高校入学試験の季節です。いろいろなことを耳にしますがそのなかの気になることを一つ。
「作文」です。競争率が1倍を超える、不登校生が比較的集まる高校への入学前に求められる「作文」です。競争率が1倍以上とは入学できない生徒がいる、その条件の中での「作文」です。
どうやら不登校はすでに過去のこととして“前向き”の姿勢が感じられるものが「作文」において“喜ばれる”ようです。生徒本人はもちろん家族がそのような作文作成に取り組んでいます。
なかには「作文が書けない!」と困惑する生徒がいます。そんなウソっぽいことを書くのに気乗りしないし、それが喜ばれる高校に抵抗を感じてしまいます。むしろこちらの方にこそ真実性を感じます。
受け取る高校側もそれが実態とかけ離れた「作られた文」であることはお見通しのようです。
毎年繰り返される入学時の作文です。何回も重ねればわかることです。
もしかしたら一度はそんなことを書いてみる意味はあるとでも考えているのでしょうか?
それならそれは教育の劣化であり、入試担当教師の堕落であると言いましょう。
あるいは「そのような作文を入学選考においては優先してはいない」というのでしょうか。
そうであればいいのですが、にわかに信じがたいことが残念です。
次は入学試験とは別のときの作文の例です。
環境問題についての授業の後、「作文」が課題になりました。
その生徒は「こんなに多くのものが生産され、氾濫している中では環境を守ることは無理ではないか。生産や無駄なものを生み出さないことが大事だと思います」という趣旨を書きました。その評価は0点でした。
教師は生産された物のリサイクル、リユースなどをよしとしたのでしょう。しかし消費面や再利用を環境問題にするのは一つの視点です。生産に目を向けるのがより根本的ともいえる着眼点です。教師の狭い、ある枠の中の評価が、子どもの側の視点を受け止めきらないのです。こちらの方が問題は大きいと思います。少なくとも0点はありえないでしょう。
大人の側、教育する側の視点、都合が優先している教育状況が「作文」に表れているのです。私は不登校の子どもに関して1993年にこう書きました。「この子たちは社会についていけないのではない。むしろ、社会のゆがみについていけなかった、いけないのではないのか?」と。