(66)『身なりとスタイルセンス』

6月 2nd, 2009

 現代での髪型のオシャレや、服装でのコーディネーションなど、格好のオシャレが複雑化をしてきている。
 発達障害を持つ人間として、都会の中に居住をしている以上、ダサすぎたようなスタイルではならないとも思ってしまう。
 何年か前での一時期では、オタッキーブームが少しの間だけに流行化をした時もあったが、既に過ぎ去ってしまったかのようでもある。
 以前、自分もゲームオタクへと走り始めた時もあった。けど、そのブームは去ぎたかのように、オタッキーなどから少しずつも離れ始めたのである。
 もうオタッキーには戻りたくはない。
 格好だけをつけることはなくても、格好悪すぎてもいけない。
 都会に長く住み続けていると、オシャレや服装のセンスに、髪型などの全体的なスタイルに気を向ける必要もあり、そのバランスを持たせることがとても重要となる。
 まさに「TPO」が大切である。

(65)『いい子だけではいられねえ』

6月 1st, 2009

 過ぎた昔を懐かしく思い出に浸る時は、ごく一時の短い間で良い。
 現在である境遇の中でどう生きるかどうかが、最も目前での課題なのだから。
 ずっといつまでも、過ぎたことで心を塞いでばかりはいられない。
 何も変化や刺激がないような境遇へと長く居座っていても、それだけでは人間らしさがどこかで失われてしまう気がする。
 ずっと親のそばに居て、親孝行をしているだけが全て良いとも限らない。いずれは先へと親は去って行ってしまう。
 「裏切り」という意味の表現が、全てにおいて悪いように取らえられる訳ではなく思える。
 ある場合においては、見事に裏切られみたいと言ったことを聞いたりする。
 なぜにそう思うようになったかと言うと、自分が少し年をとったことも一つにはあるが、過去に疎遠となってしまった自分よりも十歳近くも年若かった女の子を今に思うと、どこかは今も気になってはいても、本人が大人として成長をして行く上では、裏切られてもいいと感じるするようになった。
 子どもはいずれ、親や周りにいる大人を見下してやるくらいに、いつかは自分のほうがもっと上の地位となって今にいる大人達より大きくならなければと。
 ある程度の大人としての年齢に達したとき、自分に自信が持てないような哀れな大人になってはならない。

(64)『ずっと若くはいられない』

5月 4th, 2009

 ただ長生きをすることが、人生において最も幸せであるとは限らない。
 体に不自由な思いをしながらも、生きていくのは不憫に思えてならないものである。
 時折、ふと今の自分としても思うことがある。
 いつまで自分が元気にしていられるかどうかと。
 まだ未成年であった中高生時期から、20歳代であった時に比べ、少しずつにも体力的にも、又は精神面においても下り方向へと落ちてきているような気がしている。
 そして、何でも臆病な気持ちが強くなってきた。
 できることなら、もう少し前での若かった自分へと戻って出直したい気持ちがあるが、それは体力的に多少の無理があるかもしれない。
 現在での、30歳代でいられる間が、若者としての最終時期であるような気がしなくもない。
 今後、更に40代と年を重ね、中高年と年をとった自分など、あまり想像をしたくはないものである。
 人一倍に心の成長が遅い人間として、大人になっていくことだけが、人生での主題ではないのだと表明したい。

(63)『また新たな若い自分へと再び』

5月 3rd, 2009

 2009年3月中旬。
 今年も新年を迎えてから早々にも今年度の潮時となってきた。
 もうじき4月になると新年度が始まる。
 寒かった冬期も徐々に過ぎ、少しずつ暖かな春の季候へと変わりつつある。
 周期的なサイクルでの心境の変わり目でもあるかのように、現地点にて35歳の年齢から、およそ13年前程の20歳代前期のときでの今よりも年若い自分に近い心境となった。
 人によって個人差に違うこともあり、そのような周期的なサイクルに何も感じないままに平常な気持ちのまま過ごしてしまう場合もあれば、あれこれと様々に心境の変化を楽しむ人間もいる。
 ある一定での人間性だけに自分を絞れない、というよりも絞りたくはない。
 ある時期では、自分を年寄りくさいように装うときもあれば、再び若返ってみたくなる時もあって、今はまた、昔の今はなき古い世代のアイドル達が新人デビューをした初代の頃のような、まさにそのような若き自分を取り戻したい心境である。
 嫌でもいずれは生き続ける上で、年寄りとなってしまう。

(62)『幸福だけを求めてはならない』

5月 2nd, 2009

 ただ、何の苦労もせずに気楽にして生きているだけでは、心に痛いような思いなどをしなくても済むかもしれないけど、他に喜びなどを得られることも少ないかもしれない。
 自分が心に傷を負い、誰よりも弱い気持ちとなって心の弱さをさらけ出したときが、最も人間らしい本性が現われてくる。
 それは、なにも人や社会のために役に立たなければいけないということではなく、場合によっては自分が何かのときに自ら犠牲を払える心構えである。
 いかなるときや場合においてでも、自分が自己犠牲を払うことはないが、その状況や相手によっては自己犠牲となってもいいと思える気持ちを持てること。
 それが一つの人間らしさでもあるように思う。
 自分に自信が持てない哀れな奴として、何でも自分に自信をもてるような強い人間には出来ない人生を生きてみたい。
 強く生きるだけが人生の全てではないと。
 勝ちや負けで、人の生き方を決められるものではない。

(61)『今となってはふり返る』

5月 1st, 2009

 遠い昔、まだ自分が幼かった頃に流行していた当時のアイドル達を、今になってからにやたらと懐かしく思い描かれてくる。
 昭和50年代にヒットをした、「たのきんトリオ」や「少年隊」など。その頃、自分は小学校の低学年程の時期であった。
 ちょうど日本が高度経済成長期での盛んな時でもあって、子どものゲームや玩具等にも大ブームが動き始めていた。
 その他に、プラモデルやリカちゃん人形なども超人気ブームを集めていた。
 見るからにも可愛らしい『モンチッチ』のぬいぐるみや、『ハローキティグッズ』などと。
 それ以外でも、子ども向けの駄菓子なども変わったものが色々と発売をされていた。
 自分が幼かった子どもの頃、大人になるのはずっと遠い先のことだと思っていた時期が、いつのまにか遠い昔の頃の思い出となってしまった。
 現在を生きている時の中で、ふと思い返せば忘れかけていた様々な事柄が、頭に甦っては回想される。
 もう少し、思いとどまる時間が欲しいものである。

(60)『ただ漠然と生きるだけでは寂しい』

4月 3rd, 2009

 現在、2009年の3月。
 今年の1月にて35歳を迎えてしまった。
 少しずつながらにも、心境は変化をしつつある。
 今から12年程前、自分がまだ22、3歳のとき、人生においての様々な変化があった。
 その間に、自分が世間から悪ぶれ始めた時期もあり、かなりにも堕落をして過ごしてきた時もあった。
 そして現在でも、ずっと堕落をし続けている。
 今という年若い自分でいられるうちは、決して二度とは戻らないから、気が進まないようなことへと目を向けている場合ではないとも思えてくる。
 ただ幸せだけを求める前に、無様な自分を許してやる。
 意地を張っては突っ張ってきた人生において、負けを認めてしまった情けない奴。
 色々と振り返れば、心が痛んでならないものである。
 強く生きがっていく上では、自分がそれだけに認められる地位までに達してからではならないことを全く気にかけずに、愚かにもただなまくらに堕落をしていることだけに、自分としての突っ張り人生だと意地を張っていた。
 全く不埒者にも程があるかもしれない。
 人一倍に臆病な怠け者。
 結局、恥ずかしながらにも自分には突っ張り人生は将に似合わないと思い、それまでに自分がしていた格好や髪の毛の色などのも、派手でキバツなスタイルはやめ、見るからにも弱くおとなしい自分である格好へと戻したのであった。
 まだ未成年期であった高校生時期に、突っ張り不良少年に憧れを抱いていたが、自分には悪ぶれるだけの勇気がなく、そのまま漠然とおとなしく過ごしてきてしまったために、高校を出て、18、9歳からいきがり始めては、25、6歳で負けを認めることになった。
 以前、一昨年辺りまでの間、長年もに渡って自分と関わってくれていた8歳近く年上であった良き兄貴分の先輩から、時には辛く痛いような経験をしながらも、互いに疎遠となった今となって、ようやく自分にとって辛いことも人生の中においては必要であるのだと、疎遠になった現在から、自らの生涯を大事にしてやり直したい思いでいっぱいである。

(59)『あえて自分をみだらに』

4月 2nd, 2009

 人一倍に何でも頑張らなくて良い。
 果たして幸せだけを求めて生きることが、本当に人生での主題であるのかどうかはわからない。
 ただ怠けているだけが良いわけではなくても、路頭に迷っていられるうちが、もしかしたら幸せであるかもしれない。
 今までに恋愛などの経験もなく、本気で女性を好きになることができなかった。
 自分があまり男らしくはなく、性格的にはどこかで女のような精神があり、自分のような男らしくはない奴には恋愛などは似合わないとも思っている。
 それが自分としての人間性でもあり、そのような恋愛を主とした幸せは求めていない。
 ある場合では、自分らしさを強調して模様させるためには、男女恋愛をすることは邪魔ともなってしまう。
 実に恥ずかしながらも、心の成長が今の未成年である中高生達よりも幼く、いい歳をした大人である自分ほどの馬鹿は、それ程に多くはいないような気がしている。
 もっと出来る限りに恥をさらしてしまいたいなぁ。

(58)『何もかも割り切れず』

4月 1st, 2009

 毎日、夜、一人暮らしの部屋にてうす暗いランプだけをそっと照らし、現在におかれている自分の状況などを考えてみては、割り切れないような思いばかりが込みあげてくる。
 日頃は、あまり自分の存在性を大きくは見せず、おとなしく身をひそめてはいるが、時によっては人一倍に目立つようなことをしてみたりもしては、一時での顔を大きく模様させてみたりもできる。
 それは自分から進んでそのように振舞っているのではなく、子どものときからでの無意識なものなのである。
 言うならば、どこかにおいて普通である人間からピントが反れていること。
 不完全で不真似目なゆえに、不本意でもある自分の人間性。
 ある意味では不思議はキャラクタ性なのである。
 健全である常識的な社会には、ふさわしくはないようにも思えている。
 一体、自分とは何なのだろうか。
 極端にも、顔が売れっ子となる自分と、そうではなく存在すらもするかしないかでの自分との差は、まさに生きているか死んでいるかに近いようでもある。
 常に落ち着きがない人生。
 できることなら、もう少し歳月が過ぎてゆくときをゆっくりとはならないものであろうか。

(57)『美少女あわび』

2月 2nd, 2009

 『この度は、誠に勝手ながらにも、深くあわび致します。』
 この前おきは、とくに何の意味がある訳ではありません。
 単なる一発ギャグです。
 実に恥ずかしながらも、現在でも境遇にいる自分におき、男であることに人間としての哀れみを思い始めてしまった。
 しかし、だからと言って女になりたいと言う訳でもなく、男性的精神と女性的精神との分かれ目の中で、女性的精神のほうが多くなってきたのである。
 人間など、それ程に強い生き物ではない。
 何とかして自信が持てない自分を正当化したいだけの弱輩もの。
 いつも街でよく見かける学生服を着た無邪気そうな少女達や、メイド喫茶のメイドちゃんにツンデレ娘達。
 人生など頭から虚仮下すように、共にふざけ合いましょう。
 人間社会の見えない裏側にて、実にみっともない程に笑われたい。
 どうぞ玩具になさって・・・。