ただ、生きる 清水大樹(元ひきこもり当事者)
『ひきこもり周辺だより』(2024年10月号)
仕事と一人暮らしを同時に始めて二ヶ月が経過した。もはや今の私はひきこもり当事者でも、支援者でもない。この文章もひきこもり周辺だよりと呼んで良いものか甚だ疑問ではある。そのへんのおっさんのお仕事奮闘記にしかなっていないような気もするが、こんなものでも続けてほしいという奇特な方がいらっしゃるようなのでその方のために今しばらく筆を執ることにする。
今の仕事を始める前と後の私は別人のようだ。以前はとんでもなく寝付きが悪く、眠りにつくまで三時間かかることもざらだったが、今ではのび太並みの早さで眠れるようになった。自己評価の低さ、激しい自己嫌悪もかなり収まった。仕事をしている最中に滴り落ちる汗が、掃除をすればするほど落ちていく汚れが自分の頑張りを何よりも雄弁に語ってくれるからだ。仕事が終われば徒歩10分で帰宅できる。そして家に帰れば完全に一人だけの空間が待っている。風呂は実家よりも狭く足は伸ばせないが、その代わり羽根はずっと伸ばせる。
これが今の私の暮らしだ。余計なものを切り捨てて、その代わりに得たささやかな暮らしだ。今はとにかくこの暮らしを維持することだけを考えている。他の余計なことは一切考えない。思えばかつての私は考えすぎていた。余計なものを両手いっぱいに抱えようとしてその重みで潰れかけていた。だが、本当にやるべきことは実はとてもシンプルだった。ただ、生きる。それだけで良い。
学歴?資格?プライド?社会的地位?社会貢献?昇給?昇格?キャリアプラン?老後の蓄え?彼女?結婚?子ども?……etc。全部が余計なものだった。これらはスマホのごちゃごちゃしたオプションプランのようなものだ。有料あんしんサポートだとか、延長保証だとか、ネット使い放題だとか、電話かけ放題といったような余計なオプションだ。そんなものをいちいち店員に薦められるままほいほい契約していったら毎月の料金はとんでもない高額になってしまう。それでいてそれらが実際に役立つことはほとんどない。結局スマホなんて最低限ネットと電話ができればそれで良いのだ。それと同じで人生においてもそういった「付加価値」を付けることをやたらと強く薦められる機会が多い。それは親兄弟や友人、親戚、隣人、そして特定の人からだけでなく一般的な社会の「常識」という名の同調圧力として迫ってくる。だが、よく考えてほしい。自分自身はそれを求めているのだろうか?それは本当に自分が欲しいものなのか?欲しいというのならそれは人それぞれの考えなのでそれで良いだろう。だが私にとってはいずれも不要なものだった。不要なものを両手いっぱいに抱えようとして、手も視界も塞がって何も見えなくなっていたが、全部を捨て去ったことでようやく前が見えるようになった気がする。
繰り返すが、今の私はただこの暮らしを守ることしか考えていない。より良い未来、より豊かな明日など求めない。昨日のことは振り返らない、明日のことは考えない。私が求めるものは現状維持、それのみである。だがそれは何もしないとか、怠けるといったことを意味しない。これは清掃の仕事と同じだ。私達が毎日せっせと拭いたり掃いたりしてようやく建物をきれいに保つという現状維持が可能になるのだ。現状維持とは不断の努力があって初めて実現できるものなのだ。だから現状維持のために自主的に勉強もするし、すすんで残業もする。いずれ生活が落ち着いてきたら資格を取るつもりだ。だが、それを一所懸命にやるつもりはない。なぜならそれは別に暮らしを良くしたいと思ってのことではないからだ。それに自分は周囲の期待に応えようとつい最大出力で稼働しようとするクセがある。だがそんなものが長く続くわけもなく、いずれ力尽きてしまう。そのクセにずっと以前から気付いていながら長年治すことができずにいた。だが余計なものを捨て去ることで、それを過去形で語ることのできる日がようやくやってきた。
こんなことを言っていると、今まで築いてきた学歴や資格がもったいないという見方をする人もいるだろう。それに対してはこう言いたい。誇りで飯は食えない、でも埃掃除をしたら飯が食える。