「ひきこもりの人の見方が甘い」に答える

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ある人から松田さんはしばしば、ひきこもりのことを「無害な善人」のように書きますが「そうとも言えないのではないでしょうか」と言われました。それへの私の答えです。
私の言い分をそう受けとるのはもっともなことだと思います。もちろん全員を文字通り「無害な善人」と考えているわけではありません。少なくとも否定的な表現は使わない、できれば肯定的な面を前面に出したい、と考えています。
1人の人間はいろんな面をもちます。私は人を「社会的な面と、非社会的な面がある」ととらえます。身体条件(身長、容姿など)や性格などは非社会的な面の代表例です。
社会問題として考えるとき私が重視するのは人間の社会的な面です。社会的にハンディを持つ人、その代表は身心にハンディをもつ障害者です。当然なことですがその中にはいい人もいるし、どうかと思う人もいます。しかし、これらの人は置かれた状態に対応するため、多くの苦心がさけられなかったと思うのです。それは素直な人間の成長を助けたかもしれないし、その成長を壊したかもしれません。それがどう表れるのかは個人の特質やどうにもならない環境かもしれません。この前半の心身の障害をもつ個人、それが社会的な人間の面です。
子どもはどうでしょうか。一般に自分の力では自分を守ること、対処することはできません。子どもにも苦心はあるでしょうが、しかし未来があります。子どもであることが(ハンディがある人)、社会的人間の面です。
高齢者はどうでしょうか? これはとくに一律には見られません。経験だけでなく資産・経済力、あるいは社会的存在で同じ高齢者といっても格差は大きいです。一律に「社会的にハンディを持つ人」ではないでしょうが、それでも多くは心身のハンディをもち、ハンディをもつ社会的人間は多いと思います。
女性はどうでしょうか? 男性優位社会において一般にはハンディのある社会的人間ですが、高齢者と同じく個人差が大きくあります。社会的人間が、その人個人の振る舞いに表われる性格に影響する前段の状態にあるとみるのです。
さて「ひきこもり」は社会的人間の面でみるとどうでしょうか? 一部例外はありますし、そして個人差(家族の状態などに左右される)はありますが、全体としてハンディを持つ社会的人間に属すると考えられます。
これらのハンディを持つ社会的人間は、他にもいろいろいます。差別を受けやすい職業につく人、経済的な困窮の人などです。
私はこれらハンディを持つ社会的人間に対しては、その非社会的な面(といっても個人差は大きいのですが)の振る舞い、言動、性格などを「甘く」とらえます。それでいいと思っています。もちろん程度もありますし、限界もあります。ハンディを持つことによる、ゆがみ、焦りから受け入れ難い事態を招くこともあるでしょう。その程度や限界を超えるものには批判的でありますが、一方では同情することも多いのです。
ひきこもり当事者間がうまくいかない例がよくあります。たぶんここに原因の一端があります。何かを断念したが故の反発心も見えるではありませんか。私が全てのひきこもりを「無害な善人」としているとは思えませんが、できればそうであることを願ってさえいます。そうなってほしいのです。個人関係では率直に伝えることもありますが、一般に表現するときは社会的なストレスを受けた人たちとして「無害な善人」のように書くことは多いと自認しています。

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