降りしきる雨の日の午後、本日、六月二十二日の日曜での昼下がり。今年も梅雨入りの気候となった。
自宅で一人閉じこもってはいられずに、何となくぶらりと外へ出かけた。
どこに行きたいといったあてもなく、できるだけ人出の少ないような所へ足を向け、たどり着いた先は広い庭園であった。
そこには、広い池があって庭園の中には休む事のできる東屋もある。暫くその東屋にある椅子に腰かけて、じっと目の前にある池を眺めていた。
雨がしとしとと降っているせいなのか、周りには誰も居なく、自分だけが一人寂しく、ただ池を眺めているだけであった。
周囲が静かで人もなく、雨が降りしきる中での池の様子をじっとみていると、過ぎ去ってしまった様々な思い出が心によぎりだす。
何年か前の時に、自分が今一人で切ない気持ちを抱きながら雨の降る池を目の前に見ている同じ場所におき、ある一人の女の子と一緒に晴天であった日に二人で池を眺めていた事。
そして、この池のある庭園へと始めて彼女が自分を連れてきた事。
雨の日は、ずっと前に暫く忘れかけていた過去での出来事などが、心切ない程に甦ってくる事もある。
何でもすぐに、忘れ去ってしまってはいけないような気持ちに戒められる。
今では、その女の子の消息もわからなくなった。どこかで幸福に暮らしている事を願いたい一心である。
(46)『雨が降る池の景観』
8月 2nd, 2008(45)『誘惑スレスレ』
8月 1st, 2008 街で何人もの若い女の子たちを見ると、どこかで悪戯心が湧いてくる。
主に可愛らしい女の子や、又はセクシーお姉さんなどを見かける度、むらむらと気持ちの中で、自分も今時の若い娘ギャルやワンギャル達を同類のようになってみたくなる。
見るからにもチャラ付いた格好をして、それゆえに女子高生の学生服を着てみたり、まゆ毛にアイシャドーにまつ毛にはマスカラ、そして顔全体には女性用の厚化粧で、いかにも娘ギャル達の仲間のようになってみたいものである。想像をしてみると、かなりにキモイようにも思えるが、ただ男としてモテるよりも、完全なお馬鹿さんとなっての珍妙な人気者。
そのようなキャラクター性が、まさに自分にふさわしく思える。
ふと気がついてみれば、この題目とは話題がずれているかもしれない。アハハハ・・・。
(44)『懐かしき思春期での頃』
7月 4th, 2008 〔現在34歳〕。
今でいう若者としての最もちゃらちゃらとしていられた時期であった20代での青年期。
もう二度とは戻れない、いや、戻りたいとは思わない。
今までに過ごしてきた生涯において30年程が経ち、何となく周期的であるかのように、また、人生を全て幼児時期の自分に返って再びやり直しているような気がしている。
小さな子どもだった頃、身内の家にあった広い庭で7歳近く年下の従姉妹とよく遊んでいた思い出や、父親と一緒に広い公園に行ってはボール投げをした事などと。
ある意味では、自分としても不思議な気を抱きながら、今現在での現実に居るように思っている。
回り巡って、昔に流行であったものなどが再び甦って来る事のように、人生に全く初心としての段階へと戻った気がしている。
どこかで少しの切ない気持ちがあれば、又、今までの長い年月に渡って過ごしてきた間にて、ようやく真の自分らしさが少しずつ見えてきたようにも思えている。
それは、何かが終止符を打ってみてから初めて気づくものであるのかもしれない。
今までに見えていなかった自分らしさが、遥か遠い昔の頃での幼児時期の自分へと振り返る事により、そこから再び新たな進化をゆっくりとしようとしている。
すぐには立ち直らなくてもいい。目の前での現状にある小さな幸せを見つけ、身近に流れている川を見たり、又は、木や花など、そして自分も含めてゆっくりと見つめ直してみよう。
(43)『Cから始まる初恋心』
7月 3rd, 2008 この主題に関しては、決して何の罪や違法に触れるような事を犯している訳ではありません。〔前おき〕
人間には誰にしても、多少なりの欲望や又は、性欲等を持っているでしょう。
街中を歩いている時に、前方向に歩いている若い女性の足が気になったり、或いは、短いスカートを履いている女の子が向こうから自転車を漕いでくる時の姿は、まさに目が離せなくなってしまう。
それも、今時の10歳代から20代ぐらいまでの年若い女の子達は、悪戯心や遊び半分のような悪ふざけでもって、こちらをいかにも挑発させるかのようにも自らのスカートをまくって見せたり、他にも大胆なポーズで股を開いてその場に座り込んだりもする。
なんとも、異性をあまり意識しないものであるなと思いつつ、実に喜ばしくも密かに自分の中で感激をしてしまう。
今でいうお見合い結婚や、別のケースにおいての気取った恋愛関係など、そういったものも良いかもしれないが、場合によっては、もう始めのうちから欲望などをあらわにして、自分の欲望を隠したりはせずに「スケベ根性」を剥き出しにしてみたいものである。
気取った恋愛などはしなくても、一度しかない生涯にて年若いときは二度と戻らない。
娯楽のような遊びばかりをしなくても、人生での大半が遊びであるのかもしれない。それは、自分の心持ち次第で大きく変われるものであるかに思える。
本気である一人の女性を好きになる事などより、適当に色々なタイプの女の子を知り、馬鹿のようにからかわれてみたい。
そのような自分でいられる事が、最も自分らしい存在性なのである。
(42)『奇妙な空間の場』
7月 2nd, 2008 現在、自分がわりと頻繁に足を運んでいる居場所がある。そこは、都内での葛飾区にある1つの社会支援のような業界である。
ある意味では、ごく一般的な社会の場とは異なり、どこかで少し逸脱した状況と言ったような空気が漂う集いの場でもある。
自分はそこに、もう7年近くは定着をしている事になる。一体、何の主体性や目的などを持った上であるのか、又、自分がそこに居る意味や存在理由とは何であるのかと。この頃になって少しずつ違和感を持ち始めてきた。
いつまでも、自分において好都合であるような物事は続くものではない。
その居場所へと定着をしてから、今年で7年目を迎えた今におき、現在のような自分のままでいて良いのであるかどうかと、どこかで気持ちが揺れ動き始めたかのような気がしている。
けれども、焦る訳ではなく、とくに何とかしなくてはいけないというような気にもならないのである。
自分はよく、誰かに会う度に、「君のような馬鹿を相手の時ではないのだ」・・・と冗談交じりに言われる事があるが、そこでの自分は馬鹿みたいに冗談を咬ましたり、或いは、狂ったようにふざけまくる事でしか取り柄がないのである。
このような事などは、あまり偉そうに言えるものではないかもしれない。自分としても、楽しいようでいて、どこか切なくむなしいような、これから先も、一体いつまで続いて行く事であるのやら。
(41)『旅がらすに途方にくれて』
7月 1st, 2008 長期に渡ってひとつの居場所へと定着をしても、ずっと同じ所へと居座り続ける事は出来ないように思う。
それは、二度とその場から立ち去る事ではない。一旦は、別の目新しい風への直面をしてみた上で、馴染みである居場所以外にも足を踏み入れて見る。
去年の5月頃から本の執筆を行い始めて、今年2月に1冊の随筆集である試作本が出来上がった。
けれども、今の時点では完全版ではなく、そこまでの製本として仕上げるまでには、いつの話になるのか知れたものではない。
自分としても、あまり心の中で期待をしていない、というよりも期待をしないようにしていると解釈をしたほうが正しいであろう。
ある人によれば、次の第二作目を出す事を望んでいるとの言い分も耳にはしたが、自分の中では、第一作目の試作が出来上がってその製本へと行かないまでには、一旦は、どこかで足を止めて、何かがピリオドを遂げる時期へと差し掛かっているかのような気がしなくもない。
今は3月の下旬近くで、もう間もなく新年度の時期となる。だからと言って直接には関係がないかもしれないが、自分からしても、ずっと同じ境遇におき、そろそろ違和感を抱き始めて来たのである。
先へと進んでいく事だけが、人生の目標ではないが、何にも変わらないようなつまらない状況の中に長く居座り続ける事は、それもまた、切ないだけであるかもしれない。
ある程度の時が経てば、次第と周囲の様子などが変化をしてもおかしくはない。変わってほしくはないものでも、時が過ぎれば変わってしまい、又、別れたくはない相手であっても、疎遠となってしまう事もある。
これから先の人生よりも、最も現在におかれている時を、懸命に生きるべきであるように思える。
(40)『広く浅くへの繋がり』
6月 4th, 2008 あまり人とは誰とも深入りはせず、適度な距離を保ちながら関わる事が、最も上手なつきあい方に思える。
それは、なにも人間に限らずに、他の動物においても言える事であるかもしれない。
主に、猫はそのような性質がある。
自分の飼い猫などではなく、身近な周囲に生存をしているような野良猫や、よその飼い猫達は、どんなに慣れ親しんでいても、ずっとそばに居る事はない。
ただ、その適度な親しみや慣れ合いが、場合によっては公平でもあり、一匹の愛犬などを愛情深く可愛がる事よりも、広く浅く色んな猫達との交流の輪が広がる事もある。
幼い子どもの頃に、友達はたくさん作ったほうが良いと、親や学校の先生からも言われた覚えがある。
人によって、それぞれの価値観の違いもあるが、自分に対して自信が持てない人間としての勝手な価値観にしか過ぎないが、ある一つの物事へのこだわりを持つよりも、広く浅く公平な視野で、又、人間だけではなく、小さな動物達に対しての分け隔てのない幅広い気持ちを持ち、公平に可愛がる姿勢が大切であるかのように思えてくる。
(39)『はっきりとはしない良さ』
6月 3rd, 2008 雑種類的に様々な別のものが混ざり合い、ある一つだけに限られた気質ではなく雑多に広く薄い性質を持つ。
ある意味では、現在の日本における首相のような「福田カラー」とも共通性があるかに思える。
今は何かと、「ねじれ国会」と言った話題を報道等で耳にするが、逆に、全くねじれのないような国会であったとしたなら、それはまた、めり張りなどがなく返ってつまらないものになってしまうだろう。
主題は少し元へと戻り、日常生活での身近にあるものの中で、綺麗なものがあれば同様に汚いものも実在をする。
美しく見事な色合いで、姿の良い生き物が存在すれば、汚ならしいゆえに、色や姿形さえも奇妙に感じられるような生き物も存在をしている。
そのような、どちらか片方だけのものへの価値観には決めつけず、どちらの気質も広く薄くに持ちたいものである。
良い面があれば、悪い面もあっておかしくはないように、常に戸惑いながらも広く薄く自分を飾らずに、無表情でいること。
どちらでもなければ、又、どちらも少しは持てるような、広く薄くはっきりとはしなくても良い。
別の表現では、全く何を考えているのかわからない奴でもある。
(38)『まぁ・・・題目なし』
6月 2nd, 2008 何にも期待をせず、それゆえに理想の高い幸せなどは求めない。
現在、三十四歳との年齢におき、人生での初心へと振り返って出直したい。それは、真剣になって先の生涯を考える事ではなく、初心としての出直しの気持ちへと戻って思い直してみる。
どんなにふざけていても良い。 又、どんなに馬鹿に思われても良い。少し位の鈍(まな)くらでいる事が、自分にとっても最良な生き方である。
何でも自分に都合よく、男らしくはないところが自分らしいなどと、居直ってしまえばいい。
世の中に渡る様々な事柄など、元をただせば何でもくだらない事で動いている訳であるかもしれない。
全くと言う程、虚仮なのよ。
(37)『立ち直らなくても・・・』
6月 1st, 2008 一日一日と、月日は流れてゆき、気遅れをしているうちにも年月は過ぎてしまう。
その度、年々もの年を積み重ねる。
時は経っても、そこから新たな再出発を迎えることも遅くはないと思う。
すぐに自分を何とかしなければいけないなどと、焦りの感情だけは絶対に抱いてはならない。
とても簡易に言い表してしまうと、何とかならない時は、そのままの通りに無理には何にも出来ない訳である。
ある場合によれば、友人関係における悩みや、又は他の物事においての色々な場面でも、それ程にきちんとはせず、少々はだらしがないほうが長続きが出来る場合もある。