まだ自分が見えては来ない。
現在に自分が置かれている境遇におき、決して不満がない訳ではない。
全てに、納得など出来るものではない。
ただ何もあてのなしに、文集を書く事だけが、自ら人生における全てではないかのように思えてきた、今日この頃での七月初頭。
もっと忘れてはならないものが、他にもあるはずなのだ。
そう自分の中にいる、もう一人の自分がつぶやきかけている。
今は疎遠と砕け散ってしまったかのような、あの時での友情など。
決して僕は、平和に生きている訳ではない。
そう振る舞ってはいても。
夏となって、気持ちの上において正念場が近づいてきたようだ。
暑さに負けてはいけない、その思いと同時に自らの心も熱くなれ。
僕は、全く一人ぼっちで生きてる訳ではない。
何があっても、自分に負けるな。
もう駄目だと思っても、負けを認める事があっても、最後に自分をも捨てたりするな。
(106)『暑い時期には心も熱く』
8月 1st, 2010(105)『心が乱戦模様な6月』
7月 2nd, 2010 此所は、以前、いつしか自分が長期に渡ってきていた場所では。
今は、ただ風が吹いているだけ。
何も悲しくはない、時が過ぎただけさ。
時は過ぎても、変わらないままの自分がいる。いつだって僕は、少年の頃のような自分へと再会できる。
不真面目でふざけた奴である限りは、その自分は変わらない。
変わらなくて良い。
ただ、現実にある物事だけに気を向ける事よりも、どこかで何かを忘れてはいないかどうか。
何にも悩まず割り切ってしまう前に、悩まないまま先へ進んでしまう事など。
「全く君は、いつまで幻想を抱くような子どものままでいる気なのか、ずっと大人へと成長をしないままの精神でいる気なのか。」
そう言われても、僕は僕のままである。
やるせなくても、梅雨時の雨に打たれ。
雨よ、もっと降ってくれ、悩むように降ってくれ。
(104)『季候の四季に惑わされ』
7月 1st, 2010 僕は今、自分さえも見失いかけてしまいそうな心境に陥りかけている。
このまま生きていたいのかも定かではない。
又、死にたいと思う気持ちもない。
将来的な夢や希望などは無くても、もし何かが叶えられるのであれば、今までに過ぎてしまった時を取り戻してみたい。
それが、もっともな自らとしても望みである。とんでもないかのような希望ではあるかもしれない。
これから先などは見えやしない、見えなくてもいい、見たくなどない。
人は幾つもの後悔を抱えながら進んで行く者。本当にそれで間違ってはいないのかどうか。
そんなに悲劇ではなく、めでたいような訳でもない。
今は、あちらこちらでの至る所にて紫陽花が満開にも見事な色とりどりに咲いている季候である。野に咲く花々を見ていると、どこかで命の尊さを思い知らされる。
悩んでいる心境を、何げなしに和らげてくれるような初夏の花々。
雑然と咲いている自然の花々は、ただ華やかさだけを強調しているものではない。
野に咲く雑然さが、最も清らかさを感じさせてくれる。
そして、悩んでいるような間もなく、花は短い間にして枯れて行く。
何とも儚いかのようであり、何とも見事な生き方であろう。
実に格好良く咲いては散って行く、自然の花々。
(103)『実にふざけた悩みだ』
6月 3rd, 2010 常に悩んでいる事が、実は楽しいものでもある。
そして明るく楽しくふざける事が、実に虚しいものでもある。
何かとふざけてしまう事には、現実からでの色々な物事に対し、どこかで目を反らしたいような気持ちからの現れでもある。
悩んでばかりいては、どこかで損をするかもしれないが、損や得などは関係ない。
今より少し若かった頃での、二十代であった半ば一時期では自らの悩みなど忘れかけて過ごしていた時期もあった。
その時では、悩みなど自分には知った事ではないと、実にノー天気なように、気楽にして生きていた。
それが今となって、周期的にサイクルが巡り回って帰ってきたかのような、未成年期での末頃の時であった、悩んでばかりいた頃の自分へと再会してきたような気がしている。
「決して悩みを忘れてしまってはいけないよ、悩みがあってこそ人間らしいのだ。」
まるで何においても、自分に好都合なように正当化をしているように思えてならない。
そんなに悩んでいたければ、ずっと悩んでいろよ!
「悩んでいるか、ふざけているか、どちらにせよ、自ら自身、勝手にしやがれ!」
(102)『全ては、そこから。』
6月 2nd, 2010 また、次世代への青春期が始まろうとしている。
昔であった子どもの頃から未成年期末までに渡ってきた頃に、成人を過ぎてからでの十数年間までに送ってきた時期を経て、次への生涯における青春期を迎えようとしている春一番。
完全な大人として人生を割り切ってしまう事はせず、今までとは違ったような新たな形での青春を送ってみたい。
夢見る夢男であっても良い。
もう誰かに救いを求めたりなどしたくはない。
しっかりと、今に生きている自分を見るんだ。
何かに悩んでいようが、どこかでふざけていようが、最後に何とかするのは自分自身で決めるもの。
そう、己自身なのだ。
人は誰でも、最終的には自分の事が精一杯である。
実に、わかったように文章表現をしているかもしれない。
何かが終わりがあれば、何かが始まる。
それは、世代政権における入れ替わりのように。
誰にだって、疚しいものや、或いは打ち明かせられないようなリスクなどの一つや二つは、背負っていても不思議ではない。
心が傷つきだらけであっても、又は腐り切ってしまっていても、一歩二歩と立ち止って考え思い直せば、どこかで素晴らしいようなエネルギーへと生まれ変わるものでもあるかもしれない。
けど、そんな飾り文句のようには進まないのが現状の社会でもある。
実際での実存社会に目を向ければ、おそらくは気の向かないような物事が多くに立ちはだかっている事なのだろう。
全く素晴らしい程に、ろくでもない程だ。
(101)『夢だけに浸って生きていた頃』
6月 1st, 2010 あの頃、自分は成人を迎えて間もない時で、いきいきと輝いた精神をも多くに抱いていた。
いかにして自分を若々しく、又は格好良く振る舞えるかどうかと。
そしてまた、今よりもエネルギーがあり余る程に、もっと自分を派手に存在をしたいと思う気力に満ち溢れていた。
それが今となっては、ごく一時での儚い夢だけにしか過ぎなかったようでもある。
青春など、どこか折れ曲がった凶器であったかのように、一寸にしてあっけなくも過ぎてしまう。
その時にあった友情なども、今では裏切りとなって儚く散ってしまったかに等しく思っている。
青春なんて、実に哀れで切ないものでしかない。
誰かと疎遠になってしまう事への重さを知らなかった。
もう過ぎた事は仕方がないのだと、そう言われても簡単に割り切れはしない。
ただ甘い夢だけを抱いては、甘い夢だけを食べていた儚さ。
何のあてもなしに、自分さえ楽しく生きられれば良いと思っていた、このろくでなし野郎。
誰かを傷づけている事にさえ、全く無関心に気付かずにいた。
若き青春の時期には、様々なリスク等を背負う事もあれば、自分で自分がわからなくなるかのようにも気がおかしくなる時も多くにある。
全く、青春という奴は、それが青春という奴なのかな。
(100)『BAD LACK ラブ』
5月 3rd, 2010 そろそろ何でも、正直に言ってしまえば。
そうは言っても、逆に現実から逃避をしたくなる。
もう逃げたくはないとは思っても、やはり何処かでは色々な物事への直面を反らしてしまう。
今という現在におかれている境遇の時を、ただ時間などに追われて過ごすだけでは儚く思う。
やってられないよ全く。
永久に何もかも終わりはないのだから。
まだ若いからゆえにも、悩みもあれば、又、悪ぶれた精神をも多くに抱いているのだ。
一時での恋心や、失恋などは笑ってしまえ。
僕はふざけた奴さ。
男と女が愛し合うような儚い夢など笑ってしまえ。
愛されるような切ない夢など笑ってしまえ。
全うな恋愛などするものではない。
主に男女の恋愛物語など、わざわざテレビ等にてドラマとして放送しなくても良いのでは。
何でも上手に結ばれるような恋愛なんて望む事は間違いである。
もっと悩んでいていいのだ。
決して全て割り切って考えたりはしない。
幸福に結ばれている男女のラブゲームなどよりも、多かれ少なかれのいざこざがある乱れた愛などのほうが面白い。
悩めるものがあればある程に、それだけ楽しくなる。
全く何を考えているのかわからない奴としての自分は、他からの反感や批判の声を浴びる程に、それとなくにも生甲斐を思えてくる。
(99)『悩みながら歌いながらに日常を。』
5月 2nd, 2010 一体、このままどうすればいいんだ。
どうすればいいんだ。
どうにも足掻きようがない。
なるようになるさ。
気が狂っちまってもいいのさ。
思いきりふざけようではないか。
思いきり悩もうではないか。
時には、意味もなく絶叫をしてみよう。
遠く疎遠となってしまった誰かの名を、思いきり呼び叫びたい。
決して忘れた訳ではないよ。
いつも常に心の中で君を近くに感じているよ。
そして強く抱いているよ。
決して遠くに離れた訳ではないよ。
決して僕の思いから、消えてしまう事はない。
ずっとずっと君を思い続けている。
君だけが一人で傷ついてはいけないよ。
切ない気持ちは僕も同じなのさ。
やがては切なさが、自分をこれから強く生きるうえでの支えともなるかのように、更に新たな心身へと走り出す気持ちが湧きあがる。
悩んでいても良し。
ふざけていても良し。
けど心を塞いでいる時は、ずっと長くはなくても良い。
四月という新年度が始まったからに、少しは勇気を出して前へと進みたい。
たとえ無理だとしても。
何でも怖がってばかりいては、安住の地の場にしかとどまれない。
今は、どんなに疎遠と離れていても、決してもう御縁がなくなった訳ではないよ。
いつかまた、あの時のように、僕らが出会ったばかりだった初心の頃のような新たな希望に満ちていた、あの頃のように。
きっとまた、巡り会えるさ。
(98)『花は見事に散るもの』
5月 1st, 2010 平成二十二年四月初頭。
今年に入ってからも早々と新年度の到来。
日々ふざけていては、又、悩みながらと新しい年度を迎える事となった。
「いい加減に、目を覚ませ!」
以前、誰かによく言われていた言葉であった。
今となっては、そう叱ってくれるような相手も身近にいなくなった今日この頃。
まだ自分が悩んでいられるゆえに、それだけ恵まれた境遇に置かれている事を後になってからに何となく気づかされる尊さ。
悩んでいられるうちが、まだ幸せではあるのかもしれない。
そして、悩める時間が実に貴重な時なのである。
けど今は、何にもわからないままに、これから先の生涯における不安な気持ちや今現在での実状の不満等が主に大きな課定にしか過ぎない。
お金を稼ぎたいような欲もなければ、自分から幸せなどは求めるものではないとも思えてしまう。
悲劇的なヒロインでもなければ、又、輝かしく喜ばしいような歌詞などとも程遠くなる。
夢や希望を抱いてはいられないかのように、悩んでいる暇はないのだとは発言できない程、ふざけてばかりいる暇はないのだとも発言できない程、全うに目を覚ましている場合ではない。
気は確かなのかと、あり得ない事柄を歌っている題曲の内容であるように生きる。
それも一つの若い気持ちである。
これから先に来る現実より、今、目の前での現実を見れば良い。
後は幻想を抱くのみ。
「どんなに悩んでいても、どんなにふざけていても、僕には、もう自分を信じるしかない」
ダーリング!
(97)『豊富なばかりは、人間らしさを欠かす』
4月 4th, 2010 何でも手軽に食べる物を買えては、お金を出せばすぐに簡単な食べ物が手軽に得る事が出来てしまう。
主にファーストフード店でもハンバーガや、または牛丼屋など。
お金さえ出せば、適当に美味しく手軽な物がすぐに食べられるような事が、それが当たり前でもあるかのような暮らしへと馴れてしまる事の恐ろしさ。
子どもの頃や、高校生辺りまでの未成年期頃に、もう少し後までの二十代の時までの間では、何でも簡単な食べ物のほうが手軽に済ませられるから最良であるように思っていた。
面倒な事も少なく、お腹がすいたら適当に手軽なもので良いと思っていた無関心な自分。
そして何でも手軽に食べ物が買える事におき、それがごく当たり前であるかのような暮らしに馴れてしまっていた愚かな自分。
色々と食べ物なども豊富に幅広くなり、手軽に美味しいものがすぐに買う事のできるような哀れさを、今になってからに自らの心に戒められてくる。
食のありがたさにおいても、何にも考えずに食べ物の好き嫌いをしては、ハンバーガや簡単なインスタントラーメンなどを食べてばかりいた。
逆にしてみた考え方では、何でも不自由だらけでは嫌気がさしてしまう事はあっても、又あまり風情ではなくなってしまう事も、ある意味では何処かで味気なさを痛感してくる。
簡単に手軽な美味しい物が、お金を出せばすぐに食べる事のできてしまうような今現代である楽な時代。
けれども、そのような手軽な時代も、もしかしたら危なくなってきているのかもしれない。
何でも楽なものへと馴れてしまっているような現状は、いつまで続くかわからない。
実に不安となる未来が待っているとしても、先の事は今から重く受け止めたりはしない。