一途に何かに向かい自分なりの感覚と経験でそれを会得する力は十代で最高に達します。これは思春期を代表するものではないでしょうか。それに続く青年期では、この様子が発展または衰退します。
ある人はそれによって自己成長の感覚をつかみ自己学習能力として回転していきます。思春期時代にこの感覚を得た人はそのまま進んでいけばいいのでしょう。いずれ別の壁にぶつかることがあるとしても…。
他方では、思春期にこれをつかみえなかった人もいます。こちらの方が大多数をしめます。妙に事態を見越して動いてみないまま結論を出して行きがちです。大したことはない、やっても無駄、という感覚になり動こうとはしないのです。その感覚まではいいのですが、大したことはない、やっても無駄という結論は言いすぎです。自分には結論を出す条件はないからです。自分の経験による類推で出す結論です。それが言いすぎなのです。青年期の課題は社会との関連においてこの部分が中心を占めるようです。
12月1日、「不登校の子供への対応―ミニセミナー&質疑応答の会」を開きました。参加者は中学生と高校生の母親4名です。相談員はトカネットの藤原宏美さん、教育カウンセラーの田中登志道さん、それに松田です。
質問のなかに、30代ぐらいの引きこもりの人への対応と十代の不登校の子どもへの対応は同じでいいのか、というのがありました。これへの答えを考えたときにいろんな事例とその背景を考えるなかで思い巡らせたことです。
例えば、絵を書いている人に「いまの自分で描ける最高のものに挑戦」というと、十代の子どもは乗りやすいですが、20代後半以上になるとほとんど乗ってはきません。ごく普通のことのようですが生活のいろいろな場面でこういう事態は生まれています。
十代・思春期はある意味で無謀なのです。ときには逸脱もしますが何かもつかみます。青年期になるとそうはいきません。物事をある程度経験しているので、先が読めるといえばそうですが、未知のことに対しやらずの結論を出し、臆病になります。
不登校や引きこもりを経験する人においては、これがさらに極端になりやすいです。もちろん個人差はつきものです。これを「乗りがいい」と俗語で表してしまいますが、もう少し精密な言い方もあるでしょう。
これが先ほどの親の質問に答える内容になるのです。十代は多少、引っ張っていく方法が功をなすことがあります。20代後半以上になるとそのやり方が、妨害になりやすいのはそのためです。基本は同じく本人の状態に基づくことです。そのうえでいくぶん違う面があるということです。
「不登校の子供への対応―ミニセミナー&質疑応答の会」の次回は1月12日、土曜日午後です。十代の不登校生の親の参加を待っています。場所は不登校情報センターです。