日本人は全体に神経質で完璧主義な傾向がありますが、主婦はそれに加えて忙しすぎてストレスフルに見えます。
欧米の家族の様子を映した番組を観たことがありますが、たいがい女性は家族のために料理を提供することに幸せを感じながら調理しています。
その生活ぶりは質素で素朴でささやかなものです。
そこは都会ではなかったのでしょうか、余裕とゆとりが幸せを感じさせます。
裏を返せば、おおざっぱでいい加減でだらしない面もあるんでしょうけど、日本人ももう少しそうなれればいいのになぁ、という思いです。
諦観の感覚、しょうがない、という諦めの感覚があれば、余計なものを手放して余裕が作れそうです。
男性も、母親への甘えやわがままをそのまま妻へ向けているような幼稚な人が多く、夫婦共に支え合い寄り添い合って生きている人をあまり見かけません。
女性の家事問題以前の問題を感じます。
家事のみつついても何も答えは出ないと思うもう一つの理由でもあります。
コロナがひきこもり当事者の気持ちを楽にしたという話をしばしば耳にしますが、逆の場合もあると思います。コロナ不況はひきこもりの親にも容赦なく襲いかかっています。
これまではなんとか息子・娘を食わせていた親も、コロナ不況によってその余裕をなくしつつあります。経済的・精神的に追い詰められた親が増え、我が子に就労を強く求める親が増えることを危惧しています。
以前は電車好きな息子のために電車に乗ることもありましたがコロナになってから全くなくなりました。公園に出かけることが増え、近所から遠くまで(車で移動)さまざまな公園に行きました。息子の生活はむしろ健康的になったといえます。
物心ついた時にはマスクをしているのでマスクのある生活が息子にとっては当たり前になっているので、この先どうなっていくのかなぁと思っています。
幼稚園の行事(保護者の顔合わせ等)がほとんど中止になったのは不謹慎ですが自分にとってはありがたかったです。悩みの種になるママ友関係が今は希薄であるのでコロナがおさまるのが逆に怖いです。
逆に不謹慎かもしれませんがコロナがおさまるのが怖いです。マスク生活に慣れ、顔を半分覆っているという安心感が人と話すハードルを随分下げてくれているような気がしています。全顔?で人と接する勇気が今は全くありません。むしろよく今までできていたなとすら思います。
あと、人と気軽に会えない今くらいの距離感が自分にとっては心地良い、丁度いいと感じることもあります。
家事がエッセンシャルワーク、興味深い題材ですね。
主に女性の家での仕事、家事・育児・介護には、報酬がありません。
そこには、近所や親戚との人付き合いなど、人によっては大変な割に用事とも呼べないことも含まれます。
家事手伝いはその中の一部でしかないので、なおさら軽く見られてしまいます。
けれど視野を広げれば、自治会やPTAの役員など社会活動も無償のものがあります。
ごみや落ち葉掃除、草むしり、どぶ掃除や雪かき、さまざまな行事など、地域によって大きな差が出る無償の仕事もあります。
家事のみ注目するというのは、難しい問題です。
縄文時代までさかのぼれば、皆生きること全て無償でやって、支え合ってきました。それがやがて、外の仕事は男性で、家事は女性と分担され、その「外の仕事」から、地域によって差が出る無償の仕事がなくなっていったため、人によっては仕事をする男性は有償、家事を担う女性は無償、と差が開いてしまいました。
また、家庭によっては家事の大変さに大きな差があり、手抜きをしようと思えばいくらでもでき、こだわればどこまでも大変な仕事で、お金さえあれば自らやらなくてもいい仕事です。
子どものためのお弁当作りを楽しんでいる人もいれば、認知症の人の過酷な介護が長年続いている人もいますし、雪かきで命を落とす人もいます。
対価を求めるのは無理な世界があります。
結論を言えば、人が人を見て、人が人を評価すれば、お金にならない行いにもっと誇りが持てるということではないでしょうか。それは、「旦那が『いつもありがとう』と感謝してくれれば、疲れは全て吹っ飛び、また頑張れる」という女性の言葉から理解できます。
言い換えれば、支えてくれている人に感謝の気持ちを持たない人、努力している人を評価しない人が多いせいで、報酬の有無を問わなければならなくなったんでしょう。
投稿日時: 2021年1月11日
詳しくは⇒https://bookpub.jiji.com/book/b556279.html
3月22日発売:年末に池上正樹さんと対談をし、追加することになりました。2月発行の予定が3月にづれました。時事通信出版局の熱を感じました。
定価1760円(税込み):2色刷になり高くなると思っていましたが予想以上になりました。
予約受付になっていますので、最寄りの書店に申し込んでください。
家事がエッセンシャルワークと認められれば、GDP(国民総生産)による社会の豊かさの基準は大きく変わると予想できます。特に家事に従事する女性の社会的な地位の見直しに進むと思いますし、人の豊かさや幸福度の基準も変わる可能性さえ感じています。
生産・サービスの質量(売上高等)に基づく価値(通貨に換算できる交換価値)によるのではない使用価値(売上額に計上されない人にとっての有用性に基づく価値)に基準が変わっていく可能性を感じます。世の価値観の大転換です。
使用価値がGDPのように数値化できるとわかりやすくなり、国民の中に浸透しやすくなるのですが、それはすぐにはできないでしょう。しかしまずはそのベースがはっきりしてきたように思うのは(もしかしたら)私だけ? そうではではないと期待しましょう。
もう一つ大事な面があります。国民の大多数に対して有害になっている投機的なマネーゲームに奔走する経済活動が宙に浮き、国民生活への悪影響が浮き彫りになるでしょう。それが衰退していくとの期待もあります。
ひきこもりに深くかかわり、考え続けてきた者としては、その枠を超えた事態との遭遇です。『ひきこもり国語辞典』の作業がすんだら、このあたりを社会科教室として考えてみたいと思うところです。
2020年のコロナ禍は、自然による警告ですが、人の社会を見直す機会になります。
そうか、こうして歴史は進んできたのかと思う年の瀬です。
家事はエッセンシャルワークというのは本当にその通りですね。欠くことのできない大切な、そして誰かがやらなくてはならない仕事ですね。
私は結婚してから子ども三人を保育園に預け、仕事から直行で保育園に行き、子どもと帰っ
た後は大急ぎで食事を作り風呂に入れ、寝かせるという生活をずっと続けてきました。
子育て、家事は妻がやるものという固定概念があり、一人であくせくと余裕もなくこなしてきました。子どもが手を離れた後もずっと働きながら家事をこなしてきました。
その反動なのか夫が退職した後はすべて家事は夫に任せています。夫も家事は私より向いているようでいつも気持ちよくやってくれています。でも、私の中ではどうもあの子育ての時の一人で抱えていた家事と育児の大変さを今意趣返しのように押し付けている気持ちがなくはありませんでした。
しかし、家事とは面倒な仕事ではなく誰かがやらなければならない欠くことのできない大切な仕事であるという部分に光が当たってくるといいですね。
私はいやいやこなしていたからあまり家事に良いイメージは持っていませんでしたが、家事はエッセンシャルワークという言葉自体がもっと広まっていけば家事に対する社会のイメージもそれにつれて変わっていくのかもしれません。やる方もプライドを持ち、周囲も感謝の念を持っていくことが家事に光を当てていくことなのかもですね。
働いている人と、働いていない人との間には様々なグラデーションがあって、もっと色々な生き方が世の中的に認められるようになれば良いなと願います。
私の職場にも、週3働きながら主夫をしている方がいます。周りは誰も偏見を持っていなく、ご本人も伸び伸びと働かれています。理解ある環境が増えていくのは良いことだと思います。
エッセンシャルワークがテーマの一つのようですので、それにともなうことで思いついたものをあげるだけですが……。
エッセンシャル(必要なもの)ということですが、2020年は「不要不急」とは何かが問われた年でした。芸術や文化活動において、今年活動が途絶えてしまったものがたくさんあります。
しかし企業経営や事務労働(、ハンコを押すために出勤するなどの日常業務)にこそ「不要不急」が含まれているのではないか。
『ブルジット・ジョブ』という本も評判になりました。ロバート・ケネディの演説で、経済について語ったものがあります。(検索結果のコピペです。すいません)
『GDPには、ライフルやナイフ、子どもにおもちゃを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれている。一方、GDPには、子どもたちの健康や教育の質、遊ぶ喜びは入っていない。
GDPには、詩の美しさや夫婦の絆の強さ、公の議論の知性や、公務員の高潔さは入っていない。
GDPには、私たちの機転や勇気も、知恵や学びも、思いやりや国への献身も、入っていない。
つまり、GDPは、私たちの人生を意味あるものにしてくれるものを、何も測ることはできないのだ。』(※当時のスピーチはGDPでなくGNPと発言しています)
「ひきこもり」は経済的な「生産性」がないことによって批判されますが、そもそも「必要」とされている日々の労働がなにほどのものか。
ノーベル文学賞を受賞した、シンボルスカという詩人が書いています。
『どう生きるかという素朴な質問以上に/喫緊な問いというものはない』(「世紀の没落」)
私にとってひきこもりは、内的に喫緊の、エッセンシャルな課題です。
食事をすることや、泣いている赤ん坊をあやすことのように、「いま・ここ」で生じている。
本来人が生きていくうえで大事なことが、経済的な判断に裁かれてしまっていることによって、「ひきこもり」や、過労死や、女性蔑視などのさまざまな問題が起きてしまっているのではないか……などと思います。
とても良いと思います。家事はゴミ出しから始まり、朝食のしたく、片付けの洗い物、前日散らかった部屋の片付け、掃除機、洗濯、食品の買い物、雑貨の買い物、夕飯の支度、洗い物、郵便物、書類確認など続けざまにあります。
目に見えない家事というものも注目されています。
シャンプー、リンスの詰め替え、トイレットペーパーの芯の交換・予備を置く、三角コーナーの交換、洗濯物をたたむ・しまう、食材確認、靴を揃える、電気の交換、ゴミの分別、お風呂を入れる前に洗う、水やり、掃き掃除Etc‥などです。
子どもがいたら、子どもを起こすから仕度を手伝う、おやつを用意する、学校のプリント確認、宿題確認、宿題の丸つけ、持ち物確認、遊ぶ、お風呂に入れる、学用品、衣類を買う、しつけをする、などあります。
自分の時間はあってないようなものです。
家族のやり残しや雑用をやり、汚れたものを再生させて生活しやすくする。これをやらなかったら国はなくなるようなものです。
兼業主婦、専業主婦という言葉はあっても「兼業主夫」はないですね。
「主夫」があらゆるところに増えるのはよいことです。引きこもり男性の「主夫」はいいと思います。