感性が高い世代とよぼう

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 あるベテランの教師から聞いた話である。若い先生は、生徒や父母からの話を同僚の教師の間で話し合うのではなく、校長や管理職に報告する。教師間の話し合いがなく、いわば指示命令形でどうするのか決められやすいというのだ。もちろん全てがそうなっているとはいい難いが、心もとない感じがする。
ちょっと飛躍するが、国会で議論する過程が軽視されて内閣(閣議)決定で大事なことが決められていく国の姿のミニ版のようにも思える。どこかの権威主義国家に近くなっているともいえるかもしれない。かなり多数の企業社会や社会団体の意志決定過程は、そういうものが中心的であったと思うが、それが政治・統治機構にも広がり始めているのではないかと思う。企業社会の意志決定方式が学校などを含む社会団体にも広がっているともいえる。
これを支えているのが、もしかしたら「不登校・ひきこもり世代」——という言い方ではうまくないので「感性の高い世代」とよぼう——の1つの流れを構成している人たちかもしれない。個人主義的ではあるが、意見交換をして共通する認識や決定過程を低下させているのではないか。
この「感性の高い」世代の肯定的・積極的な要素が生かされていないと思う。この感性の高い世代は、家族が大きく崩れている社会の中で高齢化した親の介護を担う役割をもつ。就職氷河期を体験した世代でもある。情報時代社会を先頭になって切りひろげ、普及させていった世代でもある。個人の権利を認められながらも、それを社会に生かす道を見出せないでいる。
こんなことを今年の春先に書いていた。忙しさにかまけて、その先を書きそびれたのは先が見えづらくなっていたのかもしれない。
でもそれだけではなさそうな気がしてきた。結構いい抵抗力も示してはいないか。校則を見直す、中高生などの姿にそれを見る思いがする。地球温暖化をめぐって環境改善に立ち上がる人も多くいる。社会的格差や差別を摘発する動きも広がっている気がする。
「ゆたかな時代の教育方法」として書き始めたものを8月初めでストップしていたが、一応の締めくくりとして、最終(9)回をこれで締めくくることにしよう。

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