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Center:2003年10月ー引きこもりから社会参加へ

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目次

引きこもりから社会参加へ

〔2003年10月12日〕

はじめに

こんにちは。不登校情報センターの松田です。
不登校情報センターに親の会である「IINA(いいな)会」というのがありまして、月1回定例の会合を持っています。
今日は10月の第2日曜日で、親の会の日にあたります。
私は親の会の代表で、今までにいろいろな趣向の企画をたててきましたが、まとまった話を親の会のみなさんに向けてお話する機会がありませんでした。
たまにはまとまった話をしようと思っていたところ、今回のシンポジウムとぶつかりまして、今日は親の会と共催という形にさせていただくことになりました。
親の会以外の方でもし自分の子どもさんが引きこもり状態であれば、親の会の方にも参加していただきたいと思います。
ただ、不登校情報センターの親の会は2つありまして、「IINA会」と、もう一つは、訪問サポートをしている「トカネット親の会」もあります。
ちょっと複雑なのですが不登校情報センターには親の会が2つあるということです。
私が話す内容は「引きこもりから社会の一員へ」というレジュメをお渡ししました。
おおよそこれに基づいてお話をさせていただきます。

他に資料として、主に高等学校の「現代社会」の教科書代わりの参考書に当たるものなのです。
それの「青年期」について取り上げたページを印刷したものを渡してあります。
「青年期」というのは、10代の終わりぐらいから、最近では30歳ぐらいの人のことを指します。
そこでは人間にいったいどういうことが起こるのか、このテキストには簡潔にまとめられていて、今日の資料に丁度よいと思いました。
この本には、いわばオーソドックスな人間の成長発達を示していると思います。
「引きこもり」の人たちは「オーソドックスではない」わけです。
いったいどこが違っているのか、それを考えるために参考にしていただきたいのです。
しかし教科書通りという人もまた少ないのですから、教科書に書いてある通りではないからといってそう心配することはありません。
一番目が「大人になりたくない」、あるいは「大人になれない」。
いわば、引きこもっている人の現状評価です。
二番目が「社会性」についてです。
ここを一番詳しく話さなければならないと思っています。
三番目が「引きこもり期」です。
引きこもりがなぜ必要なのかです。
四番目が「居場所の役割」です。
社会参加の過程で求められる環境です。
五番目に付属として「家族の役割」についてです。

これらについて、順番にお話していきます。

大人になりたくない

まず一番目、「大人になりたくない」について。
これは引きこもりの経験者には「大人になりたくない」と考えている人の割合が、かなり高いのではないかと思います。
それから、「大人になれない」とか「子どもっぽく見える」とか、そういう人がかなり多いでしょう。
「なりたくない」のと「なれない」のとがあって、本人も区別がつかないのではないかと思います。
「なぜなりたくないか」あるいは「なぜなれないか」。
その背景はまず「大人に魅力がない」からです。
大人、特に親を見ていて「あんな苦労なんかしたくない。どうして大人は、平気であんな苦労をしてやっているのか」。
なぜそう思うのかというと、親は自分に対して「大人になったら大変だから、いまのうちにがっちり勉強しておきなさい」とか、「○○しておきなさい」とかを本当に一生懸命言っているんです。
「どうしてそんな苦労をして大人にならなければいけないのか」というような感覚が子どもの側に生まれるのだと思います。
これはかなりの人に見られるのです。

次の事情が肝腎です。 「大人になるということは、実は心が汚れることじゃないか」。
「平気で○○ができる」ということ。例えば「平気で無賃乗車ができる」とか。
「お金が落ちたのを拾っても交番に届けなくても平気」とか。
そういう「平気で○○ができる」という感覚に対する嫌悪があるのではないかと思います。
これはすごく特徴的だと思います。
私もこの基準からいくと、「おかしなこと」をいっぱいしています。
朝8時にゴミの回収があるのに間に合わないから、夜のうちに指定のゴミ回収置き場にゴミを出すなんてのをやっています。
こう見ていくと、実は引きこもりの経験者も無意識のうちに「ある程度のおかしなこと」はしているんです。
ただし、意識した場合は、あるいは意識せざるを得ない場合は、かなり避けていると思います。

例えば、不登校情報センターでは、玄関に10円落ちていたというようなことがあると、それが誰のものかよくわからない場合は、それが自分のものでない限り、よく私の元に届きますね。
なくなる心配というのが本当にないのです。
自分のものでなければ持っていかない。
10 円くらい、いいんじゃないかと、私なんかはふっと思ってしまうんですけれども、そういうことができないし、嫌なんですね。
できないだけじゃなくて、嫌なんだと思います。
そういう純粋な気持ちがあるのではないか。
それに比べて大人になるということは、そういう変なことを平気でやってしまう。
そういう人間になりたくないという気持ちがどこかにあるんじゃないかと思います。
それは「純粋性を持ち続けたい」ということなのです。

よく考えてみると、小さい子どもはそうですね。
小さい子どもは10円拾ってもちゃんと交番や大人に届けますよね。
それと似たような状況が10代の後半になっても、20代になっても、もしかしたら30代になっても心の中にあるのではないかと思います。
これが「大人になりたくない」という一面です。

もう一つ、レジュメの下の方に括弧書きで「中性的」とあります。
意味がわからない人もいると思います。
人間は子どもからに大人なっていきます。
その大人になる前に実は子どもから男になるのです。
子どもから女になるのです。
その後で大人になるのです。
ところが、「大人になりたくない」、そういう意識や気持ちがあると、長い時間をかければ体の成長もそのように反応します。
長い時間をかければ。男性なら自分は大人になりたくないという前に「男になりたくない」ような気がするんです。
女性の場合なら、大人になりたくないの前に「女になりたくない」ような気がするのです。
それが中性的になるんです。
はっきりそのように言う人もいますし、なんとなく「男なんだけれども、女っぽい」とか、「女のはずなんだけれども、男っぽい」とか、そういう中性的な感じになります。
体は年とともに大きくなりますが、意識が出口をふさいでいる。
その出口をなんとかこじ開けようとすると、中性的という出口になるのではないかと思います。

依存と子ども返り

二番目の「社会性」についても、「大人になりたくない=子どもである」ということが、いろいろな意味で影響を及ぼしていると思います。
一つは「依存」です。
例えば、小学校低学年くらいの子どもであれば、子どもは親の影響の中で、いわば親が産んできた勢いで生きているんです。
ところが思春期の後は、親の力ではなく自分の力で生きるという、いわば「ギア・チェンジ」をします。
ところがそれがなかなかうまくできない。
「依存」というのはそこに関係するのです。

私は最近、「魔女の宅急便」というアニメ映画を観まして、「この映画はまさにそれを描いたんだな」と思いましたね。
キキという少女の魔女が、それまで普通に意識もしないでほうきにまたがって空を飛べていたのに、あるときから飛べなくなった。
最終的には自分の力で飛べるようになるのですけれども、そのときに重要な役割を果たすのが友達なんですよね。
そういうことを描いている映画です。

「ギア・チェンジ」=親から生んでもらって、親の力でできたことが、自分の力で生きていかなければならない。
それは子ども性を抜け出すということなんです。
言い換えれば、親への依存から自分の力で自立していく道をたどるということなのです。
引きこもりになっている人の多くは、実は小さい頃の依存経験が少ないんです。
思春期になる前に依存ができる。
例えば学校から帰ったらいろいろなことを親にしゃべって、そして親が「どうしたの、こうしたの」といろいろ無駄話を聴いてくれる。
そういう経験があると、子どもはどこか安心できて、自分なりものものを伸ばしていけるのです。
親は早くから依存しなくて早く自立したらいいと考えたのかもしれません。
そういう経験がなくて「それがどうしたの」「そんなことより早く宿題しなさい、明日の予習をしなさい」「塾の時間がもうすぐでしょ、早く行きなさい」と、そういうことがずっと重なって、親への依存経験が少ないまま大きくなったのです。
そうすると、依存から離れようとする時に、離れきれなくなるわけです。
それが「依存できた経験がない」=「子ども時代がない」という結果になると思います。

私はこの「子ども時代の欠如」を補完しなければならないと思います。
10代であろうと、20代であろうと、30代であろうと。
そこのところでいろいろと葛藤するわけです。
私の最近の感じでは、依存させてあげた方がいいかな、と思っています。
10代の後半とか、20代になった人が、親の布団の中に入ってくるとか、いわゆる子ども返り、そういうことを私は認めた方がいいと思います。

それは、小さい時にそういう経験が少ない、なにも布団に入る方法が全てじゃないけれども、子ども時代がなかったそういう子が大きくなってから子ども返りの欲求が出てくる。
そういうのは受け入れて欲しいと思います。
こういうことは、親でないとなかなかできないです。
親以外にできるのは、「信頼できる人」です。
ただ「信頼できる人」といっても本当はなかなか大変なのです。
例えば、私が知っているのは20代になっても「おんぶしてほしい」。
そういうのもあるんです。
でもなかなかそう簡単にはおんぶできないです。
20歳になった彼や彼女をおんぶして、街の中を歩けるのか。
すっかり暗くなって人通りが絶えたらやろう、そう思えるのは親か信頼できる人でしょう。

そういうことも含めて補完するということです。
信頼できる人がいれば、おんぶであるとか、だっこであるとか、そういうのとも違う、安心して自分のことを、少なくても子ども時代の、いわば恥ずかしい話ができるようになるのではないかなと思います。
親や「信頼できる人」がこの依存をどの程度受け入れられ、実行できるのかはそう単純ではありません。
それを率直に受け入れられれば問題はないです。
しかし、体力、精神力だけでなく、社会生活条件などいろいろなことが関ります。
そこで「枠をつくる」という方法をとるわけです。
しかし私は「枠をつくる」ことだけが対応ではない、その前に依存を受け入れられるなら受け入れていい。
それができないときに、枠をつくる方法が求められると考えたいと思います。

社会性を伸ばす

そういう状態があって「社会性」の話に入ります。
私は「社会性」という言葉は、去年くらいまではあまり使わなかったんです。
それまでは「思春期」と「反抗期」という言葉はよく使っていました。
去年のことですが、国語辞典を開いて「思春期」の項目をあらためて読んでみました。
どういうことが書いてあるかというと、「体が成長し、物に感じやすくなり、特に異性に対する関心が強くなる年ごろ」(『新明解国語辞典』三省堂)と書いてあります。
私にとっては、教育雑誌の編集者をやっていたときに学んだ「思春期」とは意味が違うんです。
思春期にはもっと広い意味があります。
単に体の成長があって、異性に関心を持つということではありません。
思春期というのは、社会的ないろいろな意味があるのです。
ただ私が、思春期ということで話をすすめると、国語辞典には書いていないことをイメージして聞いてほしいということになります。

それで「社会性」という言葉を使うようにしようと思ったのです。
「社会性」というのは、社会のいろいろなことをわかっていくということなのですけれども、これをどう学ぶのかいうと、実は学校の教科書で学ぶのではありません。
教科書で学ぶこともあると思いますが、それはほんの付け足し程度です。
何で学ぶのかといえば、友達との関係から学ぶのです。
それがさきほど話しました、子ども時代の子どもらしい生活です。
羽目を外すとか、いろいろな失敗ができるとか、そういうことです。
そういう経験をしていると、人間関係をつくりやすいのです。
社会性を身につけやすいのです。
ところが、それがないということは、小さい頃から知識偏重となるように思います。
例えば教科書の内容をしっかり勉強してさえいれば、社会でも十分通用する人間になれる、そう仕向けられていって人間自体に触れていないのです。

人間をどこで学ぶのですか。
理科で学ぶのですか。
小学5年の理科で「人間」という単元があるのですが、そういうところで人間を学んだとしても、社会性を身につけるうえでは、ほとんど意味がないのです。
生物学としては意味があります。
自分が生きていくうえでの人間学習は実際に目の前にいる、あるいは横にいる人間と関っていくということです。
小さい子どもだと、それにあたるもので最もいい方法は「けんか」だと思います。
でもいまの親御さんは、けんかをさせないですね。
けんか=悪いことなんですね。
でも、本当にけんかをするのはいけないのですか。
私たちが小さかった頃は、「けんかをした子ども同士はすごく仲良くなる」とよく言いました。
今は死語かもしれませんが。
そういうことを聞いたことはありませんか。
私ぐらい年の人間ならたぶん聞いたことがあると思いますが。
最近は「けんかは悪いことだからさせないほうがいい」と聞きます。
でも、子どものけんかは人間学習なのですよ。
どこをどうすればあいつは泣くとか、自分に対して本気で向かってくるとか、逆にあいつはこうすると嬉しがるとか、そしで仲直りの仕方とか、そういうことを学のです。
そういう機会がなくなってしまっているのですね。
子ども時代があるからこそ、そういうことができるんです。

子ども時代とはなにかと言えば、一つの面は「親の目から離れたところで子ども同士が自分たちの時間を持っている」ということです。
今の世の中はそれができにくいのです。
ずっと親が子どもを見ていますよね。
あるいは誰か大人が見ている。
学校の先生の間でもけんかということがすごく悪いということになっている。
いじめよりもひどいということになっているのではないでしょうか。
いじめとけんかの区別がなくなっているのかもしれません。
そういう人間を知ることが社会性の前提にあるのです。
その前提がないと結果がどうなるかというと、典型的な例を挙げれば、「味方でない人間は敵に見える」のです。
人間は味方か敵かになる。
あるいはこれは「完璧性」と同じなのです。
ぜんぶきっちりやらないと気がすまないか、まったくやらないか。
ともかく両極端にいきやすいのです。
全てか無か、敵か見方か。
そういう格好になる。
何かお互いにやりあって一緒に何かを作るとか、折り合うとか、妥協とか、そういうことがやり辛くなっている。
なぜそうなっているのかの背景をみると「認められてこなかった」「受け入れられて来なかった」「誉められたことがない」という子ども時代があり、しかも多くはいまもその状態がつづいている。
子どもに対して「まだ足りない」とか「もっと○○しなさい」とか、こういうことが多いように思います。

私が知っているなかで「驚いた」というかわかりやすい例を挙げましょう。
学校の成績がすごく優秀な子で、今はある国立大学にいっている人なのですが、その子はテストで95点とると、「どうしてあと5点とれなかったんだ」と親にいわれたんです。
成績はクラスでトップなのに。
どうしたって誉められないのです。
100点とったらもう安心かというとそうではないんです。
「この町で100点とったのは何人いるんだ」と、こう言われるんですね。 できたから誉められるとか、できなかったから誉められないとか、関係ないんですね。
確かにできない子は誉められる機会が少ないことは確かですが。

これが例外かと思って、ある講演会でこの話をしたのです。
そうしたら聞いていたあるお父さんが、私もそうしましたと言っている。
例外ではなさそうです。
子どもの方は、誉められたことが全くないということはなく、少しくらいはあると思うのですけれども、記憶の中にはないのです。
親にしてみれば「あの時はあんなに誉めてやった」と思っているかもしれませんが、子どもにはその意識にないですね。
ずっと叱られていますと、たまに誉められても記憶に残らないのです。
だから「自分は全然認められてこなかった」とか「誉められてこなかった」とか、そういう気持ちになっていくのだと思います。
こういう感じが子どもにあると、自己否定感が強くなってしまうんです。
いつも自己否定感がある子になる。それからもう一つは受け身になります。
両者はどこかでつながっているのだと思います。

受付でこれをもらった方もいると思いますが、「引きこもりの高いプライドを考える会」という冊子を、不登校情報センターに通っているI君というのが作りました。
これを見ると体験談が書いてあります。
この体験談は分かりやすいです。
どうして自分が自己否定感を強め、受け身になっていったかという歴史みたいなものが書かれています。
受け身や自己否定感の表れ方は一人ひとりが違います。
I君の場合は、「引きこもりの高いプライドを考える会」という形でそれを示したのです。

人への安心感

典型的ともいえる「味方でないと敵に見える」という感覚が引きこもり経験者のなかでどう表れるのかをみてきました。
それがどうなればいいかを次に話します。
「人として付き合っていくなかで人の多様さ、個性、距離の取り方、折り合いのつけ方、そういうのを身につけていく」ことです。
最初から敵であるということは、付き合いが始まらないということなんです。
この人たちの多くはまずもって、味方であるということを確認したいわけです。
そうすると、まだ関係が始まるかどうかのうちに「自分のことを認めてください、承認してください」というような感じで迫ってくるのです。
そうなると、相手にとっては、初対面の同じ世代の人からそうされるのはすごく重たいのです。
まだお前のことを知らないのに、どうして受け入れなきゃいけないのだ、と感じる。
「付き合っているうちに、そのうちわかるじゃないか」そういう感覚が必要なのです。
これはごく当たり前なのですけれども、でも相手が自分を認めていると確認できないと不安なんですよ。
まず自分のことを否定しないでね、とにかく私のことを見ててね、という根強い願望があって、それで、「いいよ、O.K.だよ」というサインを自分なりに確認できたら、なにか始めていこう、となります。
「まず付き合っていこう」という感覚になるには、ある程度時間がかかるのです。
最初そういう依存されてきた時に、「O.K.だよ」というサインを出せる人、これが先ほど話した「信頼できる人」という可能性をもった人でしょう。

カウンセラーは職業的にわかっているからO.K.するんです。
ただし信頼できるかどうかはそのときは関係ないのです。
カウンセラーではなくて、同世代の人であると、もっといいのでしょうね。
そうなるためには人間に対する一般的な安心感が前提になるのですよ。
小さい頃に親に依存してきた経験があれば、人間に対する一般的な安心感が生まれるのです。
しかし親から常に叱咤激励され、あるいは何か言うと常に拒否された経験が強いと、人間への安心感がないのです。
なかなか人への安心感がもてなくて、そうするとごく少数の、自分のことを受け入れてくれた人でないと、人間関係が始まらない、となっていくのだと思います。
「敵でもなければ味方でもない」という人が実際には多数を含めます。
そういう感覚をどう育てていくのかと。これが実は「社会性」を育てることの中心的な問題だと思います。
中心問題なのです。
社会に入っていけるのは、そういう感覚なのです。
とりあえず、まだよく知らなくても人間として尊重できるという気持ち、感覚、それがあることが、社会に入っていけるとことなのです。
「味方か敵か」という気持ちでは、非常にびくびくした状態になります。
なかには対人恐怖とか、警戒感がひどく強くなるとか、人間不信となっています。
それをなくしていくことは、人間に対する安心感を育てていくことなんです。
それをつきすすめていきますと、実は自分に対する安心感があることになるんです。
最終的には、自分自身が信用できるのかというところまでいきます。

引きこもり期とは何か

そこで、「引きこもり期」とはなにかに入ります。
私は「ひきコミ」の最新号である第19号にこのことをまとめて書いておきました。
人間の発達は、乳幼児から幼児を経て思春期へ至る。
思春期の終わりには反抗期がある。
そして、青年期を経て大人になる。
ところが、引きこもりのひとには子ども時代がない、それに反抗期がないのです。
反抗期はあったとしても「あったような気がする」程度で意識が薄いのです。
言いかえますと、人間は反抗期を通るからこそ自立できるのです。

反抗期とは親に対する反抗です。
それは、親を低く見れることです。
親を低く見れるから親離れができるのです。
だから親に対して、すごくいろいろなことを、刃向かって言うのです。
私もいろいろ子どもから言われた経験がありまして、そのころはすごくおもしろかったです。
親は、親を馬鹿にするとは何事か、と言ってしまったりするのですが、反抗も見方によってはとても面白いと思います。
そういう反抗を、人間としてとてもいけないことだ、道徳律に反することだという格好で押さえてしまいますと、反抗さえもできなくなってしまいます。
ところが、引きこもりの人となりますと、反抗心自体がどこかで摘み取られているものですから、反抗期がないんです。
反抗期がないということは、実は自立する、大人になることが難しくなっていることなんです。
私なりの感覚で言いますと、そういう人が無意識のうちに見つけ出した自立のための方法・手段、あるいは期間、それが引きこもりなのだと思います。
ですから、反抗期がない人が自立するためには、むしろ引きこもりはあったほうがいいと思います。
むしろ、反抗期も引きこもり期も両方ないとさらに心配ですね。
反抗期もなければ引きこもり期もない、どうするんだと考えてしまう。
詳しくは「ひきコミ」第19号の、引きこもり期とはどういうことかを読んでみてください。

居場所の役割

ここから、不登校情報センターの「居場所」の話をします。
実は、社会の一員というのは、いろいろな段階というかレベルというものがあります。
社会の一員という言い方自体が私からするとだんだん降りてきた言い方です。
最初はそれを意味する言葉は「仕事に就くこと」でした。
5年くらい前に、そういう取り組みもしたのですが、うまくいかなかったのです。
その次が「社会参加」「社会復帰」です。
そういう言葉を使うようにして、今も使っています。
さらにもう一段降りて、「社会の一員として生きる」という言い方をいまはしています。
それは、就職をして職業に就くことも含むけれども、それだけではないよ、という意味があります。
不登校情報センターにはいろいろな取り組みがあります。
「居場所」というのは、引きこもり経験がある人たちが集まるフリースペースというか、当事者の会というか、そういうものです。

これには3つの段階にそった役割があります。
いろいろな「居場所」があちこちにできていますが、きっとどこでもこの3つの面はあると思いますが。
1つは「外出先」です。家から出たときの行き先です。
引きこもり状態にある人は、私が聞いた範囲での行き場所は、本屋、図書館、CDショップ、近くの公園、コンビニ、あとはカウンセリングへ行っている人はカウンセリングルーム、親戚の家、美術館…あたりです。
どの場所も自分一人で静かに居れる場所なのです。
人は居ても関わらなくてもいい場所。
「居場所」というのは、まず外出先であるということが前提ですが、その上で「同世代の人と話せる場」です。
これが2番目です。

3番目が「収入につながる活動」です。
「収入につながる活動」というのも私なりにこういう表現に行きついたものです。
職業訓練とか、仕事の練習とか、いろいろ言っていたのですが、そういうことは他の人がやってくれるだろう。
しかし、引きこもり経験が長くなった人は、その前にもっと着実にやらなければならないことがある、それを経験する必要がある、というので「収入につながる活動」という言葉が出てきました。
「行き先」の話に戻ります。

私は1か月ほど前、医療や福祉関係者の人たちと話をする場がありました。
そのとき感じたことなのですが、そういうところは病的な状 態の人が多いのです。
場所によるのですが、少なくても6割強、多いところは8割か9割が病的な人です。
例えば病院のデイケアも、医療機関がつくっている当事者の会というのはそうなりやすい、ならざるを得ないのです。
不登校情報センターはそういうことは感じないです。
まったくないということはないんですけれども、多くて2割くらいだと思います。
全体としては病的には感じないのです。ですから、ある意味では楽です。
その会合の時にある人が言ったのは、「不登校情報センターという名前がいいんだ」と。
病院に来るとなると、はっきり病状が出てきた人でないと、来れないのです。
では病状までいかない人はいったいどこへいくのかというと、実は行くところがありません。
去年(2003年)、厚生労働省が、引きこもりに対して保健所で対応しなさいと通達しました。
しかし保健所での対応はそこまでは届いていない、「居場所」にはならないんです。
保健師さん対当事者、あるいは当事者の家族、という関係はあるけれども、経験者同士が集まって話をするというのはなかなかなできないのです。
できるまでに時間がかかると思います。
不登校情報センターは「居場所」をつくって7年ほどになります。
7年かかってここまで来た。
意図的にこうしようとしてなったのではなく、こうなっていくしかなかったのですが、ともかくゆっくり時間をかけてこうなったのです。
ですからどこかの保健所がそれをやろうとしても、1年や2年では無理でしょうね。
3年かければできるところもあるかもしれませんが、ともかくできにくいでしょうね。
それが「居場所」の性格だと思います。
不登校情報センターの居場所には、親に内緒で来ている人もいます。
私はいいことだと思います。
実際、親とけんか状態の人もいます。
内緒ではないけれども、家に居ずらい、だから逃げる先ですね。
逃げ先としての役割です。
これも広くは「行き先」の役割に入りますが。
そういう役割があるのではないか思います。

それから2番目の「同世代の人と話せる場」についてです。
先日、NHKで「ヤイコのライブ&トーク」というのがありました。
若者に人気の女性歌手であるヤイコ(矢井田瞳)さんのライブ(コンサート)に引きこもり状態の人だけを集め、トークもしようという企画です。
引きこもり経験者が80~90人くらい招待され、そこに情報センターからも十数人が行きました。
この企画を聞いたとき、私は「よくこんなことをするな、本当に引きこもりのことを知ったうえでこんな企画をたてたのかな」と心配したんです。
というのは、引きこもりの人は、いってみればのりが悪いですから、ライブはともかく、トークがいったい成立するのか心配していたわけです。
ところが、あとで聞いてみると、発言者がすごく多かったということです。
「ここぞ」とばかり発言したという感じだったそうです。
私の心配はそこでは当たらなかったのですが、その一連の成り行きを聞いた時に気づいたのです。

情報センターに来る当事者も、最初来て、少し元気が出て来た時に、話したがるのです。
つまり自分のことを聴いてもらいたいのです。
そういうことをすごく要求してくる。
聴いてもらえる場があれば、話したいのです。
それはまるで、堰を切ったように話をしたがるのです。
個人差は ありますが、10回くらいそういうことをしますと、肩の荷が下りるのか、ちょっと落ち着く、少し静かになるのです。
他の人にいろいろしゃべったことを少し 反省してみるのです。
自分はこんなにしゃべりすぎてよかったのだろうかと。
それでちょっと落ち着くのです。
そういう自分の話を本気で聞いてもらえる場、そういう役割があります。
精神科のデイケアと居場所との違いは何でしょうか。
情報センターに来ている当事者にも、精神科デイケアへ行ったことのある人がいます。
その人にとっては、そこはとても合わないものだったと言います。
あそこは駄目だ、自分の来る場所ではない、そう感じて情報センターにやってくる人がいます。
私は、精神科に行く必要のある人もなかにはいると思います。そういう役割が優先する人もいると思います。
特に身体状態で、眠れない、食べれない、それから医療的な対応が必要な人はもちろんそうなんです。
それは、肉体的状態の改善なのですけれども、心の問題はやはり同世代の人との接触なんです。
同世代である程度元気な人もいて、自分と同じ程度の人もいるし、まだ自分とは違う程度の人もいる。
縦に一直線に並ぶでもなく、いろいろなバラエティーに富んでいる。
そういう環境は、なにかと話しやすくて、自分が成長できるような気がする場ではないかと思います。
それがこの話し合う場としての居場所です。

先ほど言いました『現代社会』の「青年期」のコピーの中身、実はこれは引きこもりであろうとなかろうと、この10代後半から私たちの世代では20代前半、あるいは今の時代なら30代前半くらいの人たちは、そういう場を求めているのではないかと思います。
どうでもいいことと いったら語弊があるかもしれないけれど、ともかく結論が出ないようなことを一生懸命しゃべって、それで「今日はいったい何を話したんだ」と。
「泰山雷動鼠 一匹」みたいなことです。
そのことについて自分は世界的権威みたいな大袈裟な話をして帰るんです。
結局はたいしたことはないのですが。そういう経験を重ねているんです。
私の経験でも学生時代なんてそうだったような気がするんです。
夜中に友達の下宿に押しかけて行ったり、 押しかけて来られたり、いろいろな話をした体験です。
思い当たる節がある人は多いと思います。
今の若者はそういう体験ができないのです。
それを現代的に、年齢も少しずれて、時代感覚もやや違うでしょうが、それにあたるものを引きこもりの人たちはこの居場所でやっているのだと私は思います。

彼らはとても真面目な話をしています。
もちろん異性問題なども出てきたりします。
私が街中で見る、きゃーきゃー言ってるような若者よりも、彼らの話はよっぽど内容があります。
それをやっているんですね。
そこに私は意味があると思います。
そういうことを通して「自分を知る」のです。
自分探しを同じ世代の人との交流を通してやる。
それが社会性を身につけていく内容の第二歩目といえるのではないかと思います。

収入につながる活動

三番目は「収入につながる活動」についてです。
5年くらい前は、就業や仕事をすることを考えていて、いろいろな雇ってもらえそうなところにお願いに行ったことがあります。
この人は引きこもりの経験がある人だから、そちらで面倒を見ていただけないかと。
研修とかアルバイトとか実地体験とかいろいろ協力してもらいたいと約束をしたのです。
しかし、そういうやり方は合ってないことを私なりに感じました。
いま他の団体や人で取り組めば、もっとうまくやるかもしれないし、やり始めているところもあります。
うまくいってほしいと思いますが、私達は、人任せでは無理だと思いました。
私がわからないこともいっぱいあるので、私が手を出せる範囲で始めてようやく形にできたところです。
いや、まだできたとまでは言えないかもしれません。
去年の春、「あゆみ書店」を開きました。
秋に「あゆみ仕事クラブ」を作りました。
本当のところ、「あゆみ仕事クラブ」も「あゆみ書店」も大した事はありません。
あまりにもお客さんが少なくて、やめようかと思っている人もいると思います。

「あゆみ書店」と喫茶「IINA」は、当事者の会(居場所)を土台で支えているのです。
そう考えると、やめる意味がないのです。
それらが営業していることで、情報センターの居場所に来やすい雰囲気ができていると思います。
去年の秋に「あゆみ仕事クラブ」をつくったのですが、なかなかうまくいきません。

継続的にできているのは、ポスティングです。
毎月3回、地域情報誌と地域新聞を近所に配っていて、これが合計月額4万5千円くらいです。
参加者が1回につき平均7~8人くらいで、それを一人頭で割ると月額3000円~5000円です。
必要なのは継続的な繰り返される仕事です。
それでいま具体化しようとしているものが編集と制作と製本です。
今のところ「ひきコミ」第19号を作ったところです。
みなさんの手元には情報センターのニュースがときどき届くと思います。
学校案内書が同封されていることもあると思います。それが「あゆみ仕事クラブ」の大きな収入源なのです。
それは学校から発送費をもらっているのです。
発送作業をして、その作業をした人でその費用を分けるのです。
ただこれは年に2回しかできなくて、この前は9月にやりました。
その分とポスティングなどで参加した当事者への支払いの合計月額が32万円くらいです。
それを30人くらいで分けるので、平均すると1万円です。
少ない人は数百円、3万円以上が2人いたのです。
これが「収入につながる活動」です。
まだ心細いです。

私は一昨年、こういう「収入につながる取り組み」をやろうと言った時に「1人いくらぐらいを希望するか」と当事者 に聴いてみたのです。
1人当たり10万円くらい収入があったとしても、東京あたりでは一人暮らしはできません。
そうだろうなと思いながら聴いていると「小遣い程度でいい」という返事がありました。
とすると3万円くらいでしょうか。
小遣い程度かもしれないし、とてもそこまでいかないかもしれない。
でもそれをだんだん増やしていけば、小遣い程度にはなる、そうなっていくのではないかなと思っているところです。
それは社会参加、社会の一員として生きることと同じではない、イコールではないと思います。
特に10代後半から20代前半の人は、就職や常勤アルバイトの形がいいと思います。
20 代後半から30代になっても、当然そういう形もあり得ると思います。
ただ、そういうことは世の中が対応してほしいものであって、私にできるのは、そこに 入っていけない人たちの最後の受け皿といっていいか、そういうものをつくりたいということです。
これが「社会性」を身につける第三歩となるのかもしれませ ん。

家族の役割

最後に家族の役割についてお話します。
20代以上の子どもさんは、もう子ども時代は過ぎていますから、子ども時代を繰り返すということはできません。
ただ補完はできると思います。
それの第一は「依存」、子ども返り、それを認める、受け入れることです。
これはできるはずです。
それにはいろいろな方法があって固定した正解はないと思います。
たぶん失敗もあるでしょう。
やり過ぎもありです。
そうでもしないと、どこらへんがいいポイントを衝いているのかもわかりません。

私もいろいろやっているつもりなのですけれども、やり過ぎたなとか、それはちょっと出来るわけがないだろうとか、いろいろ考えながらやっているつもりです。
「依存」は必ずしも否定できないと私は思っています。
そういう場がないと、うまく依存から抜け出せないと思います。
父親が非難の的になる場合が多いのですが、私も父親の気分はわかるのです。
よくお父さんは子どもさんに「結論を言え」とせまります。
父親として、そう言った記憶のある方もいると思います。
「お前は、あれこれあれこれと話すけど結局何が言いたいのだ。結論を言ってみろ」、こう言いやすいですよね。
男ってだいたいそうなっているものです。
それはつまり「お前の考えを言え」ということです。
それは子どもに自立を促す言葉なのです。
お前の考えでよければ父親として何も言わないし、どこか違うと思ったら意見を言うよ。
父親はそういうつもりなのです。
その父親の意見というのは、だいたいにおいて細かくはなく、寛容でしょう。
ただ、これは引きこもりを経験した子どもの実情に合っていないのです。
子どもはこういうことを言われますと、「うちの親は聞く耳を持たない」と受け取ります。
子どもさんは小さい頃からいつもそうされたのではないでしょうか。
それは受け止められてこなかった、それとこれとは反対のことです。
受け止められた人は、この十代の中ごろに転換でき、自立に向かうのです。
2番目は子ども同士の世界を認めることです。
子どもといっても、10代後半から20代、30代になっています。
それでもそういう世界が必要であり「居場所」に行けるようにして欲しいです。

最近、交通費があらためて問題になっています。
ここに来る人には片道の交通費が千円越えるという人もざらにいるわけで、2千円越える人もいます。
親が年金生活に入っている場合などは、交通費の制約で動きたくとも動けないのです。
子どもの世界を認めるという話ですが、こういう条件では認めたくとも認められないのと同じです。
私は昨日、この問題を新聞に投書しておきました。
交通機関に引きこもりへの社会的支援策として出していただけないかと。
うまくいくかどうかわかりませんけれど、半年後くらいにはどこかからもらいたいですね。
できればJR東日本から(笑い)、なんらかの方法で…。
こういう話をすると、いつからもらえるのですか、明日からはムリですかという方が必ずいるのですが(会場・笑い)、いくらなんでもそれは無理です。
これは社会運動なのですから。

次は就業についてです。
正社員、就職と言わないと思うのですが、それは基本的にはもともと無理です。
いまは大卒や高卒の新卒者が正社員になるのも大変なのです。
そういう世の中で、「正社員にならないと働いたとは認められない」と言われるわけです。
これは親というよりも大人全体の責任ですよね。
「就職できるような社会にせよ」といいたい。こういうことではないでしょうか。
ただ引きこもり経験者には、正社員就職の道が開かれても、おいそれとは乗れないところがあります。
いま私が言いたいことは、正社員就職の道が若者全体に閉じられてきている。
それが正社員就職ではない、パートやアルバイト、などの非正社員の形で就業して社会の一員になってみる、試してみることさえも難しくなっているということです。
時間の都合で、いろいろ端折ったところもありますが、以上で私の講演を終わらせていただきます。
ありがとうございました。

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