仕事を好きなものにした方法
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2019年4月30日 (火) 09:08時点における版
仕事を好きなものにした方法
〔2018年6月28日〕
6月20日「ストレスを感じるばあいとは」の続き、「好きなことしかしてこなかった」を書きましょう。
わかりづらいかもしれませんが、このテーマで書いています。
1964年4月、私は高校を卒業後17歳8か月から職に就き、働き始めました。
初めの16年は医療事務、次の16年は編集者、その次は不登校情報センターで23年余り。
合計55年になります。
働くのは好きです。好きな仕事をしてきたから働けたともいえます。
しかし、その間に嫌なこともありました、したくないこともしたはずです。
でも大きな流れのなかでの短い、小さな逆流です。
最初の医療事務は自ら選んだものではありません。
大阪市の職員として職に就き、働き先に市立大学を希望しました。
4月から同じ大学の夜間部に入学したことが影響したかもしれませんがよく覚えていません。
大学を希望したのですが、その附属病院は想定していません。しかし、嫌だとは思いませんでした。ここで10年働き、退職し上京しました。
大学病院の10年は長く、その間に何をテーマにしていたのかは全部を思い出せません。
医療保険制度を知る(これは仕事そのものです)、患者さんと話しながら社会状況を知る(大学病院は釜ヶ崎地域に近く、労働者街がありました)=労働災害のおじさんさん達からその職業の様子をよく聞きました。SMON病というのが社会問題になったときは内科を担当していて、医師からSMON病患者さんの様子を聞きました。眼科担当のときがいちばん実際的で自分の目の状態を話しながら教わりました。医療事務にコピー機(ゼロックス)が導入された時期にはその使い方の工夫をテーマにしました。以上は仕事のなかでの期間の短いテーマです。
仕事以外の場に学ぶ目標ができました。
大学には通学できず(仕事の性格上、始業時に間に合わない時期が繰り返された)、授業外で社会科学サークルに取り組み、あるころから必要があり英語の翻訳をつづけました。貴重な時間でした。
しかしこれらのテーマは全体としては散漫なもので、最初の10年は自分のテーマを仕事に持ち込むという点ではたいしたことはなかったと思います。
上京した直後に、機械製作会社の事務を1か月、室内のパーテイション販売会社の事務を1か月ぐらいしたことがあります。テーマがみつからない、まだそういう意識が低く自然と浮かんでくるテーマがなかったと思います。仕事が合わないと判断して短期間でやめました。
定着した職は医療事務のある診療所です。大学病院で始めた医療事務に落ち着きました。
前回にこう書きました。
<取り組んでいる仕事の中に自分なりの目標や楽しみを持ち込んだ。>
初めからそういうものを見つけられるわけはないし、そういう意識もなかったはずです。
しかし、仕事を続けるなかでテーマを感じたのです。
上京後に短期間に2つのやめた仕事を思い出したことで、逆に仕事を続けられた条件が見えてきたようです。
働き続けたのは小さな診療所です。しばらくしてからカルテ管理の大改造に取り組みました。カルテを探しづらい、重複もあります。そこでカルテを患者個人の単位で一元化する必要性を感じました。その診療所にあった全てのカルテを集め一元化しました。
小さな診療所とはその地域の人が来るところであり、住民多数の受診記録(情報)を把握する勢いであったかもしれません。
事務室を改造するときにはカルテ保管のために壁面全体をカルテ入れの場にするように提案に実現しました。情報収集的な指向が表面化したみたいです。
振り返るに事務的な仕事といっても、人を対象にしていることが何らかのテーマを思い浮かべる前提になると思います。
次の仕事は教育関係の編集者です。結婚相手の父親が出版社の社長です。実は結婚したときは、定職がなくフリーの医療事務というバイトをしていました。1年後ぐらいに義父から誘われて出版社に入りました。
出版はほとんど知らない世界です。見よう見まねですが、おもしろいと思いました。
大学時代の友人にガンになり片腕を失くした人がいました。結婚して子どもがいたのですが、その体験記を書いてもらいました。出版したところ、これが大ヒット企画です(映画にもなりました)。
最終発行部数は聞いていないのですが、10万部は行ったと思います。ただこれはまぐれ当たり、ビギナーズラックでしょう。しかも私の得意とする手段による企画とは言えません。
その後、月刊教育誌の編集担当になりました。たぶん企画するのが好きで、編集との相性はよかったです。
この時期に、子ども時代から習性の情報収集的な方法を少しずつ取り入れました。現在に続く、不登校関係の情報本の企画はこの時期の後半に始まりました。情報収集的な方法と事典づくり傾向で企画したものがかなり多いと思います。
事典という体裁で本になったのは『中学生・高校生のための仕事ガイド』という事典です。1年半ぐらいは原稿を書き続けました。
情報収集型の出版企画もタイプが少しずつ違う方法で試してみました。これは貴重な経験になっています。
出版社時代に企画したことはそのまま不登校情報センターにつながりました。その後、ネット上での情報収集と情報提供に転換し、不登校情報センターのサイト制作に継続しています。
医療事務にしても編集にしても与えられたことをこなすだけなら、おもしろく感じられなかったはずです。始めてしばらくしたところで、自分なりのテーマを感じる。やがて企画という形にし、与えられた仕事を自分のテーマに置き換えて追及する。それに情報収集という方法も取り入れています。こうすると仕事自体が好きなことになります。
これが仕事を含め私が物事を継続してきた背景理由です。
質問には「ひきこもりと一緒にいることは「好きなこと」だったのか」というのもありました。
不登校情報センターの活動の一部でもありますから、次回はそれに答えましょう。