(3-2)高度経済成長によるゆたかさ社会への接近

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③家庭用電化製品——消費革命、専業主婦の増加、アルバイト・パート雇用増加
「多様な家庭用電化製品や自家用車、ナイロン、ポリエステル、アクリルなどの合成繊維を用いたカラフルで安価な大量生産の衣料・雑貨品など、高度成長期には重化学工業の発展によってさまざまな新しい製品が登場した。所得上昇にともなう個人消費支出の拡大と新しい製品の急速な普及は、いわゆる「大衆消費社会」ないしは「消費革命」の到来をもたらし、人々の生活様式を大きく変化させることになったのである。
新しい家電製品の登場によって都市部の人々のライフスタイルは大きく変化し、それはやがて地方部にも波及することになる。たとえば、電気洗濯機の登場によって、人々は盥(たらい)と洗濯板で衣類を洗う重労働から解放されることになった。また、冷蔵庫や電気炊飯器の普及によって、家庭で生鮮食料品を保存することが可能になり、炊飯のために薪を割って火をおこすこともなくなった。電化製品、そして冷凍食品に代表される各種の加工・半加工食品の普及は家事労働の省力化を促し、とりわけ家庭をもつ既婚女性に時間的な余裕を提供することになったのである。高度成長期には所得上昇を背景に専業主婦になる女性も増え、1955年に517万人であった専業主婦は1970年には1,213万人へと増加した(内閣府2002b)。しかし他方で、いわゆるアルバイトやパートタイムなどの非正規雇用による労働が工場や会社に登場してきたのもこの時期のことであった。1960年ごろを境に労働力不足経済へと転換したこともあり、家事労働の革新と省力化によって時間的余裕の生まれた既婚女性がパート労働者として働くケースがしだいに多くみられるようになっていく(塩田1985)」(P271-272)。

④ 商業の発展変化
「大衆消費社会の登場とライフスタイルの変化は、同時に商業の発展を促した。…卸・小売業は1955年から73年にかけて、実質生産額で年率15.1%の増加をみせている。また、この時期の商業は量的に拡大しただけではなく、のちの時代へと続く新しい小売業態の登場がみられたことも注目に値する。1950年代には食料品や日用雑貨を中心にセルフサービス方式で販売をおこなうスーパーが誕生した。50年代後半から60年代初頭にはダイエー、ヨーカ堂(現イトーヨーカ堂)、西武ストアー(現西友)などがセルフ方式のスーパーを出店し、60年代半ば以降には本格的な全国展開を進めた。1972年にはダイエーが小売業売上日本一の座を三越から奪い、70年代中ごろまでに小売業の売り上げに占めるスーパーと百貨店のシェアも逆転することになった(日経流通新聞1993:21-24)」(P272)。

⑤高校進学率の上昇
「もう1つの重要な点は、所得の上昇が高校・大学教育の普及をもたらしたということである。高度成長開始直前の1954年における高校進学率は50.9%(男55.1%、女46.5%)、大学・短大進学率は10.1%(男15.3%、女4.6%)であったが、1974年には高校進学率90.8%(男89.7%、女91.9%)、大学・短大進学率34.7%(男39.9%、女29.3%)へと上昇している。成長の成果としての所得上昇は、人々の教育機会を大きく広げたのであった。とりわけ特徴的なのは、高校においてわずかながら男女間の進学率が逆転していることである。大学・短大進学率における男女間格差は依然として存在し、また女性は短大に進学する比率が高かったが、高校教育の普及はとくに女性において顕著であり、就職・結婚・出産育児などの女性のライフコース(個人が年齢を重ねるとともにたどる道筋)のあり方にも影響を与えることになった」(P273)。

⑥ 衰退産業
「他の先進諸国の繊維産業が賃金の安価な後発国の追い上げによって競争力を失っていったのと同様、日本の綿業もかつての基幹産業としての地位を失い、斜陽産業への道をたどることになったのである。
高度成長期に競争力を失い、衰退した産業のもう1つの代表例は石炭産業であろう。戦前・戦時期における石炭産業は重要な1次エネルギー源を供給する産業として経済全体のなかできわめて重要な位置を占めていた。1950年代に入ると国内石炭産業の高コスト体質が他産業の成長を制約していることが問題となった。また、50年代中ごろからは第2次世界大戦中に中東で発見された優良油田の開発が進み、「1ドル原油」とよばれた低価格の石油が豊富に供給されるようになる。タンカーの大型化が石油の輸送コストを大幅に引き下げたこともあり、50年代末には熱量1キロカロリー当たりの価格でみて輸入石油が国産石炭を逆転し、エネルギー供給源の石炭から石油への転換が進んだ。1次エネルギー供給に占める石炭の割合は1955年の49%から65年の27%へと低下し、石油は20%から58%に上昇した。いわゆるエネルギー革命の進展である(日本エネルギー研究所2005)」(P274)。

『世界経済史1600-2000』第6章は2009年発行であり、高度経済成長から2000年までの「平成不況まで」を扱います。高度経済成長期(1955-73年)に次ぎ、「高度経済成長の終焉と構造調整」(1974-91年)、「バブル経済とその崩壊」(1991年~)が続きます。
社会的ひきこもりの発生は高度経済成長期に始まりますが、高度経済成長期以降の経済事情も社会的ひきこもりの発生に深くかかわります。資本の海外進出と国内産業の衰退=就業条件の悪化(就職難)、ブラック企業の出現などはその最たるものです。
他方ではインターネットの爆発的な普及が起き、情報社会に向かいますが、それは別に扱います。『日本経済史1600-2000』からは、次を挙げておきます。
「産業構造のもう1つの重要な変化は、サービス産業の重要性が高まったことである。…1973-85年におけるサービス産業の年平均実質成長率は4.4%と製造業全体(4.2%)を上回る水準を記録した。また、就業者数も1960年代からしだいに増加する傾向にあったが、1970年に46.6%であったサービス産業の就業者構成比は80年には55.5%へと大きく増加している。
個人消費におけるサービス支出の費目別構成比をみると、70年代には住居、保健医療、被服および履物サービスがシェアを低下させ、逆に交通通信サービス、教育サービス、教養娯楽サービスがシェアを高めた(佐和1990:47,66-67)。自家用車保有の増加にともなう自動車関連サービス、塾・家庭教師・予備校による補習教育の普及、スポーツクラブやカルチャーセンターの月謝支払いの増加など、国民生活の変化に対応したサービス支出の高まりが見られ、経済のソフト化・サービス化といる議論が盛んになるのもこの時期以降のことであった」(P291)。
サービス産業は個人の必要性や好みに従って多様に発展しました。これもゆたかな社会の一部でしょう。
この高度経済成長期を体感した世代が不登校・ひきこもりを経験したのではありません(例外はあります)。この人たちの子ども・ジュニア世代に不登校・ひきこもりが生まれたのです。それも世代のなかの少数です。
しかし、時代の空気や影響は1960年代後半を子どもとして生活した人に広く表われます。そこに本人の先天的(遺伝的な体質・気質)、後天的(家族・学校・同世代関係・社会環境)な要件が重なって不登校やひきこもりを経験したのです。若林繁太先生のいう貧しい時代やゆたかな時代が高度経済成長期の前後の世代の違いを確認できます。

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