GDPを超える人間の幸福基準

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ひきこもりの(心理的背景理由ではなく)社会的背景理由を考えるなかで、私は家事労働に迷い込みました。思い返すにそうなるだけの理由はありました。数人の男性からきいた話です。ひきこもっていては家族に申しわけがないとの思いから、室内の掃除など自分にできることを始めました。

それに対する家族の反応は、「そんなどうでもいいことをしていないで、早く働くようになれ」という叱咤でした。それに反発する気持ちが生まれる人もいましたが、たしかにその通りだ、と思う人もいました。女性にも同じ行動をしていた人もいたと思いますが、女性からはこのような訴えを聞いたことはありません。当時の私はこの状態を特別にとりあげて考えることはありませんでした。

一昨年のことでした。すでにひきこもりの社会的背景理由——特に経済社会的な事情についていくつかのエッセイを書いていた時期です。摂食障害に関わるNABAの会報に〈すず〉さんの投稿がありました。〈すず〉さんは無職であり、両親はじめ祖父やきょうだいの世話をする生活をつづけていました。ヤングケアラーの年齢を超えて(!?)家族の世話を続ける生活でした。ところがその家族の世話は社会的な評価は0(ゼロ)、何の価値評価にもならないことへの抗議でした。

〈すず〉さんの訴えはもっともであると思いました。彼女の家族へのケアサービスが認められないのは、労働市場に出ていないためでしょう。同種のものであっても評価されないからです。*これを〈2023年9月18日〉にこのブログで紹介しました。

またこれをめぐるいくつかの事情を考えました。有益な活動や作業であっても、社会的に価格評価されないものは他にもあるのではないか? ボランティア活動などです。一定の評価対象であっても、十分に表現されないものもあるのではないか? たとえば自給自足生活です。そして家事労働の多くもそうです。整理していけば他にもそれに該当するものはありそうです。

一言でいえば、市場に出ていないこと、社会的な交換の場に出ていない、またはそれが特殊なことになっていると思えることでした。世界には、とくに市場経済が行き渡っていない地域には、このような社会的支援の場に出ていない生産活動は広く存在します。いや人間の歴史の大部分はそのようなものと言えます。時間的・空間的に市場経済による価値評価が行われているのは特別であるとも言えます。

市場経済一般というよりは、資本主義的な市場経済が広がるなかで、人間の生産(およびサービス)活動は、価格で評価されるようになりました。それがGDP(国内総生産)という数値にまとめられたのは20世紀に入ってからのことです。一般に使われたのはまだ100年も経っていないのです。むしろGDPで評価される人間の生産活動の時代が、先端的であるとはいえ、なお特殊でさえあると思います。

発展途上国といわれる多くの諸国では、一人当たりのGDPがはるかに低いレベルであっても、生活面では必ずしも破滅的な状態ではありません。経済・所得の格差(貧富の差)は大きくとも、考えようによっては精神文化的にはゆたかな生活と思える地域もあります。こうなる理由は単一の原因で十分に説明できるとは思いません。

ただ一人当たりのGDP、経済的な側面だけで人間の生活レベルを描くこともまた十分ではない、と考えられるのです。国連提唱のSDGs(持続可能な開発目標)の17項目も、経済的基準ばかりとは思いません。家事労働を考えるときにもこのような視点が必要だと考えます。

私は家事労働のあれこれを、GDPに比較できる要件を探していますが、それは限度のあることを前提としています。それを補足ないしは代わる別の基準、経済的に価格換算する以外の基準が求められると思います。

それはマネー遍重・偏在の幸福基準を考え直すことかもしれません。それは社会的満足度を計る(価格以外の)基準です。例えばジェンダーの平等性、言論・表現の自由などが入ります。これらには指数やランキングで国際比較されるものもあります。

自然条件は非社会的な要素ですが、言語・人種・男女などは非社会的な要素ですが、社会的要件に含まれることも多いです。地域により公平性がなく社会的満足度に影響するからです。精神的満足度も価格以外の基準になります。これも指数やランキングで表わされるものがあります。

これらの社会的満足度や精神的満足度には、家事労働の役割は関係します。それらには吸収されない独自のものもあります。家事労働の評価は、人間の生活全般レベルに大きくかかわっているにもかかわらず、社会的満足度の対象にされていないのが現状です。

最後に誤解なきように願うのはGDPを軽視することではありません。それを操作して見せかけの繁栄を示すことなどは論外です。

*「家事労働、換金計算されない労働の空白(Lie)」と掲載し、同じ文を 2024年2月2日に再掲載しました。

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