不登校情報センター > 不登校・引きこもりとその支援に関係する調査と集計 > 家族の手紙(返事)に見られる不登校・引きこもりのその後
私の子どもではなく私の甥が中学一年の十一月から不登校になり、二年になり五月まで行ってその後三年はほとんど行かずでした。その間弟から相談を受け、いじめが原因とかで転校でもと言ったこともありました。卒業の時その後をどうするかで朝日新聞で拝見して情報センターから本をお送りいただき、弟夫婦に渡し、その後の資料も渡してきました。
高校は単位制のところに一年の六月まで行って、その後はほとんど行かなくなっていました。とじこもるようになり家庭内暴力なところが出てきて、今は落着いているようです。
今も通っていれば今度三年生になれるのにと思ってしまうのです。義妹も、学校よりとじこもりから解決していかなければと、諦めてしまっています。
私の子どもは女の子二人。高校の時、下の子が赤点を取ってきた事もありましたが、二人とも成人して不登校もせずでしたのでいろいろの資料を見て参考にしてきました。本人次第という気がするのです。
自分の子どもではありませんので何とも歯痒いのですが、最近は本人とも会う事もありませんので難しいですね。
わが子も高校を退学させられた頃は途方にくれました。大検を自力で受け、20歳になった頃から働き始めました。大好きなガンダムやウルトラマン等々のフィギュアを売る有限会社です。お店に行ったり通販の処理をして、副店長として頑張っております。
三年ほどはひきこもりに近い状態でおりましたので、その頃は送って頂いたものが私共の心の支えになっておりました。ありがとうございました。
高校一年の五月から不登校になり一年間“ひきこもり”状態でした。その後大検、英検を受験し今は県内ですが1人でワンルームに入り、大学2年目を終えようとしております。
一年目は他大学の再受験を考え、ほとんど単位を取っておりません。融通のきかない性格です。私共もだんだん慣れて・・・今は見守るだけです。子どもを信じるしかないと・・・。
私は五年ほど前に、息子のことで情報センターにお話を聞いていただいた者でございます。その節は、本当にありがとうございました。
息子が中学二年生の頃から、学校、先生との関係がうまくいかず、生活も荒れ、出口の見えないトンネルの中にいるような毎日で、家族皆つらい思いをしておりました。
息子はなんとか都立高校に入学したものの高校一年で退学してしまいました。学ぶことの大切さを根気よく話してきかせ、予備校に通い大検を受け、今は大学生として学校に通い、バイトも頑張っております。
息子も落ち着いてきて、今年は私たちの銀婚式を娘と一緒に祝ってくれました。ようやく「長いトンネルから出られた」感じがしています。
本人は家は出たいが東京から離れたくない思いが強く、友達の何人かが公立高校の定時制に行くこともあり、四月から通い始めております。定時制ということに親である私どもも抵抗がありましたが、四年間頑張ってくれればこれからの自分の人生に何かしら糧になるのではと思うようになりました。勉強することが嫌いで楽に愉快に人生を過ごせたらいいと思っているのでしょうか。高校に行かなくなった時ははがゆくもあり、とまどってしまいました。
二か月過ぎた今何とか仕事と両立しながら少しずつ落ち着きをとりもどしたような気が致します。
きっと苦労していらっしゃるであろう先生方に恵まれ、上級生にスポーツを通じての楽しさを思い出させてもらったようで野球やバスケットボールの練習に励んでおります。
全日制のクラブ活動と違ってそれほど厳しくもなく叱られることもないので、のびのび楽しめるのではないでしょうか。
まだまだ心配なことや気がかりは沢山ありますが、中学生の時スポーツをやっている時は感動するような集中力をみせてくれました。ある私立高校では体力的にも運動センスにも差をまざまざと感じたのでしょうか、それに近づけるよう努力もしないで挫折したのでしょう。
自立したいのなら親を悲しませないような自立をしてくれたらよかったのですが、本当に不肖の息子です。情報センターで普通ですよとおっしゃっていただいた言葉に慰められました。
働くこともいやではないようです。それだけでも一つの安心です。親である私どもも一つの反省として子どもを見守っていきたいと思っております。
5年前息子が高3の2学期に不安定になり県主宰の集会に参加致しましたがその後、その年度の3月に学校を卒業して大学に入りました(東京)。
大学は第1希望ではありませんでしたが同好会に入ったり外国に行ったりと・・・バイトなどをしていろいろ人生勉強をして過ごしたようです。
現在は希望の仕事につくために専門学校に行っています。
長い間ひきこもりの状態にあった息子が昨年四月自ら死んでしまったのです。
中三の終わり頃から不登校になり、高校へも行かず家の農業を手伝ってきました。ひきこもりではありましたが生活は乱れず、父親や祖母とよく働いてくれました。
CDやDVD、漫画本を揃えパソコンも買って、ようやく自分なりの楽しみを持ってるようになったと少しほっとしていました。幼い時からおとなしい子でしたが最近はほとんど話さなくなり、そのことが心配でしたが「いつかきっと元気になってくれる」と家族みんなで見守ってきたつもりでした。
悔やまれることばかりでつらい毎日です。
ひきこもりに関する番組も、最近特に多く感じられ、もう少し早くこんなことを知っていたらと思うこともあります。
どうしてもっともっと何でもいいからあの子に話してやらなかったのか、どうして他の人や物につなげてやれなかったのか、悔やんでも悔やんでもどうにもならないことがつらいです。
私の息子がこの3月にある私立大学を卒業しまして、4月より同大学の大学院に進学しました。
ここまでの経過を報告します。
1991年4月 中学入学
92年1月 正月休みから不登校、時々登校する
94年3月 中学卒業
94年4月 高校入試に合格
6月 不登校、その後学校には行けなくなる
95年3月 高校退学
95年秋? 大検合格
97年 大学不合格
98年 大学不合格
99年2月 私立大学合格4月入学
2003年3月 私立大学卒業
4月 私立大学大学院に
上記のような経過をたどりました。この間いろいろなことがあり本人も私の家族も大変でした。しかし大勢の方に助けられました。本人の精神的な不安定は、大学入学まで続きました。大学に入ってからは明るくなりました。
就職も決まったのですが、本人の希望により大学院に進学しました。現在少しずつ自信が付き始めたようです。親としては不安が残りますが。
子ども達も成長し、一人は社会人となり仕事に励んで一人は結婚し一時の母となり元気に過ごしており、お陰様でやっとそれぞれの道を歩むようになりました。
わが家の息子は今から7年前の丁度今ごろです。中学2年の新学期が始まり2日目のときです。朝、起きてこなくなり、体が動かなくなるほど怯え涙をボロボロ流しながら学校へ行けない!と訴えました。
とにかく突然のことで、何が起きたのかと、天と地がひっくり返ったような衝動をうけました。引きずりながら行かせようともしました。するとトイレに逃げ込み立てこもり、トイレから出てこなくなりました。精神科に連れて行きましたが異常なしです。いじめを疑い友達、先生等に聞きまわりましたが、結局真相ははっきりしませんでした。一体どうしたらよいのか半年位は途方にくれた日々でした。
ついに2年間卒業の日まで1日も登校しませんでした。わが子の出ない卒業式に参列し、息子の教室へ行き、一番後列の端にあったさびしそうな机を見せてもらい、卒業証書を先生から受け取り返ってきた道での涙は止まりませんでした。スポーツが大好きで、友達が大好きで、勉強も一生懸命だった息子がなぜ?と思うと悲しくて・・・。
1年くらいたった頃、“生きているじゃないか”“健康そうだし”そう思えるようになってきたら元気と勇気と希望が湧いてきたのです。精神科の先生からのアドバイスで子どものよいところ探しと、コミュニケーションを大切にする日々を送ることにしました。すると息子もだんだんと元気になって来ました。受容れること、親が変わること、をモットーに。決して否定的な言葉や後悔するような言動は使わず、言葉を大切に使う事に努めました。
高校は単位制の定時制の高校を受験し合格しました。この世の中でこのときほど学校に感謝した事はありませんでした。大学入学よりもこのときの入学がうれしかったと思います。
肩身の狭い思いをしながらも、黙々と休まず学校へ通いとおして3年後に無事卒業しました。去年一浪して今年の春、念願のM大学に入学しました。このような結果は本当に想像していませんでした。ただ、大学生にはさせてあげたかったのですごくうれしかったのです。主人と2月15日速達が届いた日の感激がまだ冷め切れずにいます。
息子の努力と辛抱の日々は彼しかわからないと思います。でも、いったん急降下し落ちたものは強い、そして上を見て努力し這い上がれば必ず明るい未来が見つかるという事を実証してくれたように思います。
私達夫婦もいっぱい彼から教えてもらいました。深い愛情と子どもを信じる気持ちがあれば必ず立ち直るということを。そんなわけで、わが家は不登校があったからこそ今の息子があるのだと本心で感じております。不登校のおかげで親も目を覚まさせてもらいました。20歳の息子の誕生日に出した手紙に“6年間いろいろの思い出をありがとう”“あなたのお母さんでよかった”と記しました。
全国の不登校が元気に、堂々と人生を歩んでいく事が私達の夢です。頑張って下さいと伝えたくてこんな手紙を書きました。読んで下さってありがとうございました。
昭和47年に生まれる
17歳/公立高校2年の3学期に不登校になり、中退。極度の低学力。中退後、レストラン、コンビニ等でアルバイトをするが、いずれも長続きせず、そのうち家にいて昼夜逆転の生活。T相談室という民間相談施設に相談する。本人は訪問面接。母親は2週間に1度のカウンセリングに通う。
18歳/美容師になりたい、ということでT相談室のカウンセラーとその方向性ですすめ、某美容学校に入学。3日で行かなくなる。カウンセラーは母の私に問題がある、これ以上はカウンセリングを続けられない、と親子ともT相談室とは縁がきれる。ショックで母親は抑うつ状態になり精神科クリニックへ。薬物療法と精神療法を1年間受ける。本人が動き出すのを待つことにする。
23歳夏/不安発作のようなものを起こし、近所の病院で検査をしてもらったが異常なし。本人は不眠を訴えたので、精神科を紹介される。そこを受診する。家に一人でいることができなくなり、父や母の勤務先に「死にそうだ」と電話がかかってくる。近所の人にも助けを求める。入院したい、と言い出す。紹介されたS病院は入院希望者が多くて入院待機(3か月くらい)といわれ、やむを得ず、家から30分程度の精神病院に入院する。あまりのひどさに、私のかかっていたクリニックの医師に相談して、家から3時間かかる病院に転院。差額ベッド代、5,000円。本人は頭の傷、不眠、愛のない親・・・等を訴える。主治医は、将来的に障害者年金需給の可能性があるから国民年金はきちんと払っておくように、とアドバイスされる。入院しても状態は好転せず、本人が近くのS病院に転院を希望したため、4か月で転院。
24歳/引きこもりや人格障害、摂食障害等を専門に扱っている近くのS病院に入院。この病院は教育のためか治療のためか、すぐに強制外泊の繰り返しで、最終的には強制退院となる。1年間入院していた。
25歳/強制退院となったが、状態は極めて悪く、家にひとりでいることができない。また、強制退院になったS病院の紹介状を持って、2箇所の病院を受診したがいずれも入院は断られた。やむをえず、母親がかかっていたKクリニックに通院。しかし、ここのデイケアも断られた。一人でクリニックにも通院できない状態になり、家族が振り回される。
26歳/たまたまインターネットで、息子のような状態の若者を支援してくれる施設(共同作業所)を開いているご夫婦を知り、息子をお願いする。とりあえず2週間あずかってもらい、共同作業所に参加する。近くのクリニックに転院。精神衛生法第32条の適用を受ける、これが一つの転機となり、息子は2週間たっても留まりたい、ということになったので、近所にアパートを借りて共同作業所に通うこととなった。一人で生活をしたことのない息子が、生活費は送金しているが、生活できるようになった。頭の傷もよい形成外科医にかかり、手術をして本人は納得した。この頃から、親を非難することがなくなった。少しずつ自分に自信がつき、アルバイトも週に2回くらいできるようになる。
27歳/近くに定時制高校があることを知り、4年に編入する。
28歳/無事高校を卒業。就職先はなく、落ち込む。ここまで頑張ったのに・・・・・・。担任の紹介で、職業訓練校に7月入校。現在にいたる。
☆夫があと2年で定年となるため、それからは援助できない、と伝えてあります。(現在、家賃と生活費で15万円送金)
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