『自己肯定』と『母の存在』

「何でもかんでも母に話さなくていいな」と思ったのに、気が付けば、いろんな事を母に話している。

全く話をしない事が良い訳じゃないと思う。大事な話や相談もありだと思う。ただ、日常のどうでもいい事、別に話さなくていい事なども話している。そして、一緒に想いを共有したい自分がいる。

この前「自己肯定して生きよう」と思ってから、ずいぶんと気持ちが楽になった。しかし、それと同時に出てきたのは『母に認めてもらったら、自分を肯定できる』という、何とも危ない感情!

「どうしよう!!」「母に対して、そんな感情を抱いてしまっている自分は駄目だ!嫌だ!」「今すぐ、何とかしなきゃ!」と、焦った。

しかし、そこでハッと気付いた。私はいつもそうして、ありのままの自分を認めようとしなかった。
ゆっくり考えてみると…(-_-)

今日は「そんな自分を発見した!」で良いんじゃないかな。「これからどうしよう?」は、また流れに乗って、考えれていけばいいと思う。そうだ、結果をすぐに出そうとしない。急がない事だ。

私はずっと「自己否定」で、ここまで来たから、自分で自分を肯定する事がなかなか難しい。誰かに話す事、そしてそれを認められる事で、自己肯定出来るというのは、確かにそうなのかもしれない。ただ、それが母なのは良くないと思う。

母とは、やはり丁度良い距離感をこれから作っていきたい。「多少の緊張感も必要かもしれない。けれど、それがストレスにはならない。」そんな関係を築いていきたい。

手紙 -18歳の私-

日記の整理をしていたら、18歳の時に書いた手紙が出てきた。未来の自分に書いたようだが、内容は当時の悲痛な想いがつづられていた。

「世界は何て残酷なんだろう。神様、あなたは私をこんなにして喜んでいるのでしょう。
あの明るかった、私を返せ!あの輝いていた、私を返せ!もう、私は希望なんか信じない!!」

そんな事が書かれていた。

私は考えて、今の私が当時の私に伝えたい事を、手紙の裏に書いた。

『生き抜いてくれて、ありがとう』。

「自己肯定」で、生きる

今まで「自己否定」で、生きてきた。

自分の駄目なところ、足りないところを探して、「どうしたらいいか?」を考えてきた。

それで、道がひらけたところもある。

「出来ないから、やろう!」と、消極的から積極的に変わっていけた。ある意味、「自己否定」をエネルギーにしていた。

それもまた自分には必要で、通るべき道だったと思う。

しかし、もう「自分を否定して生きる」ことが通用しなくなって来た。

これからは「自分を認めて生きる」ことが必要なのだと感じている。

秋の風邪

先月から、鼻水が止まらない時があり、市販の薬で何とかなっていたけれど…。

昨日から喉が痛み出して、今日病院へ行ってきた。

「風邪の引き始めですね」と診断され、薬をもらった。少し眠くなる成分も入っていて、食後に飲んだら…。

何だか、今 ふわ〜となってきた (~_~)

楽しかった

知り合いの方と一緒にお茶を飲みに行った。
今日は本当に楽しかったなぁ。

*****

いつも、自分の駄目なところや、足りないところを探し出しては「どうしたらいい?」という悩みをエンドレスさせる私だけど…。

たまには、自分の事を好きだと思える瞬間があってもいいよね。

微妙な位置

今、母も私も変わろうとしている。離れている間に、母も大きく変わったし、私もまた大きく変わった。そうした二人が今一緒に暮らし始めている。

母と一緒にいて、苦しくなる時がある。この得体の知れない胸の苦しみは何なのだろう?と思い、本を読もうかなと、『母と娘』『共依存』などで、検索してみた。けれど、内容を見てみたら、少し違う…?

確かに過去を振り返る事で、何か前に進めるのなら、振り返る事も必要なのだろう。しかし、過去の「こうして欲しかった!」などは、もう嫌という程やって来た。それよりも、今は「これから」の事を考えていきたい。「どんな関係を築いていきたいか」。それは、「自分たちが、それぞれ、どう生きていきたいか」に繫がるものがある。

ただ、私がそう言えたり、思えたりする事が出来るのは、やっぱり母が変わった(変わろうとしている)からだ。そして、父も変わったからだ。

私もまた「全部、自分の問題だったんだ」と気付いた事で、変われた。大変な事はいっぱいあるけれど、誰かのせいにしていた(被害者意識のまま生きていた)頃に比べたら、全然世界が違って見える。

少しずつ抜け出している状態で、微妙な位置にいるけれど…。やっぱり、お互いを尊重し合う事が大切なのかなと思う。

尊重し合う

「別に何でもかんでも、母に話さなくていいのかなぁ」と思ってきた。

本人が話を聞いてもらいたい時は聞くけれど、そこまで深入りしなくていいのかなと思う。

私には私の世界があり、母には母の世界がある。それを尊重し合いたい。

現在、午前2時。

母が帰って来た。家に居場所がないと感じる。家が狭いというのもあるが…。多分、居場所がないのは、私の心。心の居場所がないのだ。狭いのも、私の心が狭い中にいるのだ。

乗り越えたいし、いつか乗り越えなきゃいけない事だ。けれど「乗り越えたい!」気持ちの反動は「逃げたい!」。いつか逃げ出したくなる。もうすでに逃げ出したくなっている。

母にすがっても、母が答えや解決策を持っている訳ではない事はもう分かっている。答えは自分が持っている。解決策も自分で見つける。もがいたり、地道な努力が必要だ。

昔の事を思い出す。昔、似たような気持ちや場面になった事がある。私はそれを乗り越えられなかった。苦しさに耐えられず、盲目的になり、さっさと結論付けて、逃げてしまった。愛してくれた人達は、ちゃんと側に居たのに。あの頃はそれが分からなかった。その時と似たような状況・状態に今また置かれている。だから、余計に乗り越えたい気持ちが強い。けれど、必死過ぎて、また盲目的になっている。

焦らずに時間を掛けてとは言うけれど…。得体の知れない苦しみが常に胸に広がる中で、必死にならずにはいられない。いろんな事が押し寄せる中で「いや、もう出来ない」となるのも無理はない。