(36)『ださ過ぎてはいけない』

5月 2nd, 2008

 いつまでも同じような、古いままの考え方や、物事への価値観などを、ずっと変えない事は良くない気がしている。「古き良き時代」といった言葉もあるが、そのような事は遠い昔に終った頃での事期であり、現在としての世代ではない。
 昔の時代には、今ではないようなゆっくりとした良さもあっただろうが、その時なりの不便さや不自由な事も数多くあったに違いない。
 今や、多くの年若い女性達が働くような時でもある。
 強い男などよりも、女の心や精神力が、最も強く、そして場合によっては男らしく思えてくる。男はださくて、女の持つ心は一歩と前を向いた姿勢でもあり、ださくなどはなく、決して男からは馬鹿にできたものではない。

(35)『脇道に反れながら』

5月 1st, 2008

 人通りが多いような、主である本道だけを歩かない。本線道には出来るだけ足を運ばず、主ではない支線道へと好んで進む。
 全うな人生の表道ではないような出会いや発見などが、裏道にて出会える事もある。あまり一目には付かずに、土の中へと隠れているモグラや、又は溝に潜んでいる野ネズミのような、暗く目立たない場所を好む生き物だって生息をしている。
 彼らモグラや野ネズミなどは、それ程に可愛がられるような事はなく、ペット屋にも売り物として飼育をされている事はないように思う。
 中でも、ハツカネズミは実験等に扱われてしまう事が多く、そのような目的で飼育をするならば、自然の空気での野生へと返すべきにも思える。
 溝の中や下水道に生息をしている、通称「溝ネズミ」と言われている汚いネズミ達は、あまり誰からも可愛がられるような事はないかもしれない。
 だが、自分からしてみれば、溝ネズミも可愛い生き物に思う。どんなに人気がないにせよ、又、どんなに誰もからも好かれないにせよ、人目に付かない暗く汚い環境の中であっても懸命に生きる姿は、ある意味では人間よりも素晴らしい。
 この題目での話題としては、全うな人生の道を歩き、胸を張って生きる事が人生の主題ではなく、本道はない脇道へと反れる事によっては、自分にふさわしい生き方が発見できる場合があるかもしれないと言った事を強調して述べたい訳である。

(34)『過ぎ去った日々』

4月 3rd, 2008

 毎日、現在での自分が居る現実を見ては、時計を元への過ぎてきた時へと戻したいと思う事がある。実際には、無理であるという事は十分にわかっている。
 全てを、過去へと戻したい訳ではなく、自分の中で二度とはふり返りたくないような時期もあれば、出来る事なら何年か前の時期へと遡り、そこから自分を出直したいと思っている事が、今でも心に強く残っている。
 その頃、どれだけ自分が恵まれていた事であるか、又、どれだけ幸せであったかなどと。
 2003年の3月から、何月が経ってしまった5年間。
 今でも5年前の時を、自分の中で美化をするように思い出してばかりいる。
 前を向いて進んで行く事が、人生の目的であるのかもしれないが、本当にそれだけが生きる全てであるとしたなら、それ程までに切なく儚いものはないだろう。

(33)『団子より花』

4月 2nd, 2008

 普通では、その逆で「花より団子」と言われている。しかし、見ためで美しく見えるのは団子などではなく、野に咲く自然の花々や雑草であるように思える。
 3月に咲く「スイセン花」や、桜など、また他の色々な雑草たち。
お金の値打ちや価値などでは計る事の出来ないような野生の花々にしかない素晴らしさ。
 何でも金で動いている世の中や人間社会の中で、ないがしろにしがちであるような事におき、どこかで忘れかけていたものを、ふと足を止めて思い返してみる。ただ、先へと進むだけが人生における全てではなく思うこと。

(32)『暇でいる事への苦痛』

4月 1st, 2008

 人間にとって、とくに病気やけがなどの状態もなく、体に何も異変がないような普通の容体である時に、全く何もしないで退屈にしている事ほど、実にあっけがなく、まさに虚しい事はないだろう。
 頭の中では、(暇であるなあ・・・)。その暇という一文字だけが思い浮かんでは、さらに余計な事まで考えてしまう。けれども、とくに何かをしたい訳ではなく、逆に何もしたくはないと思うような気持ちが多くあり、要するには怠けていたいだけである。そのように無気力である時には、あまり余計なことなど思い描かずに、静かに流れを見送れば良い。
 或は外へと出かけ、何も用事がなくても表の空気を吸い、一、二回程の深呼吸をしてみると、どこかで気分的に落ちついた気持ちとなる場合もある。実を言うと、今現在において自分が暇でどうしようもないような状況におかれており、このような文章を書いたのである。

(31)『平成20年を迎えて』

3月 28th, 2008

 今年もまた、新しい年が始まる事となった。自分が幼い子どもの頃は、正月になるとよく身内での親戚にご挨拶へと行ったりしては、その度にお年玉をもらっては喜んでいたものであった。その当時、自分はまだ子どもであった事もあり、多くの親戚の人達から何かと可愛がられては、とても喜んでいた幼い時の自分であった。
 現在では、自分もすでに成人を過ぎた大人としての年齢となり、昔のように多くの親戚の人達も、皆、会わなくなってしまったのである。自分が20歳を過ぎてから、現在での30代を迎えるまでの一年一年は、まだ幼かった子どもの頃に比べて、歳月が過ぎてゆくのがやたらに早く思えてくる。
 ずっと子どものままではいられないかのように、自然と時は流れてゆく。従然なるままに、日々の暮らしは終止符を遂げる事もないまま、あっけもなく過ぎるだけである。
 年が新たに明ける事での、一体何がめでたいと言うのだろうか。ただ単に、年月が過ぎて入れ変わるだけの事である。このような事など、あまり疑問を抱いたところにおいても何がどうであるという事はないので、そっと目を反らして見過ごしてしまえば良い。
 取りあえず、今年も色々な意味において、不真面目である事がより自分にとって、まさに、ふさわしい年でありますように。新年から早々にも、そのように自分の中で暗示をかけたくなってしまう。

(30)『日常生活でのめり張り』

3月 1st, 2008

 自宅でくつろいでいる時と、外へとでかける時とでの気持ちの入れ替えは重要である。
 身だしなみや、きちんとした服そうに着がえたりなどと、ある程度の緊張感を持つ事も、時と場合によっては必要であるように思う。
 出かける前には髯(ヒゲ)を剃り、とくに人と会う時などには何も飲食をしてなくても歯を磨き、その上でも口臭予防用のガムをかんだりと、エチケット等にはよく気を使うものである。
 自分は不真面目な人間でいるわりには、身なりや服の格好など、それ以外に口臭や体臭などにはかなり気にかけるほうである。自分に対して自信が持てず、いかなる場合においても、人前で胸を張っては堂々とできない。
 また、なにもそのような自分だからと否定的にも思わないのである。不真面目で自分に対して自信が持てなくても、生活面でもめり張りはきちんとしたい。どんなに怠けていても、また、どんなにふざけた人生を送っていても、他の人間にはないような自分の生涯における中での、様々な場面でのめり張りがある事に、自分としてのふさわしい人生でありたいと願う。

良い子は読んでは、いけません。

2月 1st, 2008

[本の紹介]=このブログに記載しているエッセイは、2006年中旬頃から一つの日記文として、日々における様々な心境の変化などを一冊の本にまとめたものです。

28作までは左の「世間は虚仮なのよ」に収めています。

買ってみて下さい。

作者:お惚け者

内容:エッセイ集。 74ページ。

発行所:あゆみ雑貨店 (TEL:03-3654-0181)

価格:500円(税込み)

送料:80円