Center:2007年5月ー強制的人間関係改造法に向かわないことが大切
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2023年1月11日 (水) 17:07時点における最新版
目次 |
強制的人間関係改造法に向かわないことが大切
~丹波ナチュラルスクールの事件への質問によせて~
(1)
丹波ナチュラルスクール(京都府)での暴力事件が報じられています。
ある団体から不登校情報センターでは、このような悪徳業者をどのようにチェックしているのかの問い合わせが入りました。
同じ時期に、不登校や中退生を受け入れているある高校で生徒間の暴力事件が発生し、被害者側の訴えにより新聞報道がされています。
丹波ナチュラルスクールの今後はわかりませんが、もう1つの高校はこの事態を乗りこえていくことを私は望んでいます。
この2つの事件、ことに丹波ナチュラルスクールを中心に、この問題の考え方、これまで採って来た方法を紹介していきます。
この2つ事件を含む、不登校や引きこもりに対応する機関全体に共通する言葉(基準)がベースにあります。
この基準はあるときは直接に関係し、あるときは間接的に響くものです。
この土台の上に個別の事態に対する個別の言葉が追加されるのです。
さて要請されていることは、私の問題意識を含めて複合した要素があり、それを次のような区分けを意識していくのがよさそうです。
(1)支援団体における暴力(強制)は職員(とくに代表者)の意志によるものかどうか。
これは最も中心的なことです。
(2)暴力または違法行為が、生徒間(または当事者間)の動きの範囲なのかどうか。
これも欠かせない視点です。
しかし社会的には、当事者(生徒)間のトラブルであっても、事件性をもつと、それは機関の責任にならざるをえないものです。
その程度によって、支援団体の責任の範囲も変わってきます。
(3)不登校情報センターは、支援団体の情報収集と情報提供をしています。
このような暴力を引き起こす団体を識別する判断基準をどうしているのか。
今回の回答は、ここにも及ばなくてはならないでしょう。
(2)強制的人間改造方法
(1)の点に関しては、古くは戸塚ヨットスクール(今日も活動を継続)、1992年の瀬戸内にあった風の子学園(コンテナへの監禁)死亡事件、一昨年の名古屋のアイメンタルスクールでの死亡事件があります。
今回の丹波ナチュラルスクールの暴力事件は、この系統にあるといえるでしょう。
私が不登校問題に接し、支援団体の情報提供を始めた1990年代以降、上記の施設の情報提供をしたことはありませんが、それはその実態を知りうる条件にあったからではなく、偶然性によるものです。
これらの暴力(強制)の背景にあるのは、基本的な方法や考え方(それは代表者、開設者の考え方でもある)のなかに、入所者、引きこもりや不登校生に対する、人間としての尊重の欠如、相手を対等な人間として見、人を育てるのではなく、強制的に変えていく考え方(私はこれを「強制的人間改造方法」と呼ぶことにします)があると判断できます。
では、このような強制的人間改造方法をとる施設は、必ず事件を起こすかといえば、そうではありません。
それはメタミドホスを含むミルクを飲んだ乳児全員が、自動的に重大な身体症状を引き起こすのではないというのに似ています。
事件を起こすからダメではなくて、そういう要素が顕著にあること自体がダメなのです。
施設の運営方法などに、そのような言葉はみられなくても、実態としては意図的または無意識的に採用させているところは少なくないといっていいでしょう。
しかし、その識別は困難で実際にはできないと思います。
善意ではあるけれども、子どもや青年との対応のなかで、いくぶんはマイルドな強制が効果を示すと、考え方や方法の軸がそちらにずれていくことがあると思います。
これらを含めて、実態として強制手段が運営方法に入り込んでいくのです。
「悪徳業者」は初めから「いる」のではなく、生まれ、つくられていくのです。
その理由の1つに、強制と「がんばる」の間には、一線を引き難い場面があり、がんばりのつもりが強制(または無理やり)につながっていくからです。
しかし、(1)で示された例は、暴力(強制的人間改造方法)が常態化している点で違います。
違うからといって、一方を安全、他方を危険と識別するのもまた事実を見失うことになります。
(3)「強制的人間改造」の“監視”
ある時点で団体の運営者、支援者が「強制的人間改造法」を否定していたからといって、それがずっと続いていくこととは同じではありません。
情報収集・情報提供をする機関は、常にその監視を怠らないことが求められてしまいます。
それは情報提供機関の主な作業ではなく、副産物であり、偶然の条件に左右されます。
その役割は、社会の該当機関が担うものです。
通常は、事件が発生したときにその機関が動きます。
現在はおおよそそのようなもので、私はそれを了解すべきものと考えています。
ときにはある団体のクレームもききます。
多くは料金が高いということです。
やり方が変というのもまじりますが、その一言でもって、その団体を不登校情報センターとして情報提供の対象から外すというのも拙速です。
任意の範囲ですが、違法状態を確認できたとか、よほどその種のクレームが多いときに限られるでしょう。
1つの民間団体にその役割を持たせたり、期待をするのは、むしろ不安の増大になると思います。
それがいかに 強大な組織であってもそうですし、きわめて弱小な組織であってもまた別の面で同じです。
それを求めていくと、忍者やスパイ集団を養成することになりかねませんし、社会の任意の機関がそこに介在するとなると妙な密告世界をつくり出してしまいます。
(4)情報提供は情報欠如の改善
いや、少なくとも「強制的人間改造方法」を否定しない、あるいはその雰囲気を感じられるところは、情報提供の対象にしなければよい、という意見もあります。
私はこれらの意見を情報提供を始める初期(1990年代初期)からきいてきました。
当時『登校拒否関係団体全国リスト』という情報提供本を編集し発行しました。
このとき聞かれたのが、「信用できるところだけを載せてほしい」「私の団体が有象無象と一緒にされるのはさけたい」などの理由で、情報提供や情報掲載の承諾をいただけなかったことが少なからずありました。
何が問題なのかと言えば「あの○○団体は外してほしい。理由は~」ということです。
ところがそう申告した団体は、別の団体から「△△は~なのでよくない」という理由で掲載しないように(暗に)求められるのです。
これらを総合すると結局、情報提供できるのは、いろいろ問題が指摘されているはずの公共施設が残り、結果としては不登校の支援団体に関する情報欠如になるのです。
まるで、仲よしをつくる感覚を、社会全体におし広げているようです。
私はここに「all or nothing」を感じました。
支援団体の全ての人を納得させる説明になるどうかはわかりませんが、引きこもり生活している人に感じる「all or nothing」の支援団体版です。
(5)引きこもりを受け入れる役割
私は、不登校や引きこもりを含むハンディキャップを持つ人を受け入れる学校、施設、団体は、それを排除していく機関よりも人間理解がすすむし、教育(福祉)内容もよくなるし、施設としてもよくなるという理想を持っています。
しかし世の中に絶対はありません。
理想の実現には、団体内における指導員と受講生の間での人間としての平等、「法の下での平等」が意識的に求められなければ崩れ去れますし、むしろ支配と服従が閉ざされた空間に強固にできてしまいます。
たとえば、ある施設が不登校を受け入れ始めるとすれば、多くは特定の誰かの発意から出発するものです。
いずれ職員の中に徐々にその考え方や方法や人間理解が広まっていくとしても、一度には達成できません。
全員が支援者として同一に達することはないと思います。
個人差はあっていいし、それが受け入れの幅をつくるのです。
しかし私は、この受入れ始めたということ知った時点で、その施設は情報提供の対象になると考えています。
その気持ちへの支援がなければ新たな支援団体をつくりそこねるかもしれません。
もちろん、私たちの応援はごくわずでしかありません。
それは、不完全な対応をする施設の情報提供をするという意味にもなります。
もしこれを十分に受け入れ条件のない支援団体の情報を行なっていると非難されるのであれば、甘受せざるを得ません。
往々にして、この不完全さが、不登校やハンディキャップを持つ人にとってはいいのではないかとさえ思っています。
それは強制的人間改造法を容認することとは同じではありません。
むしろ、完璧さを求めることが人間の何かを崩していくのではないかと思います。
強制的人間改造法も、見方を変えれば一種の完璧さを求める方法ではないでしょうか。
両極端にあるといえるかもしれませんが、どこか似ているのです。
不登校を受け入れ始めたといってもその後の進行が順調に行くとは保障されていません。
職員の無理解や経験不足による失敗もあるし、生徒間のトラブルもあるでしょう。
ハンディを持つ人を受け入れるとは、そのようなトラブルがより多く発生しやすいことです。
もし生徒間で、生徒と職員間で事件以前のトラブルが発生しないようであれば、奇妙な感じさえします。
人との衝突は人間関係をつくるときの派生品です。
トラブルを通して人は成長するとさえいえます。
そのトラブルを野放しで暴力化するのを放置するのとは違います。
施設の管理者が問われるのはこの部分であって、トラブルの絶滅が最善だとは思いません。
事件以前のトラブル、衝突があるから、人間教育の内容はできるし、生徒と共に職員は人間を理解していくのです。
この部分をまとめていえば、強制的人間改造法ではなくて、人間を育てる視点が大事です。
それは受け入れ施設に対しても同様に育てる視点が大事になる、これが私の到達した基準の第一です。
この大前提の上で、事件レベル以前のところでの対応(いわば意識しない予防)が考えられます。
予防について簡単にいえば、公開性です。
暴力防止について公開するよりは、活動全般の交流が一助となると思います。
(2)の生徒間で暴力事件が起きた高校が、この事態を乗り越えられるように私が期待するのは、これらの理由からです。
(6)支援の現場を応援する情報提供
私の観察では、支援団体が困難を抱えた人を受け入れ対応しようとすればするほど難関に出会います。
十分な体制ができてから受け入れるという正論もあり得ますが、体制はハンディキャップを持つ人を受け入れない限り、つくられていかないこともまた確かなのです。
現実的には、どこかで折り合いをつけることです。
困難を抱えた人を受け入れると、トラブル発生の危険は増します。
程度と人数を制約するのはこれに関係します。
いったん事件レベルになり、マスコミに報道されると、支援団体は一瞬に崩れます。
そういうナイーブな存在基盤に、多くの支援団体がおかれていると言えます。
実際に困難な人を迎えるのが支援団体だからです。
一昨年のアイメンタルスクールの死亡事件-それは代表者自身の 強制的人間改造方法に基づく結果と私が考えますから、それを容認するものではありませんが-それを論評するある本を読んだとき、私は論者たちの文にはうんざりしました。
自分は絶対に火の粉がふりかからない安全地帯にいて、正論や原則論を語っているという印象がしました。
支援者たちは、当事者と共に激流の中にいることもあります。
それがどういうことかは無頓着に、安全な場所で実際にできるのかどうかわからない正論を説くだけ、こうはなりたくないものです。
それを守っていれば、困った人には手を出さない、まさに「お役所的なやり方」(お役所の全部がそうとは思いませんが・・・)にまで退くしかないでしょう。
そうすればケガをする事態はさけられるからです。
しかし、それは支援団体を形骸化させてしまいます。
(7)情報センターの支援団体の役割
不登校情報センターは、支援団体の性格と、支援団体の情報提供機関という二つの面を持っています。
支援団体としては、上に述べた公(おおやけ)になるトラブル以前の小さな衝突はしばしば発生します。
それは当事者間で、ときには傷つき合いながら人間を学ぶ機会にもなっています。
人と人との関係は平穏から友好にすすむばかりではなく、衝突からも平穏や、友好にもすすむのです。
人間の物語の多くが衝突から友好にたどった道を描いているのは当然です。
しかし、日常はこういう物語ではすまされません。
代表者(管理者)である私は、さまざまな管理責任を追求されています。
それらをそのまま受け入れ、制度化してしまうと、結局は退屈な規則社会ができ上がります。
私はそれを居直って正当化するつもりはありませんが、このような管理者、代表者が、当事者からあれこれ直接に注文される状態が必要であると思います。
ある老人施設の方がこう言っていました。
入所した老人からの日常生活の細々とした要望に職員が振り回されていない、整然と秩序だっている施設は「よくない」と。
私もそう思います。
自由であることはトラブルや衝突もあるし、それを消滅させるために管理体制をきっちり決めて抑えるのはさらによくない。
事態を当事者間で表現するなかで改善を重ねることです。
しかし、当事者間のトラブルが明確な暴力事件になり、加害者と被害者が生まれる事態になれば、その責任は職員が、とりわけ代表者が負うのは当然だと思います。
不登校情報センターに関していえば、そういう事態が発生すれば、それはたちまち組織としての消滅につながるものです。
弱小機関とはそういうものです。
それをおそれて管理体制を強めるというのは、支援団体の性格を消し去っていくのです。
(8)情報提供機関としての役割
情報提供機関としての面ではどうなるのでしょうか。
いくぶんは既に触れました。
支援団体の情報を提供することの意味づけについてです。
それは、特定の価値観、方法論のものを肯定し、情報提供するのではなく、多様なもの、開発途上や未成熟なものも含めて情報提供していく姿勢が必要で、それが支援団体そのものを育てていくことになります。
ただしダメなものはあります。
人間を人間として扱わない考え方、方法です。
それが「強制的人間改造法」ですが、それがそう判断できるのは、現実の状態によります。
それに立ち入って観察なり調査することができませんから、社会的な事件になり、そのように判断するしかないときです。
ホームページ上の表記としては「支援団体側に、不当な行為等があったときは、この情報は一方的に削除することがあります」としているのは、それに関連することです。
私たちにできることは、これです。
これ以上のものは、与えられた実力(法的な面もさることながら、情報収集の権限や実力などの総合力)からしてそれが相当であると思います。
もう一つの面にも目を向けたいです。
1992年に風の子学園事件が起きたときのことです。
生徒をこの学園に紹介したある公立教育相談機関は非難を浴びました。
その非難のなかにはいろいろなものがあったとは思いますが、激烈なものが少し混じっていればどうなるのか。
それ以降、公立の相談機関は、全国的に民間の対応機関の情報提供をしなくなりました。
もともとそういう情報提供は少なかったと言えますが、この事件の後では極端に萎縮し、後退し、今日に至っています。
NPO団体などができて、いわば緩衝役ができて(あからさまに言えば、NPO団体に責任をとらせる形で)、民間の支援団体の情報提供をすすめてくるようになったと思います。
私は、この公立相談機関の情報提供からの撤退も、情報提供機関と違法行為の取締(監視)機関を区別しないで扱われた重大な弊害であると考えています。
支援団体・支援者のなかでは、たぶんこの2つは混在して取り扱われているようです。
以上のことを平たくいえば、次のようになります。
(1)情報収集とは、悪徳行為に関することを集めることとは違います。
支援団体の意図を把握し、それを知らせていく情報提供が中心です。
(2)不登校情報センターでは、副産物として入手できた、疑問行動を任意の判断材料にしています。
情報提供の相手と私たちとの信頼関係はここに影響します。
見ず知らずの人からの情報提供には、ワンクッションを置いて観察する姿勢が公平な判断には必要です。
(3)悪徳行為は、社会の該当機関が行うように求めるのが正当であり、それが社会の健全化につながります。