を獲得しないまま青年期を終えていく人たちです。
この状態に対応する社会的仕組みも必要になってきています。
彼らの中には既にそのことを早い時期に予感して「行けるところまで行く」と“達観”している人もいます。
それでも当事者なりの工夫、努力と周囲の環境や応援により社会参加になった人もいますから、希望をもちその種類の支援団体に参加するように勧めます。
納得できないものは参加しない、取り組まないという気持ち、ダメでもいいからやってみる、このようなくり返しを経験します。
“達観”はこの葛藤の先にある状態ですから、必ずしも否定的ではありませんが「行けるところまで行く」心情は奥深い怖さがあると心得なくてはなりません。
青年期を終えて社会参加の力を得ていない人への支援の方法や過程、それに社会的仕組みはまだはっきりしません。
不登校・引きこもり経験者が力を感じるのは、理解しあえる人間関係ができたときです。
外からの応援を自分の内側の自発性に変えられることが、何かができる・できない以上に大きな要素です。
「自分はこれでいい」という気持ちになれることで、それは理論学習により生まれるものとは違います。
理解し会える友人・知人関係ができるときに生まれます。この人間関係を一人ひとり結び、強め、多様に広げるなかで、当事者が自分で到達する内容や方法をはっきりさせるものです。
支援者の役割は、直接の手出しは少なくし、スペースを確保しつづけることのようです。