会報「ひきこもり居場所たより」2024年7月号
今月は依存についてまとめて書く予定でした。記憶をたどると、以前に書いたことがあります。調べると会報66号(2022年10月)に「依存を条件付きで認める持論」を書いています。その要点はこうです。人は子ども時代の依存(甘え)を体験することで、依存を乗り越え自立に向かう力をつける。子ども時代の依存の欠如は、社会に生きる力の欠如となり、成人後もそれを補う姿が表れる。それを肯定してもよい。そういう主旨です。成人のひきこもり的振る舞いを「もっと勧めてよい」という意見を寄せてくれた人もいます。
読み返すといくつか書き加えたいこともあります。しかし、そこは字句を少し加えるにとめ、依存の不足、子ども時代の愛着体験の不足が、成人後どのような状態になっているかを書く方が大事だと思いました。今回はそれに代えます。
基本テーマは2つ、就労の問題と、結婚(または家族)の問題です。そういうところに影響していると思えるのです。その延長としてもう1つの社会問題が加わります。
〔1〕就労の状態
まず就労の問題です。私が想定しているのは、30代から50代ぐらいの中高年になっている元ひきこもり経験者たちです。この世代は「就職氷河期」世代ともされるわけで、世代全体が就職難の時期を体験しています。その中でもひきこもりは、この激しい就職競争の外側におかれていたわけです。
そういう人が30代後半以上の中高年になった現在はどうか。個人差は当然大きいのですが、私が関係する人を思い浮かべながら概略的なことを書きましょう。通常に就職型で働く人は比較的少ないです。軽作業(清掃や商品整理)、飲食関係が多いです。非正規型の就労形態にあたる派遣型、アルバイト、パート就労、あるいは短期間労働が目立ちます。
一部に介護職の常勤・正規職の人、福祉の相談職の人もいます。知識集約的な専門職の人は少ないですが、医師や行政書士もいます。別口で情報収集している心理相談室のカウンセラーには元ひきこもりの人もいます
親から引き継いだアパート経営をする人、株式投資家をめざす人もいます。おそらく趣味的なことから進んだと思いますが、手作り作品の制作販売をしている人もいます。かなり販売できている人もいますし、あまり売れてはいないと想像できる人もいます。安定すれば独立の自由業になるでしょう。小説などの創作活動をしている人もいますが時節柄多くは売れるレベルではないと思います。
診断(発達障害=発達神経症)を受けて障害者雇用になる人、就労移行支援事業所に通う人もいます。
中高年世代の仕事の状態は、私がそうであった30~40年以前とは大きく違っています。生じている現在の状態を、どのように考え、受けとめればいいのか判断しがたいのです。というのは「就職氷河期」世代以降は、非正規雇用の人がかなり多いのが特色です。これは自然にそうなったのではなく、政府の政策的な意図が働いてつくられた雇用状態です。
この年齢のひきこもり経験者には、就いても短期のアルバイトやパートの人が多く、転々と職を変えざるを得なかった人、全く職についたことがない人もいます。これは私が関わっている人たちの範囲で確認できることです。
見方を変えて言えば、日本社会のこの30年の停滞がそのまま全体に表われています。ひきこもり経験者はこの「就職氷河期」世代の中に溶け込んでいます。その中でも全体として不安定度の高い部類を構成しているのです。その重大な原因は子ども時代に経験した不適切な養育に関係する人間関係の不安定さ、社会への不信であり、子ども時代の依存の欠如の結果が尾を引いていると私は認めます。
〔2〕結婚と家族について
次に結婚について、30代から50代になった中高年はどうでしょうか。私の関わる人たちを想い起こしながら書いています。結婚し、子どもがおり、家族をつくっている人がいます。いくぶん似た状態ですが、同棲、事実婚と考えられる人もいます。独り身のままの人もいますし離婚した人もいます。この状態は、ひきこもり経験者だけの事情ではなく、この世代で結婚する割合が低下している点など共通します。
家族の状態が社会全体で大きく変わりつつあります。同棲、事実婚と考えられるけれども、結婚という形にしない人が増えているのです。これは規範が緩んでいるというよりも、家族の状態が大きく変化していく時代に対応しているのです。夫婦別姓、同性婚などのLGBTQの正当性を求める動きが重なっています。要素が重なっているよりも、婚姻の状態全体が変化しつつある時代を表していると考えられるのです。
これは男女ともにいえるのです。私には同棲、事実婚、結婚において(私が知る範囲に同性婚はいません)、ここに子ども時代の依存の欠如、愛着の欠如を補う姿と考えられる数人います。
確認できるのは女性側のもので、パートナーの男性を「兄のように慕っている」とか「夫に甘えちゃっている」と話してくれました。これは子ども時代からの愛着の欠如を補う心理・行動とみることもできます。つまり相手が受けとめられる限りにおいて肯定的な振る舞いです。男性側で同棲、事実婚、結婚になっている人もいますが、彼らからは具体的な言葉を聞いてはいません。それでも周囲の人からはそれに関係する振る舞いを聞いたことはあります。
心配が大きいのは、独り身の状態のままの元ひきこもり経験者です。こういう人たちも男女ともに状態は同じではありません。あるとき「結婚することに何が期待できるのか、特に感じるものがない」という言葉をききました。以前に「大人になることは苦労とか負担ばかりが多くなって大人になりたくない」という言葉を聞いたことがあります。両方とも少しはわかる気もするのですが、このあたりが結婚に向かわない理由の1つと受けとめましょう。
独身の男性側は安定した仕事に就けないのが基本原因と思いますが、結婚に向かう行動エネルギーの低下と責任感の重さに尻込みしているのではないかと推測します。これも少なくともここに子ども時代の愛着経験の欠如が尾を引いていると思います。ただそれだけで全体の様子を話せるかどうかは疑問です。多かれ少なかれ影響している人が少なからずいると推測できる、というあたりに留めましょう。
30年後、40年後を思いうかべると(つまり今の私の年齢である80歳前後になると)、孤立・孤独の問題が、他人事ではなく自分にふりかかってくるのではないか、と推測されるからです。ひきこもり経験者にはこの割合は特に高いのです。特別の社会的な対応をいまから整える必要があります。
〔3〕地域共生社会
就労と結婚(家族)の問題は、所得(収入)、住宅、老後の生活に直結します。所得(収入)に関しては生活保護の受給になっている人がいます。障害者年金の受給者もいます。年金保険は家族(親)が払ってもらう状態の人が少なくありません。年金等は最低限の条件であり、それがあれば大丈夫というわけではありません。こういう問題はひきこもり経験者だけではなく、社会の多くの人に共通する課題でもあります。
私はひきこもりに関わった視点からこれらの問題をみています。しかしすでに孤立・孤独は社会問題になっています。ひきこもりに関しては特に8050問題という特別の言葉が生まれています。こうした孤立・孤独にしても8050問題にしても、すでに自治体レベルでかなり重大な課題になっています。家族が小さくなり(核家族化)、人口減と相まって地域の共同体の協力関係が低下しているなかでは、自治体が前面に立って取り組まざるを得なくなっているのです。東京という大都市と周辺においても地域の協力関係は低下しています。
数年前から多くの自治体が「地域共生社会」を掲げて取りくんでいます(厚労省が全国的に進めている)。私の理解では、この課題の出発は障害者への対応であったと思います(?!)。ところが全国各地では人口減が進行し、少子化問題と重なり、地域自体の衰退(消滅可能性自治体の増大)が発生し、地域共生社会は、障害者への対応を超えて広い意味をもつようになりました。ひきこもりに根をもつ8050問題もこの状態の中に包まれています。孤立・孤独への対応などの対象の一部になってきました。
ひきこもりの原因はいろいろであり、多様とされます。それは認めていいとは思います。しかし成人し、就業や婚姻に個人的背景事情と考えられるのは、子ども時代の依存体験の欠乏が大きく響いていると私は考えています(関係ない人もいると認められるにしても)。
この子ども時代の依存欠乏、その後遺症的な継続が続いています。それは原因というよりも、逆に時代の移行期における人々の対応のズレ、世代間の違いから生まれた結果でもあります。ひきこもりの経験者は、この時代の変化を繊細・敏感に感じ取り、影響を受けた人たちです。特別の社会的な対応を考えなくてはならないと思います。
就業(社会生活)や結婚(家族生活)の機会や経験を持たず、周囲の人や地域との関係ができない状態であれば、社会全体のレベル、すなわち自治体や国の社会福祉の対応として支える方向に行くしかありません。それは社会の負担(損失)ではありません。貴重な人的資源(いい響きではありませんが)であり、現在の状況においては社会が成長し、発展していく過程になるとは私の意見です。
まとめて言えばこうなります。ひきこもりへの社会的対応は、より大きな教育・医療・心理・保健・福祉・就業(失業対策)・貧困などの大枠の一部として考えられ取り組まれてきました。それらの結果はきわめて不十分なものでした。ほとんどの場合に各施策の外側におかれ、後回しにされてきました。社会関係から遠のいている状態、途絶しやすい状態のひきこもりに対応するには、それぞれの大枠の中の一部ではなく独自に対応することが求められるのです。
全国ひきこもりKHJ家族会連合会が「ひきこもり基本法(案)」を求めて動き出したのはこれに関係します。私の考える方向と同じでしょう。日本はこのような道をたどって、少なくともそういう面のある過程を通して進んでいくのです。