自分に自信を持ち過ぎて、時に油断をしてしまいがちになり、自己破産をしたかのような境遇に陥ってしまう事がある。
生き急いだ所で、果たして何か自らのためになっているのだろうか。
大人の社会で大変な事があれば、又、子どもの社会でも同じく厳しいものがある。
自分らしき自分を見つけるために、今までに数々の友好関係や交流などを、数しれないままに犠牲にしてきてしまったものである。
そして、今に至る格好悪い自分が存在している。
ある意味にて、現実にある物事などから目を反らし、幻想ばかりを頭に抱き、自分に対して好都合であるような嫌らしい妄想に浸ってばかりいる。
「一時のロマンス」で終わってしまうような儚い物語があり、華麗なる花は一時にて美しく咲き、短い間であっけなくも枯れ果ててしまう。
後には、鮮やかではないような地味な葉だけが暫くは残っている。
それが、普段での日々の暮らしとも言えよう。
(56)『張り切り過ぎは失敗に至る』
2月 1st, 2009(55)『儚き小さな生命』
1月 6th, 2009 ある朝、いつも大事に可愛がっていた一匹の文鳥が、無念にも世を去ってしまった。
およそ三年という短い生涯だけに、自分との別れを告げた。
おそらく病気が元で、排泄に不自由があったようである。
三、四日程前辺りから、何だか元気がなく、どこかにおいて様子が変には思えていた。
鳥は人間よりも遥かに寿命が短いものではあるが、やはり死に別れることは悲しい。
年の暮れである時期に、実に無念であるとしか思いようがない。
どんなに小さな生き物であろうと、命の尊さや愛しさは同じである。
できることなら、小鳥が平常に元気でいた時の、何日か前での日付に戻ってみたいものである。
今はただ、静かに永眠をしている小鳥を目の前にして、そのような悔いに浸っているだけである。
(54)『言葉では表現しにくいもの』
1月 5th, 2009 将来の事、それは今後での自分に対して重くふりかかる。
決して人生は容易いものではない。
毎日、朝から夜までの目まぐるしい日々の連続の繰り返しだけである。
自分が今のような境遇の中において、それで幸せであるかどうかは、良く分からないものである。
子どもの頃から、お勉強ができるうちが幸せであると、父親からはよく叱られた事があった。
大人になってからでは、何でも頭に覚え難くなってしまうため、「頭が柔らかい子どもである間に、しっかりと学ぶべきものは学びなさい」。
勉強をする事が苦手であった自分としては、ただ面倒であるようにしか思えなかった。
そして現在、成人を過ぎた大人になってから、子どもの時、或いは未成年だったときにやり残してしまったものを、出来れば取り戻したいと思っている。
けれども、気づくのが少し遅いようでもあり、何かを失ってから始めて気づくような、まさに「無常の儚さ」といった心境に苛まれているかのようである。
又、言い方を変えれば、絶望から生まれる新たな進化をする始まり「スタートライン」への光が見える一、二歩手前までに到達をしてきている事も考えられる。
(53)『朝の公園散歩でふと思う』
1月 4th, 2009 ある雨の日の朝、7時頃に外へと出かけ、毎日よく行きつけている近くの広い自然公園へと散歩に出かけた。
周囲には木が多く、又、色々な種類の野鳥達が生息をしている。
よく晴れた天気の日とは違い、落ち着いた程度の雨が降る日には、気分的に何だか優れないかのような気持ちになりがちだが、どこかにおいては少しの安らぎや、気持ちに安定感を持つ事ができる。
周りにある草木をじっと見ながら、ゆっくりと考え事をしたり、又過ぎてきた思い出に浸る。
現在のようなままでの、堕落をしている自分におき、人生を前向きな姿勢で立ち直る事は、かなりに辛く思う。
結局には、日頃での自分の行いなどが、巡り巡って自分に返ってきているような気がしている。
けど、人間誰にせよ良い面と悪い面は必ずあるものであって、後悔などをする生き物であるように思える。
(52)『気まぐれな気象と共に』
1月 3rd, 2009 現在、2008年(平成20年)の9月半ばの時期であり、夏も終盤を向かえる秋口での前半季節。
このところ、至る時にて極地的な豪雨や台風がやたらと発生している。
今月に入ってからの中旬頃、雷が目と鼻の先へと落雷する場面を目撃した。
そこは、川崎市内にある大きな変電所の送電線に、見事にも雷が直撃をしてしまったらしい。
青いイナズマの糸のような光の筋を周囲に輝かせては、もの凄い爆音と共に姿を現した。
地震、雷、火事、親父、という言い伝えが昔から聞かされている。
天災や人災、又、同じ天災でも天才のほうは別の意味となる。
何だか、どこかで主題から反れてしまったようである。
(51)『全く何を考えて生きているのか』
1月 2nd, 2009 過去や未来の事などよりも、今に至っている時をひたすらに過ごすだけが精一杯。
(善は急げ)っという言い伝えもあるが、全くその通りで良いかどうかは、はっきりとは言い切れたものではないように思う。
徹底をして現実逃避をしてみたくなる事も度々にあり、堕落した生活を日々送っている。
そして、いかにも正面ではないような行き場所へと足を運ぶ。
このような現状がいつまで続くのやらと思いながら、ある意味では幸せなようでいて、又、哀れみをも感じてくる。
本当の幸せなど、求める事は間違っているのであるかもしれない。
誰かが幸運を求めれば、誰かが犠牲となって我慢をしなくてはならないような場合もある。
格差の多い社会の中にて、一端は全てを目の前から逃避をして更地にしてみたいものである。
暇な時間が多いため、余計な考え事ばかりをしてしまう。
(50)『無念なる花寿命』
1月 1st, 2009 自宅の庭に咲いている、淡いピンク色をしたツバキの花。
朝から日中までの間は、見事な姿で花びらを開き、日が沈む時になると自然と萎む。
見るからに、花も生きていると言った証を表わしているかのようである。
そして、ある日、花びらを開いたままの状態にて、木の幹から乏しくも下へと転がっている花を目にする。
それが、自然の中でのごく当たり前である節理であるのかもしれない。
誰にも止める事はできない。
(49)『ろくでなしのいい訳』
9月 2nd, 2008 この際、人間なんて辞めてしまいましょう。と、そう簡単に言い切ってしまえたら、どれ程に楽なことであろう。
発達障害を持つ人間として、健全であるような大人社会の中へと適応していく自信が持てない。
できる事なら、自分がそのような障害を持っている事など、あまり認めたくはないと思っている。だからと言って、罪悪感がある訳でもなく、健全ではなくても良い。
他の人間と比べて、心の成長が遅く、幼児性を持ち続けたままに大人にだけ歳を重ねてきてしまった。
ずっと幼い子どもでいられる事はなく、年齢の順序では肉親のほうが先にこの世を去って行く事になる。
嫌でも先の現実からは、逃れられない。日頃、人前ではすぐにふざけたりと、全く幼い子どものように振る舞っているが、ふとどこかで思い留まり、もう少し自分自身を考え治すべきであると反省をしたくなる事が、後になってから度々にある。
自分としては、主に知的障害者達の集う養護施設のような所にだけは関わりたくはないと思っている。まさに、ぎりぎりの段階にて、軽度の障害を持ちながら、養護教育の場は免れたと言ってもいい。
けれども、他の競争社会での場にとっては、それはまた、生きづらくもなってしまう。軽度人格障害者にとって、重度障害者にはないような心の上での苦悩もあり、精神の人格に障害がある人間としての扱いだけは、絶対に受けたくはない。
ある意味で、人種的差別としても値するかもしれないが、それは仕方がないと思う。
(48)『珍妙なる生き方』
9月 1st, 2008 2008年8月13日から15日までの3日間、ある夏の合宿への久し振りの参加をした。
そこには、現役生である年若い女の子達が数人程も多く来ており、皆、まだまだ成熟をしきっていない中学生位の年齢であった。
彼女らとの交わりの時を持つ事ができ、共に悪ふざけをしていた事には、自分の子ども時代に瞬時だけでも振り返ったかのような気持ちになった。
まるで、おままごと遊びみたいな、むしろ自分のほうが彼女らよりも幼い子どもとなって、玩具のように遊ばれているようであった。
一層の事、いいようにからかわれようじゃないかと、気持ちの上でも面白みが湧いてきた。まさに「ロリータコンプレックス」の典型である。
大人としての社会とは別で、それ程に気を張らずに馬鹿な事ができる。完全な大人ではない未成熟な若さには、大変に喜ばされる。
(47)『何時でも白紙に戻る』
8月 3rd, 2008 子どもから大人になる事など、全くありのままでの変化であって特別な事ではない。
ただ大人になる事だけで、本当に良いのであるのかどうかと、30代を過ぎてからでも疑問を抱いている。
子どもの時からの様々な学習能力や知識等も不十分なままで、いい歳をした大人としての自信が持てない。
かなりもの苦労をした上でなんとか高校卒業をした後、それから現在に至るまでの長期の間、ずっと現実逃避をしてきている。
この随筆の文章を書く事におき、なにが目的で鉛筆を持っているのか、又、何かしらの失望感を覚えてくる。
一体、自分は何のために随筆集の本を書いたのだろうか。
まだ、30代を過ぎるまでの20代であった時に、大人としての社会へと目を向ける事を嫌がっては、まだまだ年若い子どものままでいられるだろうなどと、大人になる事を逃避してきた。
それでいて、今のような自分となって存在をしているのであろう。
これから先の人生を考えると、数えきれない程の不安はあっても、今現在におかれている境遇の時を、最も不自由がないように生きる事で精一杯に思える。