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Center:2005年7月ーフリースペースの運営試論ー中間点報告

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目次

フリースペースの運営試論――中間点報告

〔2005年7月15日〕
6月12日は、不登校情報センターをNPO法人にする設立総会でした。
その後で引きつづき、主に当事者同士の交流を開き、フリースペースの運営に関して話し合いました。
いろんな面を話し合いましたが、ある種の結論を得ました。
それは、「フリースペースに参加している当事者は、ほかの参加している当事者に対して、何らかの関わりをもつことを義務的に負わされない」というものです。
言い換えれば「状態の重い当事者が参加したとき、その人に対して何らかの形で手を差し伸べることを義務的に求められない」ということです。
一見、フリースペースに参加するときに求められる役割とは異なる、ニュートラルで冷静な立場を表明するものになっています。
これを不登校情報センターのこれまでの経過のなかで考え、その積極的な意味を明瞭にしてみたいと思います。

【1】多様な「対人関係が苦手な人」の集まる場

不登校・引きこもりなど対人関係に不安をもつ人に対応する機関である不登校情報センターは、さまざまなタイプの当事者をフリースペース(居場所)に迎えてきました。
中心になるのは温やかでおとなしくて真面目な、神経質的気質の人たちといっていいでしょう。
相手に気を遣い、気を遣いすぎて自分の本音の感情を見失いそうになる、そこでエネルギーを消耗し疲れてしまいやすい人たちといったらいいでしょうか。
別の面からみると繊細な感性の持ち主、感覚が鋭く人の心の動きを察知していく人たちです。
この人たちもまた、長い年月のなかで心の状態が変化していきます。
あるときは身を守るために心を 強く内側に閉ざしたり、逆に攻撃性が前面に出たり、相手のわずかな反応のズレに受身的であるが故に強く攻撃的に出たりすることもあります。
あるときは見放なされや喪失体験を避けるために依存的言動や、感情が強く出たり、相手に受け入れを求めたりすることもあります。
本人のこれらの不安定的な状態が強まったとき、フリースペースに入ってもフリースペースにおける人間関係もできません。
そういう不安定状態が長くつづく人もいます。
その状態が基本的な対人関係づくりを困難にしているのです。
そういう自分の状態をわかっている、いわば自覚しているために萎縮したり、自己不安感をそのつど確認したり、存在感が失われる人もいます。
逆に無頓着に人と関わろうとし、無自覚に相手の心を傷つけたり、自尊心や心のよりどころにしているものを貶(おとし)めてしまう人もいるようです。
これらはいずれのタイプであっても「対人関係がうまくいかない」結果になる点で共通しています。
ただし、人と人との関係の相性が働き、そのように作用しない人もいます。
このようなさまざまな人がいるところがフリースペースです。
何らかの似通った体験があり、「同じ体験者として理解を得やすい」といわれながらも、フリースペースは必ずしも楽なところではありません。
これらをこの数年間の出来事と対応のしかたのなかで振り返ってみましょう。

【2】フリースペースの経過

フリースペースが今日の環境になったのは、2001年6月に新小岩(第一高等学院新小岩校の旧校舎)に移ってきてからです。

(1)「人生模索の会」の一時閉鎖
フリースペースにおいて、2002年1月途中から3月末まで「人生模索の会(毎週水曜日に開いていた当事者の会)」が閉鎖になりました。
これは当事者の2人の衝突が原因でしたが、それはある日突然生じたわけではなく、それ以前の10か月近くの経過のなかで、徐々にヒートアップしていったものです。
衝突の当事者2人の周辺の数人がこの事態を近くでみていました。
この意味で2人だけの問題ではなくなっていました。
あるタイミングで"全員集会的"な場を設け、当日来ていた20人ぐらいが参加しました。
その場では比較的冷静な事実関係に基づく話を重ねましたが、結局は両者は互いに仲直りしていくことができませんでした。
この話し合いの後で、「人生模索の会」を停止にすることになりました。
物理的に人間関係に距離をとらせることになります(この経過は五十田猛『引きこもりと暮らす』、東京学参のなかで述べてあります)。
もちろん、このような人と人との関係は、フリースペースに来る個人と個人の間で、ミニサイズで発生を繰り返しているものだと思います。
私の考えではこのようなことは完全に回避すべきことではありません。
むしろ経験し、人との関係は結びつくことだけでなく、距離をおく、さまざまな中間的な方法を身につけていく機会になるのです。
これは他のケースにおいても同じでしょう。

(2)「相談会員」という制度の設定
その次の"事件"は2002年の秋深まったころに露呈した事件です。
私のみるところでは、何らかのパーソナリティの障害のある人の言動によります。
1人は、相手に対して攻撃的であったり、見捨てられ不安が前提になって特定の人に依存的な振る舞いを示すものでした。
とくに攻撃的な言動により何人かが心に負担を感じ、うつ状態になったり、恐怖感を覚えたりする事態が生まれました。
もう1人はパソコンに関して器物破損的行為を繰り返していました。
これは一般社会において犯罪に当たるもので、シンプルに対処することもできました。
しかしある事情から精神的な根が深く関わることも明確になりました。

この2人の件に基づく対処方法として、私は「当事者の会」(仮会則)(2002年11月)のなかに「相談会員制度」というものをとり入れました。
それは、この2人をフリースペースのあらゆる場面から全面的に排除する、立ち入り禁止にするものではありませんでした。
(仮会則)では次のように決めています。
「 【相談会員】 面談および試行期間において、ほかの引きこもり経験者との接触をもたない方が当人にとって有効である人、心理的教育的対応を優先する人と不登校情報センター代表が判断した人は、相談会員とし、相談室(カウンセラー)が対応します。
相談会員は当事者の会に参加できません。
不登校情報センター代表は、すでに当事者の会の会員になっている人を相談会員とし、対応することができます」

この2人は共同で行動をしたわけではなく、もしかしたら顔もよく知らなかったかもしれません。
それぞれをこの相談会員になる旨告げています。
「不登校情報センターには、他の当事者と関わるのではなく、私と面談するために来るように」申し渡しました。
結果として、2人はそれぞれ不登校情報センターには来なくなり、今日に至っています。
そのうちの1人は、ときたま電話をしてきますが、名前を告げないで電話をかけてくる時もあります。
おそらくはその時期の対人関係に不安感が募って、それに関係して電話をしてくるのですが、積極的に何かを決めようというものではなく、様子(雰囲気)うかがいの感じがします。

(3)フリースペースの"卒業"気分
次にこの問題を考えるときになったのは、それから1年近くたった2003年の暮れ近くなったころです。
「人生模索の会」の様子が少しずつ変わってきたころのことです。
一方では以前から来ていた人たちのなかで、ある種の"卒業"気分が生まれていました。
対人関係をつくるレベルから、それだけでは特に用件がある、という気持ちが薄れ、「特別のこと」がなければ、フリースペースに立ち寄ることが減少していました。
私には、これは悪い事態ではなく、前進状況であると理解できました。
他方では、新たに対人関係づくり(友人さがし)や何か別のことを求めて来始めた人もいました。
主に新しく来始めた人の中で、ミニサイズの心理的衝突があったように思います。
もちろん以前から来ていた人の間では何もなかったというわけではありません。
"事件らしい事件"があったのではなく、さざ波のようなざわめき(?)も、引きこもり経験者の一人ひとりにとっては波頭の高い事態として受けとられることは避けられないものです。
フリースペースでは"事件らしい事件"がないことは"平穏"と同じ意味ではないでしょう。
このような事態の中で、『フリースペース――会則をかねた利用の手引き』(2003年12月)を作成し、配布しました。
そのなかで会員間の関係として次の文書を掲載しています。
それを引用しておきます。

当事者間の関係(利用のしかたを工夫しよう)
「引きこもり等の当事者同士の交流は、自分の体験を相対比し、自分さがしに役立つものです。
話し相手づくり、友人づくりにつながります。
同時に、それは鋭い感性をもつ人同士が集まる所です。
言葉や動きだけでなく、雰囲気で相手の気持ちを察し合う場です。
同席する人の精神的テンションの違いが気になる、心が透けて見えてしまい動けない、自分の感覚を守れない・・・
これらが重なると、場を変えたい、距離をとりたい、それでも修業のつもりで関わる
・・・などさまざまな感情が動く時間帯です。
これらは対人関係の前進を示すものです。現われ方には個人差がありますが、居場所に慣れるにしたがい多くの人が経験することです。
その場を重ねて苦行を続けるもの一つの方法ですが、自分なりにフリースペースの利用のしかたを 工夫していくことも考えていいでしょう。
場の設置者側は、次の条件を設けます。

(1)
住所・電話番号・メールアドレス・年齢を聞かれた時は「教えなくてもいい」を原則とします。
手紙やメールをもらった時は「返事をしなくてもいい」を原則とします。
立場を逆にすると住所やメールアドレスなどは「教えてもらえない」、手紙やメールの返事は「もらえない」が基準です。
しかし、聞いてはいけないわけではありません。
手紙やメールを送ってはいけないわけではありません。
親しさの程度に応じてできるのです。
これは知らないうちに相手に頼ってしまい、その一方に負担になる人が生まれます。
頼る側はそこに気づかずに相手を批判的に思ったりするからです。

(2)
1対1の会話は、ときには気づかぬうちに「一方的に話をする人」と「一方的に話を聞く人」になりやすいものです。
「一方的に話を聞く人」は大きな負担になることがあります。
1対1の会話は、できれば30分、延びても1時間を限度としましょう。
カウンセラーがこの状態に気づいたとき、会話に入っていくことがあります。
せっかくの雰囲気を崩すこともあると思いますが、ご寛怒ねがいます。

(3)
会員構成者は若い男女です。
恋愛感情が生まれるのは自然なことです。
しかし、いわゆるナンパ目的、継続的に拒否サインを出している人へのストーカーに似た状況は、人間関係づくりの場を不自然にし、フリースペースの目的とは違ってきます。
この行為が重なる人は、会員から除籍します。」

ここでの中心的なトーンは、人と人との関係(つき合い方)、距離のとり方を、フリースペースという場で枠組みとして扱ったことになります。
各自の自分の感覚による判断を前提とし、それをより意識することを促しながら、依存的な関係への対処のしかた、距離をおくときの支えとなる材料・基準を設定したことになると思います。
この『会則をかねた利用の手引き』が、フリースペース全体のどこかの場面で、きわだって問題にされたことはありません。
しかし私の判断では、決して空振りに終わった提起だとは考えられません。
当時の状況において、それを読むこと自体が一人ひとりのレベルで、学習材料として浸透していったものだと思います。
当然、その影響は個人差も大きく、フリースペースという特別の限定された場での人間関係の考え方を越えて、人間と人間の関係のつくり方として手がかりにしようとした人もいると思います。
他方では、文字の並んだ「会則」という文書があり、頭の片隅に意識されても改めて読むほどのこともなく置かれたまま、という人もいたはずです。
これらの幅のある受け止め方は、まさに自然現象のようなものです。
会則として厳格に適応されるよりも、一人ひとりの意識、その場での事態と対照しながら自分なりのものとする、ベースは自然現象のような進行こそが、私には意味があると思えるのです。
いやそれは私の好みなのだと思います。

(4)「用」という目標をめざす場
昨年(2004年)の夏ごろから、フリースペースの様子は少し変わってきました。
フリースペースに来る人がかなり減ってきたことです。
ほとんど毎日誰かがやってくる様相は同じですが、以前は10~20名が来ていたのとは違って10名未満のことが多く、2~3名のときもかなり多くなりました。
私は、"ブームとしての引きこもり時代”が終わったのだと判断しました。

代わって、"日常としての引きこもり"時代、本物の対応が求められる時代が来たのだと思いました。
不登校情報センターの場面では、何か用事があるとき、たとえばあゆみ仕事企画のDM発送作業やポスティングのために来る状況になりました。
家から出てもこれという外出先がなくて、情報センターに来る人もいますが、そういう人は「今日は他に誰も来ないんですか?」と何かを得られないいくぶん気落ちした様子が表われます。

この事態が数か月続いた2004年秋頃には、私はおおよその状況判断ができました。
私の判断では、これは退潮傾向とは必ずしもいえないものです。
「用」が大事なのです。
だれかと話しができる、関わりがもてるかもしれないという莫然とした「用」では空振りすることもありうるフリースペースです。
自分なりの「用」を設定し、そのために出かけてくる場、それは自分なりのミニサイズの目標を設定し、自分なりにその達成を願う場に変わったのです。
この状況は、スタッフなきフリースペースではもともと潜在していたことですが、それが顕在化したのかもしれません。

(4)フリースペース4年間の総括
新小岩に移転して4年間のフリースペースの状況を振り返って見ると、フリースペース独自の運動法則に基づく動きが感じられます。
その一方で4年間一貫している、引きこもり等経験者同士の、鋭利な感覚をもつ人同士の、ふれあい、衝突、融合、離反の繰り返しもあります。
当事者一人ひとりのところでは、これがどのように影響するのか。
その格差はとても大きいと考えないわけにはいきません。
ある人は、自分の身にふりかかる事態として対応しなくてはならなかったでしょう。
何らかの制度的な対応を設定してほしい、そうでなければ意味がない、辞めてしまう、来ないでおこう、と結論づけた人も少なくないと思います。
別のある人は、それを経験、対人関係づくりや自分の得意不得意を知る機会にしていったように思います。
ここではそういうことを教えてくれる人はいませんから(世間と同じです)、結局、自分でそれを処理していく力を少しずつ伸ばしながら、身に付け、トライしていくしかないのです。
さらには、さっぱり何もつかめない、要領を得ないでただやってきただけという人もいると思います。
自分のなかにわずかながらの問題意識がないとそうならざるを得ない気がします。
フリースペースに出る(来れる)というのは、それだけで「たいしたものだ」といえる根拠はここです。
ただ、実際の場面でその原初的な問題意識を加工・修正あるいは段階設定するなどのことが求められるはずです。

【3】NPO活動交流会

このような4年間のフリースペースの脈絡の中で、2005年6月に不登校情報センターをNPO法人にすることになりました。
フリースペースに来る当事者自身がNPO法人の会員になることを原則としたのです。
ただこの原則を機械的に当てはめていくつもりはないことも明言しておきましょう。
機械的なやり方は、いずれにしても通用しないからです。

(1)1つの結論と1つの保留
6月12日の会合は、表向き「NPO活動交流会」と名づけました。
しかしこのフリースペースにおける対人関係の状況では、その焦点は少し違ったものです。
その説明はやめましょう。
この交流会では1つの結論と1つの保留(今後の研究テーマ)を得た、と考えています。
ここから今日の問題に入って生きましょう。

1つの結論とは、フリースペースにおける当事者の関係において、ある当事者が別の当事者に対して、特別に(好意的に)関わっていくことは原則ではない、ということです。
「あの人はしんどそうだ、元気がないように見える、自分が何とかできることはないか」という気持ちになることはあると思います。
現にそういう言葉をかけられて楽になった、助かったという人は多くいます。
そういう気持ちを何かの言動に表現できる人もいるかもしれませんが、そうしなければならない、というのが原則ではないのです。
何もしない、何もできないこと、それは間違ってはいないのです。
それが原則の一面を構成している、という確認です。

これは2003年の「会則をかねた利用の手引き」で決めたことの確認でもあり、その延長を一般化したことになります。
1つの保留とは、フリースペースに受入れる当事者には特別の処遇を受ける人がいてもいい、それは"自傷他害"の可能性が高い人です。
このばあいの特別の処遇はイコール出入り禁止、会員除外を意味するものではありません。
2002年秋の「当事者の会」(仮会則)で設定した相談会員に相当する人です。
その実態は、そのときの会則で想定してものと同じではありません。
もっと個別に考えられるべきものです。
 2002年秋の対応では相談会員になった人は結局「来なくなった」だけで、実質的内容はありません。
ホッとした人はいると思いますが、それは最良ではないでしょう。
もっと対応のしかたは研究されていいのです。
この相談会員への対応のしかたが「1つの保留」になったのではありません。
"自傷他害"、すなわち自分を傷つけたり他人に危害を与える可能性が大きい、とくに他害の面が注目されました。
他人に害を与える――身体的な攻撃を加え、傷を負わせる行為は、相談会員的な処遇にするしか方法はありません。
ところで「相手の心に傷を負わせる」点はどうでしょうか。
ここが難しいのです。
「心に傷を負わせる」を基準に相談会員にしたらいいのでしょうか。
賛成できないのです。
なぜなら人間は共に生活する(生存する)こと自体のなかに、ともに助け合い、ともに傷つけあう社会的な生き物だからです。
もちろん程度は大きな意味を持ちます。
心に傷を負わせるその程度を問わなければ、人間が共に生活する姿そのものです。
その程度をどう判断し、どう表現するのか。
これが奥深くあり、難しく、そこが保留になっている点です。

(2)なぜ多様な人を受け入れるのか
そんなややこしいことはやめてはどうか、病的な人は受け入れなくてもいい、という意見があるでしょう。
万事控え目な人たちですからこう明言する人はいませんが、そう考えている人はいるはずです。
私はそういう考え方には立てません。
病的な人、「重い人」としましょう――は、自分の感情を抑制するのに苦心を重ねた人です。
そして感情の抑制にある程度以上の成功を収めた人です。
そうであるからこそ、蓄えられた感情はストレスになって爆発の形で表現するしか出口がなくなった人です。
爆発しないように、無意識に出口を求め、ここぞと思える人に相当量が噴出していきます。
これが二者関係を重くし、負担を与えていくのです。
こういう人を一般的に排除するのであれば、私の想定するフリースペースは無用です。
元気な人のフリースペース(たぶんそれはスポーツクラブとか○○サークルをいう名称になっているでしょう)にすればいいだけです。

これは私の個人的性格や判断によるところが大きいと思います。
人間性善説とはいいません。
人間には善も悪もない。
それは火や風に善も悪もない、イヌやウマに善の悪のないのと同じです。
そういう自然観、人間観に立ちながらも、私は人間を根底のところで信じているのではないかと思います。
それは人間賛歌とは違います。
人は追い込まれたら人を傷つけたり、突拍子もない行動に出ることもあります。
そういう人 間の犯罪的行為を否定しながらも、それと両立できる人間観です。
回り道はこの程度にして先に進みましょう。
人の心は複雑であり、多面的であり、いくつかの部分で構成され、しかも部分間が互いに作用しあっています。
親子の間での心の動き(誕生から始まる関係)、友人同士の関係、先輩後輩の関係、医師や心理専門家との関係、仕事上の人間関係など場面毎に生じる心の動きも考慮にいれなくてはならないでしょう。
心が育つのはとくに思春期以降と考えられますが、成人になってからも固定しているわけではありません。
耐えず変化し、不断に成長しています。
空に浮かぶ雲のように変化し、かといってつかみがたく、しかも形はあり存在は確かなのです。
その成長はときには退化し停滞していることもあります。
それが心の存在のしかたといっていいでしょう。

そのある局面を精神科医師の前で診断され、心理カウンセラーのところで追跡され、親しい友人のなかでの葛藤で磨かれたり削られ、親子のなかで温められあるいはひからびさせられるのです。
心の病なるものが医療機関(医師)だけで専門的に正しく評価され、治療されるとは思えません。
心理カウンセラーだけが癒し回復に向かわせるわけではありません。
心の動きが体内物質の作用をともなっているからといって服薬その他の方法で調整していけるとも思いません。
それぞれ役割はありますが、いずれにしても相対的であることは認めなくてはならないでしょう。

心の健康を保ち向上させるうえで、一番の要素は愛情という強い感情に恵まれることでしょう。
医師や心理カウンセラーに求められる親切さ、丁寧さ、受容性・・・は、愛情未満です。
カント的意味における権利や義務も広義の愛情ですが、家族や友人の愛情を超えることはできないように思います。
このような愛情に土台をおいた心の成長は、対人関係に欠かせない条件です。

それがいろいろな仕方で抑制され、歪曲化された人たちが、不登校情報センターのフリースペースにやってきているのです。
この前提で、フリースペースを対人関係に悩む人に開放し、心を育て、トライしていく場として利用に提供しているのです。
対人関係の中で比較的上下のないもの、比較的水平なもの、親しい友人関係に発展していけるものが、私には大事であると思えるのです。
自傷他害的な言動のなりやすい人にとっては、医療機関に継続して関わることと並んで、フリースペースも利用したらいいと思えるのは、このような理由からです。
医療の場で、心理カウンセリングの場での心の癒し、対人関係の完全回復は期待しない方がいいとさえ思います。
あるレベルまでの医療的対応を越えると、人間関係しかも比較的同世代間での人間関係が、その人の持つ自然の生命力を高めるのです。
それを医療的範囲の言葉で語れば自然治療力の発揮ということになると思います。
もし医療レベルで自己完結を望む人がいれば、それは一つのあり方として肯定できます。
しかし、世の中の対人関係に悩む人全体がその枠内にいればいいとは思えません。
そういう人にはフリースペースが必要です。

(3)なぜ体制の整ったところは受け入れられないか
私の考えるのが理念的に理想的なフリースペースであるとすれば、それに対応する環境条件が用意されなくてはならない、そういう意見があるでしょう。
「その通り!」と応えたいと思います。
しかし、その環境条件が用意されるとは何が整っていることなのでしょうか。
例えば、医療機関は一見条件がそろっているようでいてフリースペースそのものがない(できない?)のがほとんどです。
なぜでしょうか。
なぜそこに「理想的な状態」が生まれないのでしょうか? 
私はもしかしたら整っていることとは「理想的な状態」とは一致しない、少なくとも「理想的は状態」とは不完全であることの中にあると思えるのです。
条件がそろっているところ、別の言い方をすれば、「体制のはっきりしているところ」は、経済的にできているのかもしれません。
一方ではそれが安定的な継続できる保障になり、他方では、経済的にあわないことを初めから求めないから安定し、条件がそろう、となるような気がしま す。
フリースペースとは無駄があることが大事なのです。
その結果として、安定的に継続しがたい、ということなのかもしれません。

次の心理カウンセラー(教育相談や福祉分野も同じ)ではどうでしょうか。
医療機関よりも無駄の入り込む余地がありそうです。
フリースペースらしいものが成立しているところも少なからずある気がします。
そこの人たちは、では「理想的なこと」を考えていないのでしょうか。
少なくとも私のいう「理想的なこと」とは違ったことを考えている気がします。
もしかして私の「理想的なこと」が間違っているのかもしれません。
医療機関で述べたことをここでは繰り返さないでおきます。
「理想的なこと」でその他の点で私の考え方との差異は何か、なぜ違うのか、私にはうまく説明できません。
私は自分のできる範囲で、ことに対応しようとしています。
それは結局だれでも同じでしょう。

しかし私は「重い人」がフリースペースに入り、それに対応することは「できない」こととは思えないのです。
もちろん 「重い人」が同時に数人以上いたとき、私も「できない」と判断するかもしれませんが、まだ(いや、うかつにも)私はそういう事態になったとは思っていないのです。
もしかしたらこの感覚が、私は間違っているのかもしれません。
それが差異となるのかもしれません。
逆に、私はこのような「重い人」から、多くのことを学んできたという実感があります。
それがフリースペースを運営していく私の源泉となる意欲を高めています。
事態の理解を深めさせてくれている気もします。
これは本当です。
その反面で、この人はフリースペースに来ているけれども、私の関わり方のなかでは、前途が開けないと感じる人もいます。
そういう人(の家族)に対しては、私はそのことを告げることもあります。
告げたくても話していける条件のない人もいて、途方に暮れている人もいます。
それでも本人および家族が、それで了解しているのであれば、フリースペースに来るのを断る理由にはなりません。
そのような人を含めて、どのようなばあいであっても、基本的で最終的には本人の持っている生命力が決定的であると考えているからです。
話が少しそれていきましたので、戻しましょう。
論拠は不十分ですが、"十分に整っていないこと"が、フリースペースとしてはいいのではないか――これが私の感覚になるのです。
セットされていない、自分が何かをやろうとしなければ何も動かず、ただそこには時間が流れる場があるだけ。
ときたまある人が動き、自分が最終目的もなく何かをしてみる。
反応がある時もあるし、ない時もある。
自分が反応出来る時もあるし、反応出来ない時もある。
そこにとりわけ親切が存在するわけでもなく、攻撃が生じるわけでもない。
このようなじれったい場、ときにはいらつき、ときには退屈し、ときには無力になり、つい発奮もしてみたくなる。
そういう場、それがフリースペースなのだと思います。

(4)だから、受け入れる
以上が、「重い人」をフリースペースでは受け入れないと判断しない理由です。 同じ質問を逆にしてみましょう。 「なぜ重い人でも受け入れる」のでしょうか。 受け入れない理由が決定的なものでなければ、受け入れようとなります。
あえていえば、「どう受け入れるのか」が問われます。
重大な他害的な言動がなければ「よい」ということです。
その他害を感じる(察知する)基準は、雰囲気を敏感に察知している当事者の基準ではないと思います。
やや温和な目の人の感覚、繊細な感性を持つ人からみれば「あまり気がつかない人」の感覚が基準です。
たぶんそれは私自身の感覚と近いものなのでしょう。
なぜフリースペースの中心になる当事者の感覚が基準にならないのでしょうか。
私の観察では、そのような繊細な感覚を持った人十人すべてから合格を得る人がとても少ないからです。
わずかな感覚や雰囲気を段差と感じ、わずかな心理的な負荷を大きな違いと感じてしまう当事者にとって、対人関係の受け入れ幅が狭くなっているのです。
お互いに許容し合い、補い合い、融合し合いなが らも自分を保持していく関係が難しくなっているからです。
おそらく、だれかを"他害"発生者として除外してほしいと願う人がいたとすれば、その人自身は別のだれかから"他害"発生者として除外にしてほしい対象になっていることでしょう。
それを繰り返していくうちに対象者は"だれもいない"状態になるのです。
これはフリースペースをつくらない理由にはなりますが、私は、フリースペースをつくろうとしているので す。
NPO法人設立総会時の、活動交流会のときの意見交換をしてきたことを元に、私のひごろ考えてきたことを折り込んで、文章化してみました。
一つの試論であり、フリースペースの会則自体を新しくつくろうとするのではありません。

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