社会における家事労働の位置(下)

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ひらめきはここでした。日常にありふれており、そうであるだけにさして重要性に気づかないものがある。「主婦の家事労働」もそれではないか。それは慣習であり、自然にくり返され、疑われず、それでいてこれという定式的な価値判断からは外されています。
ある人の家事労働は、深く感謝されることもあります。ある夫は妻の家事労働を分担以上に手伝ってくれます。しかしそれはある種の珍しい事例ではあるにしても一般化された社会的共通認識とはされていません。特徴的なのはGDPにカウントされない生産活動であることです。GDPが考案されたのは、A.スミスからは相当に後の時代です。
A.スミスは土地から切り離された自由な労働者は、自分の労働力を商品として扱かわれる人と気づきました。家事労働については何かを気づくきっかけ、視点が見つけられるのでしょうか? 
それはむしろ逆に「自由のなさ」を特質としているのではないのか。労働力を商品化できる人の「土地からの自由」は、不運な状態であると思えたでしょう。財産からの自由が財産を持たないことであるように、土地からの自由は土地を持たないことなのですから。
それに対して、家事労働があること、「家事労働からの自由」がないことは、一家の主婦にとっては逆に幸運な状態にあると言えるのかもしれません。両者は感覚的には反対におかれていると思えます。そうであるから、家事労働については何かが見過ごされてきたとも言えるでしょう。これに関して早急に何か結論めいたことを言うわけにはいきません。今回はこの点はすすめません。

もう1つの問題意識にふれなくてはなりません。特定の時代の社会の性格は、そのときの商品(およびサービス)が、どのように行われていたかによって、——すなわち生産手段の所有関係とそれを関係する社会の構成要素を見ることによって理解できます。
これはA.スミスよりもK.マルクスにより深く研究されたものです。しかしマルクスは(むしろ盟友のF.エンゲルスは)もう1つの規定要因を指摘しました。それは家族関係です。人間の家族関係にも、変遷の歴史があります。現代の一夫一婦制の、とくに核家族化した状態は古代から連続しているのではなく、やはり近代の状態といえます。生産関係ほどには鮮明ではありませんが、所有・生産関係に対応して家族関係も変わります。両者が時期的にピタリと一致するのではないと思いますが、おおよそ相対するものとみられます。
家事労働もおそらくよりゆるやかに変化してきた歴史があると思います。家事労働を追求していくと、家族関係の変化につき当たるのではないか。そのように想定できそうです。
最後に『国富論』が、学生のために用意された書物でないことも安心材料です。この点も私にはこの本を買わせる誘因でした。私は家事労働とその周辺のあれこれを少しずつ書いてきました。まとまりがなく、というよりもまだ核心をとらえていないために、アピールする内容に欠けています。あれこれの面を考えてきたそれぞれを、その全体をまとめるのを優先しない、それでいいと思えるのです。

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