日頃での日常生活の中にて、自分ではそれ程に深く意識はしていないつもりでも、今現代における同年代程でも若い連中が話している用語を聞いていると、きちんとした言葉使いではなく軽い口調な言い方で何かを話していたりする場面を見聞きする事がある。
例えば、「そうですか」を「そーすか」と言ったような軽率な言葉使いなど。
あまり感じの良いものではないかもしれない。
だからと言って、では何でも昔風に堅苦しく、きちんとした作法で言葉使いをする事も、またそれはそれで頂けないとも思えてくる。
確かに、昔の年代と今現代とでは何処かは違って当然であるのだと、そう言い切ってしまえるだろう。
何でも古いような価値観だけが、全て良い訳はなく思える。
又、すぐに新しいものへと飛びつく事もしない。
まだ来ない先の未来などは、今から期待をしても仕方がない。
それと過ぎ去ってしまった過去などは、それはもう今ではない。
いつの日にか、自分が生まれてからの生涯において、ずっと生きてきて良かったなと思う時が来るか来ないかとは、明らかではなくていい。
どこかで題目とは話題の主旨が離れてきたかもしれないけれども、それも全く構わない。
自らが人生、滑って、滑って、崖を滑り降りる橇に乗ったようにして滑っちまおう。
どこまでも。
どこまでも。
(96)『現代風なものと、古い価値観。』
4月 3rd, 2010(95)『ちゃらん、ぽらん。』
4月 2nd, 2010 僕はとてもチャラ付き人です。
十年程前の時に、何かと一時的にも流行ブーム化をした「チャラ付きブーム」。
シノラーやアムラーなどが「篠原ともえ」に「安室なみえ」が一時でも大人気となっていた頃。
今現在からすれば、もう一昔程前での時代、流行世代ともなってしまった。
何でも十年経てば、それは十年一昔前の時代と言う。
そう、十年は長いように思えて案外にも長くはない。
逆に、三年などが短いようで、それ程に短くもない。
自分にも、チャラ付いたスタイルにやたらと愛着を抱いていた時があり、きちんと正面な格好などは嫌に思っていた。
そして今は、その時でもチャラ付いていた若者のようなスタイルではなく、どこか年寄り風な格好となってきた。
それも一つのお洒落なつもりでいる。
ありのままに時期が過ぎた変化の現れでもあるように思える。
見ための格好は年寄り臭くはなってきたとしても、チャラ付いたり、又は、少しは浮ついている気持ちは、今も変わらず抱き続けたい。
若くいられる時は、儚くも一寸の時期に過ぎないものであるから、ただ全うに真面目にして生きるだけでは、実に生涯が勿体ないと思えてはならない。
(94)『大人になる変化を恐れ』
4月 1st, 2010 無理をしてまでも、自分が成長をしたいとは思わない。
しかし、だからと言って子供のままでいたい訳ではない。
全くわからない。
ひたすらに悩んでいる時だけが、一時一時を過ぎて行く。
若い時は、やりたい事が何でもできるのさなどと言う歌があったが、それは歌だから格好良いように言えるものであって、ある意味においては不愉快にも聞こえてくる。
若い時ほど、悩み苦しみ、傷つき悲しみ、ほとぼと生きている意味さえもわからないかのような時ばかりな気がしている。
それは自分がまだ、人生を色々と割り切ってしまえない気持ちがあり、若さを捨ててはいないからでもあるに思う。
今までに、ずっと長期にも渡って自分を気取って見せかけてきた自分を振り返ると、何だか後ろめたいような気持ちになってくる。
笑ってなどはいられない。
まだ今は悩んでいたい。
心が苦しい。
哀れなりにも切なさが胸に痛感をしてゆく。
実に儚き若い世代よ。
(93)『時はお金なりとは。』
3月 3rd, 2010 平成二十二年二月初頭。
少しずつ冬の時期から暮れる日が長くなってきた今日この頃。
ただ、日々に追われて過ごしていても、それもまた人生でもある。
時は流れてゆく。
誰にも止める事はできない。
時の過ぎて行くままに、なりゆきに身を任せる。
現在でも自分でいる若い時は、悩んでいて当然であると思っていても良い。
自分は人よりも数倍以上にろくでなしな奴だと思えば、案外にも自分らしく生きれるものでもある。
それは何も、自分を諦めてしまう事ではなく、どこかは悩みながらも、又、どこかは居直る事も必要に思えてくる。
幸福などを求めるより先に、今にいる自分をゆっくりと見つめ、その時々を実感して生きる。
人には良心があれば、悪い精神もあって当然なように、良い詩や歌だけを見聞きせず、時には悪ぶれたような歌などを聞く事も、多いに重要な気がしている。
若くいられ時間は少ない。
ただ生き延びているだけが人生ではなく思える。
自らの生涯において、何かにあせる気持ちはあっても、それは若くいられる時間が、あと残り少ない事におき、そこかで気持ちが焦ってしまう。
けれども、時が過ぎて行くにつれ、時期が経てば考える事や気持ちも変化をするかもしれないが、今はまだ、今現在にいる若い自分をどう生きさせてやるべきなのかと、ただ時間や日々に追われているような心境でいる。
現在におかれている自分である時は。もう二度は返れないのだ。
(92)『チョコっと、チョコレート』
3月 2nd, 2010 いつでも悩みながら、少しずつ成長をしていく。
それ程には成長しなくても、今現在にいる自分を最も優先に考えるべきかもしれない。
まだ先である年を老いた自らの生涯などは考えたくはない。
少しは過去を振り返っても、今にいる自分をしっかりと見つめる。
或いは、近い未来を主に重要と考えなければいけない気がする。
今、この時をどうあるべきであるのか。
一時一時をどう実感して生きるべきなのか。
ただ漠然としながら日々に追われて過ごしているだけで、それで良いのかどうかと心が揺れている。
一体、どの位に自分が悩んでいたなら、自ら自身として気が澄むのだろうか。
ずっと気は澄まないままだろう。
どの位に自分が馬鹿なゆえに、ろくでなし者でいれば自らとして納得がなるものであるのか。
納得などはならなくても、あるがままに日々過ぎてしまう。
今この時、自分は甘苦いチョコレートを食べながら文集に取り組んでいる。
幼い子どもの頃とは違って、何でも甘いだけが好みではなくなって、どこかは苦さのあるほうが好みにも思えてきた今日この頃。
そもそも子どもから大人へと成長をしなければならないなどとは、あまり頑に考えずに、やっぱりチョコレートは、アーモンドチョコか、セシルチョコだよね!
オー、ナイス!チョコレート。
(91)『どこかは非常識でありたい』
3月 1st, 2010 色々な歌を自らが聞き、その歌詞における内容や、又は歌のリズム感などで気に入ってしまう歌詞もある。
自分もその歌を、その曲を歌っている歌手と似たように歌ってみたいなどと。
ある一種でのバーチャル世界へと浸る事でもあるのだが、現実には実行できないものや、あり得ないかのような意味合いな内容であるもの程、歌詞として作曲がなりやすいとも思える。
気が狂ったような歌も良ければ、訳の分からないようなハチャメチャな歌も良し。
時に、どこかで禁句用語ともなりそうな、性的に関する歌もある。
今この時、自分は少々酒を飲んだ状態にて文集を書いている。
まだまだ、全く酔っていない程での状態なので、しっかりと片手で筆を持って書けるようではある。
現在、深夜の十二時近くを回ったとこ。
良い子は既に眠る時間でも、非常識的な大人としては、今これからが目が冴え始める時である。
今この時から、様々な妄想にふけっては、頭の中に色々と幻想的な物事を思い始めよう。
果たして、どのような夢を回想するのか。
少々は、胸に期待を膨らませている。
ゆっくりと、瞳を閉じて。
(90)『平成21年の終止符』
1月 4th, 2010 今年も残すところ、あと数日たらずとなった2009年での丸1年間。
結局、毎年それ程に大きく劇的な変化もなく、ただ時の流れに身を任せたまま過ごしてしまったものである。
自分が今、現在に置かれている境遇を何とかして変えなければいけないと思えば思う程に、域は、立ち直って全うな物事に目を向けなければならないと思う程に、逆に体が怠けてしまう。
一度ぬるま湯に漬かってしまったあげくには、本当に後が怖いと思えるまでにも堕落の底からは這い上がれない。
けれども悩みは誰にもあって当然な物であって、全く何にも苦悩となることがなく、器用に社会を渡っていけたとしたら、それはまた、ある意味でつまらなくなってしまうかもしれない。
全うには生きれなくても良い。
だからといって人生を全て諦める訳ではなく、いかにして不真面目に社会を渡っていかれるかどうか。
「世間を虚仮」、にしている最低な人間として、また来年も馬鹿なように生涯を送ることだろう。
(89)『天才テレビ君を見て』
1月 3rd, 2010 毎日、教育テレビで夕方頃に放送をしている小・中学生が対象となる番組を見ていると、ふと、忘れかけている愛しさや儚さ、又は若さにおける尊さを思う。
まだまだ、人間を枯れて行くには早すぎる程の年若き青い瞳をした少年少女達。
大人へと成長をする前に、今である現在の年頃でいる時にこそ、最も輝いて生きるべきだと思えてくる。
自分が今どうあるべきなのか、大人になってからの将来へのことを頑に考えるよりも、今現在である年頃でいる時が最も重要な時期に思う。
少子化である現在、少しでも子どもたちには多くに育ってほしいものである。
そして彼らがある程度に成人を迎えた大人としての年齢に達した時には、「引きこもる若者」や「ニート」などのような社会にしてはならない。
実に、無責任な言い方であるかもしれないが、いい歳をして全うな社会へと適応していかれない駄目な奴として、自分よりも若い世代を心ひそかにも応援をしたい。
(88)『すばらしき性教育での発育成長』
1月 2nd, 2010 男は男らしく、女は女らしく。
とは言っても、ある意味では一つの飾り文句のようにも聞こえてくる。
現代では元の性別は男性であっても、わざと女性っぽく身なりを変装したオカマ「ニューハーフ」と言った男と女との間にはさまった新人類も増加をしてきている。
また、一方で女性が男のように装うような、オカマとは別物となる新人種も存在する。
自分の現在における性別は、今のところ単なる男であるが、性格や体格などから女性らしい部分も多くある。
そして自らでも、それ程に男らしくはありたくないとも思っている。
一時では、自分も「ニューハーフ」での道を考えたことが幾度かあった。
けれども真面目に徹底とは自らの中での決意が出来ずに、男と女とオカマとの実にあやふやに混合しているような、得体の知れない中途半端な人間性としての存在をしている。
別の意味では、男らしくもなければ女らしい訳でもなく、完全なオカマである訳でもない。
何でも徹底的にはっきりとはさせたくはないという心があり、真面目に頑張る事などにおいては、今一つに自分の中で何かしらの違和感を抱いてしまう。
男は男らしくあっても、又、女は女らしくあっても、どちらにせよ辛さがあるものは平等となる。
同性だけでの社会は、ある意味においては気を張らずにすむかもしれなくても、場合によれば異性の刺激となるものがなく、むなしいだけともなる。
(87)『今はもう思影となったままに』
1月 1st, 2010 今から十数年程前であった、あの時。
途ある旧国電沿線にあった小さな地域は、とても緑の空気が栄えていた。
それが今では、都市化が進んできては森林区域が次々と崩壊をされ、そこに大きな集合住宅などが建てられてしまったものである。
古くにあった国電の路線は廃止にされ、そして新たな他の鉄道路線へと置き変えられては、高速走行並の路線に様変わりをした。
とても速くて便利となった傍らには、古くからでの馴染みであったような光景は消えてしまい、どこか寂しいと思う気持ちを抱いてくる。
年月が過ぎれば、いろいろな物事は変化をしてゆく。
現在では、自分も長期に渡っての間にして足を運んでいた時が、まるで過ぎた過去の話となったかのように、その地域とは疎遠となった今現在にいる。
過ぎた過去より、現在を生きなければならないのは当然の事であっても、ただ前に進むだけが人生の全てではなくも思えてくる。
今までの生涯に渡って過ごしてきた様々なアーカイブのようなもの。
どんなに月日が経っても決して忘れることはなく、今は一つの思影として自らの心に残っている。
その時、自分がそこで青年として生きていた世代の歴史は、そこにはもう輝いていない。
まるで奇跡であったかのような、予想もつかない程での御縁があった人達との出会い。
そして自分が長期もの間、あるドキュメンタリーであったかのような社会で存在をしてきたエピソードの物語り。
『あの時、僕は君と知り合って、心が傷ついたよ。相手の立場をろくに気にもせず。』
自分と長期に渡って関わってきた誰かが自分に告げた言葉であった。
それ以来に互いに疎遠となってしまった。その彼が告げた言葉は、今でも自分の心に痛い程に深く刻まれている。
人は誰でも生きている間には、傷ついたり、又は、知らぬ間に誰かを傷つけたりもしているものであるのかもしれない。