支援者とか悩みという言葉がしっくりこない訳
支援者とか悩みという言葉がしっくりこない訳
不登校やひきこもり関係するメンタルな事情にかかわる者として、ある時は支援者とよばれ、またある時は悩みの解決者とか軽減者を期待されています。
最近もある機会で「支援する者として…」といわれました。
正直なところ、私には支援者という感覚、実感がピンときません。そいう意識が「ない」といっていいほどです。比較的いいのは伴走者なのですが、市民権をえている言葉ではないので、伝わりません。自分の感覚では、そういう人を目の前にして「自分にできること探す・できることをする」というのがあたっています。自分で「支援者」というのは、表面的な意思疎通のための便宜上の使い方です。
「悩み」というのも、ちょっと違うのではないかと思います。いえ、悩んでいる人はいます。そういう悩みは聞いています。ですがその全部の人が悩みとしているわけではないでしょう。どんな人でもおかれている現実・現状に過不足なく満足できる状態ではないでしょうから、何かはあります。
それを悩みとするのか、課題やテーマととらえるのかは人それぞれであり、一律に「悩み」としてしまうことに強引さというか上から目線を感じてしまうのです。
支援といい、悩みとする視点に何があるのかを考えてみました。それを解決する、そこからどう進むのかは当の本人が決めることです。その決めるまでの過程に助力できればいいと思います。しかし、支援や悩みという言葉にはその過程を通して介入する雰囲気を感じるのです。
本人がすべてを自力でどうにかすると思っているわけではありません。助けもいるし、いろいろな解決策も参考になると思います。それを選ぶ、それを創造的に加工することも含めて、当事者が身に付けることが目標になるしかありません。
本人のこの部分に介入せずに、何ができるのかを考えると、支援者というのは気が引けますし、悩みの解決者にはなりたくない気がするのです。
〔2017年5月30日〕