Center:2004年11月ー「身をひく」方法を選んだ人
「身を引く」方法を選んだ人
〔2004年11月1日〕
手紙を受けとりました。
手紙の差出人は、一度、情報センターに来たことのある男性、20代。
来たときの感想と、なぜ来なくなったのかの理由が書いてあります。
「ほとんどの方が、実際、素直で親切な人間なんだなと感じました。
それがわかるのは、自分も正直に生きていることと、今までたくさんの人たちと関わって生きてきたからだと思います。
ただ、自分がそう感じたからと言って、人から信頼を得るのは、大変なことであり、早々簡単には、いかない難しさがあるのも確かです。
そして、これは言うべきことでもないと思っていましたが、やはりというか、自分がそちらへうかがったことが気にいらない人間も約3名程いることに気付きました。
人間、誰でも好き嫌いの感情があるのは当然だし、価値観も人それぞれだと思います。
でも人が他の人間と話をしている最中に、当て付けに中傷している姿は、残念に思い、また、"こういうような場でもそういう人間がいるのか…"と、ちょっとガックリきてしまいました。
みんなは気付かなかったでしたが、自分はすぐ気付きました。
自分としては、充分な大人ではあるし、そちらでは新人なので、今回は静かに身を引いて、顔を合わせない方がこの場合、良いと考え、次回からはそちらへうかがうのを遠慮させて頂きました」
おそらくこのような人は多いと思います。
初めて来た人ばかりではなく、かなり継続して来ている人でも、そうなることは推測できます。
この人はすでに一つの結論を出していますから、それをどうこうすることはできません。
私はこれについて、次の点を考える材料にしたいと思います。
(1) 感性について
(2) その後の対応の二つの方向について
(1)まず感性について
「しゃべり場的学習会―10月度の報告」のなかで、10月9日の「自己表現とコミュニケーション」の様子を少し書きました。
そこに「コミュニケーションの3つの表現様態」として、(1)言語表現、(2)行動(身ぶり)表現、(3)情動(雰囲気)表現、がある。
とくに(3)の情動表現は、一般の人、平凡の人にはあまり関知されないけれども、引きこもりになる人にとっては、とても重要な要素です。
たぶん引きこもり経験のある人には、この事情はよくわかると思います。
言葉なきコミュニケーション、動きなきコミュニケーションの場が、そこに出来てしまうからです。
ただそれがいい方向に役立つのではなく、むしろ互いに牽制しあって動けなくなるように思います。
今回の手紙差出の人も、この感性の繊細さにおいても、まさにその面があらわれているように思えるのです。
「中傷している姿」に、「みんなは気付かなかったでしたが、自分はすぐ気付きました」というのは、半分当たり、半分は当たっていません。
この人だけでなく、多数の人が気付いていた、というのがより事実に近いと思います。
しかし、何をもって「中傷」とするのか、そこにもう一つの奥があります。
この点については『ひきコミ』第14号に、「傷つきやすい心の背景」として書いておきました。
感性が敏感である、鋭いということは、相手の無意識の反応のなかにある何かを感じとり、その正体を読みとってしまう力があります。
私はよくいいますが、この力は優れているけれども、不便になることはある、と思います。
気付かなければ(つまり平凡な感性の持ち主であれば)その人と平気で関わっていけるのに、そこで関わりが止まってしまうのです。
それは人間のもつ、いろいろな可能性、一人の人間にはいろいろな面があり、もしかしたらいまその場面では、微細な"否"感情を出している人にも、自分とはより大きな面で互いに助け合い、刺激しあう面があるのに、それと知らないまま、その途上・過程で、阻止してしまうことにもなるのではないかと思うのです。
====(2)その後の対応の2つの方向について====
今回の差出人は、「身を引いて顔を合わせない」方法を選びました。
前後の「感性について」の脈絡からすれば、私には残念な結論です。
しかし私にはこれをどうすることもできません。
そして"最悪"の選択であるとも思っていません。
おそらく「少なくともそこにおいても傷ついてしまう経験をもう一つ重ねる」事態を回避できたという点で、最悪ではありません。
私が、この事態でより望ましいと思える対応(?)―実は正解はありません、というよりも一人ひとりの状況によって違った方法が考えられるのです。
身を引く、というのもある人の状況によっては選択肢の一つです。
私が「もし可能ならば」してほしかったのは、「中傷している」人と、この人が何らかの意味、方法で声をかけあうことです。
そうすれば(そうできれば)、このような形での、無言のコミュニケーションに終始することによる、停止状態、心の停止状態、社会につながることの停止(方向の)信号…そういうものを前に動かしていく作用があると思います。
でももう一度言います。それは「もし可能ならば」です。
私がこういう時に感じるのは「少しの勇気」が必要だと思うことです。
私にすればそれは「少しの勇気」ですが、当人にすればそれは「清水の舞台からとび降りる」ほどの勇気なのかもしれません。
そのあたりの感覚は私にはわかりません。
「自分にできることをする」のを、この"勇気"の面で、自分で処理可能なところで、考えてみて下さい。
それは自分にとっての選択です。
自分にとって選択の過程がない(つまり、他者の選択のなかでしか自分が動けない)ことが、自立していない一つの証拠なのですから。