『統失宇宙からの手紙』を文学賞に応募

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半年余りにわたる統合失調症の人と私とのメールでのやりとりを『統失宇宙からの手紙』にまとめました(以下『手紙』と記します)。それをある文学賞に応募しました(2024年12月16日ポストに投函)。
小説、文芸評論、戯曲の3つの応募部門があり、応募するのは小説部門です。夏ごろに文学賞に応募したいと相手(主著者)に話したところ同意し、むしろわくわくしている気配がしました。
さて『手紙』は小説でしょうか? その前に文学でしょうか? 少なくとも私には判断できません。お門違いによる門前払いになるかもしれません。それは1つの判定として受け入れます。
もしかしたら小説(の一種)として受け入れられるかもしれません(往復書簡が1つのジャンルと教えてもらいました)。受け入れられる判断を私はこう考えてみます。日記文学は紀貫之に始まる中世からの伝統があります。紫式部、和泉式部らの日記は文学扱いされています。平安期のこれらの人には、それを文学として意識していたとは思えません。文学という言葉もなかったのではないでしょうか?
紀行文は松尾芭蕉『奥の細道』などが知られています。これらの日記文学、紀行文は、和歌や俳句という独立した文学作品がくみ込まれているので、全体が文学作品に扱われやすかったのではないか。これは私の勝手な解釈です。
『手紙』は、これらの文学作品と比べて、かけ離れているように見えます。しかし、作者の体験をリアルに筆致した点では共通しています。改めて読み返すに、これは実践記録―広義のメールカウンセリングの実践記録といえるかもしれません。
文学作品は、万葉集以下の和歌集、近代の詩集を除くとほとんどが個人著作です。『手紙』は私と主作者二人の著作になります。この点も文学の枠の範囲かどうかを問うことになるかもしれません。共作の文学作品(とくに物語り作品)を私は知らないからです。
『手紙』は実際のメール文の再現によります。その背景を私が「まえがき」として説明しました。現物の手紙そのものを文学として扱えるのか? ここも微妙でしょう。型破りかもしれないし、それは全く問題にならないかもしれません。
これら全部が認められたとして、その作品レベルが一定水準に達しているのか?
それは私の判断するところではありません。しかしそれが入選レベル(合格レベルル)であると認められるなら、SNS等で交わされている多くのやりとりには、文学作品レベルのものが数多く含まれている1つの論拠になると推察できます。
これら全体が私にはわかりません。しかしそういう一石を投じることになればいいという意味で、私にもわくわく感があります。
一応の完成から数か月たちました。往復書簡の主著者と私が読み返す期間になりました。読み返して感じることは、感動というよりはある種のやすらぎです。一般読者がどのような印象を持つのかは、本当に見当がつきません。統合失調とはどういうものか、そこに関心を持つかもしれません。それ以上にメール交換自体が文学作品となりうるのか。こちら側に関心、疑念、見直し、不思議さを感じるかもしれません。私にとってもそちらが注目点になります。
作品受付期限は来年1月末です。結果発表は5月ごろなので、まだ相当な時間があります。どういう結果になっても残念とは思わないでしょうが、その理由を今のうちに書いておきました。合格レベルであればもちろん嬉しいし、主著者とともに喜びたいと思います。

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